ウンコは己の姿を映す鏡、阿弥陀の世界は生態系

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自分が帰る場所がわかっていれば、死は怖くない?

伊沢 死に対する恐怖の一番の原因は、死後どうなるかわからない不安だと私は思うんです。

本多住職 存在が消えるという感覚じゃないでしょうか。

伊沢 存在が消える恐怖と、死後のことがわからない恐怖がある。この2つを解決できれば、人は死の恐怖から逃れられるのではないかと思うんです。存在が消えることに関しては、物質として終わってしまうので、私は火葬に反対です。死んでも土に還ることができれば、新しいいのちとして蘇ることが見えたので、物質の問題は解決が見えてきました。

もう1つは、死後どうなるのかがわからないという恐怖ですね。それに関しては、ウンコを観察して解決の糸口が見えてきました。死体とウンコを同一として考えると、死体の行方が見えてきます。そこが糞土思想の大きな力になっているんじゃないかと自分では思うんです。

伊沢 それから、生きている間は食べて他の命を奪っていますが、死ねばこれ以上殺生しなくていい。色々な意味で死をプラス面から受け止めれば、必要以上に怖がらなくて済むのではないか。

なぜそんなことを考えているかというと、今世界では人口が増えすぎて生態系のバランスが崩れているので、人間を減らすしかない。どうやってやるかが一番の課題だと思うんです。一つは、ある程度まで生きたら、その後は無理な延命をしたりせず、死を積極的に受け入れることが大事になると思う。

今生きている人間のことだけを考えず、これからの世代のことを考えたら、人口がこれ以上増えると環境がより悪化して資源が足りなくなり、地獄になる。戦争や死刑などで人を減らすというのは辛くて嫌ですが、他の形で納得して死を受け入れられるような「しあわせな死」を見つけたいのです。

本多住職 まず死んだらどうなるかという前に、外したらいけないことがあります。どこから来たのかがはっきりしないから、どこへ行くのかがわからないんです。帰る場所がわからない。

伊沢 母親の体ということではなくて?

本多住職 もっと深いことです。母親の体だけでは縁が成就しませんから。私のいのちはどこからきたのか。わたしのいのちはどこからはじまったかというと、いのちといのちのつながりの中から生まれたのです。

私が生まれるということは、1億円の宝くじが1万回当たるより難しい、あり得ないような出来事です。繰り返しますが、そういうあらゆるものが関わりあって、私となって生きているんですよ。

目に見えない大きないのちの世界(浄土)がまずあって、その中で縁あって私がこの身を与えられた。だとすればこの世界の中でいただいた私を精一杯生きていこうとする。全部が縁なんですよ。周りの関係も含めて自分なんです。

本多住職 たとえば私が学校の教員を途中で辞めずにずっと続けていたら、お寺の住職にはなっていません。外見は同じでも、中身は今と違う人間になっているはずです。だから自分も、出遇っていくものなのです。生まれ続けると言ってもいいでしょう。

自分も教えもすべて縁によって出遇う。だから目には見えないけど、大きなつながりあった世界(浄土)から私が生まれ、その世界の中で私は今生きている。

私の生身の体には賞味期限があるので当然いつか尽きますが、尽きても浄土の中に私はいます。それが浄土に帰っていくということです。わかりやすいように、浄土を大きな海に例えてみますと、海には波がたちます。

波は、縁によって与えられた一人ひとりのいのちで、波に大小があるのは寿命が違うからです。その人のいのちがなくなったということは、波が消えるということ。消えた波は元の大きな海に帰ります。

ですから私たちは浄土から生まれ、浄土に支えられて、浄土に帰るのです。ちょっと実体的になってしまいましたが、わかりやすくたとえると、そういうことだと思います。

伊沢 自然イコール浄土で、「死はそこへ帰ること」と考えると、これはちっとも苦じゃないですね。

本多住職 自然ということで一つ言うと、仏教では「自然(じねん)」と言います。自からそうなっているということですが、親鸞聖人は「自(おのず)から、然(しから)しむ」と読まれています。それは人間のはからいを超えた阿弥陀様のはたらきを表しています。これを「願力自然」といいます。

「業道自然」は人間の迷いによる行為の結果は自分が受けるということです。「無為自然」とは、分別を離れた絶対無限の境地(世界)です。

願力自然によって、業道自然を無為自然に転じられるから、親鸞聖人は「自から、然しむ」と読まれているのです。「業道自然」を転じて、あらゆるものは「無為自然」で成り立っていることに気づかされて、ありのままの私を尊い存在として受け止め、人生を生き抜いていく力を与えるのが「願力自然」です。

人間は与えられた縁のままに自分を引き受けていくことが、人間の本当の願いです。立派になって安らかに死んでいくのでなく、死にたくないとわめいてもいいので、ちゃんと帰っていける世界があるとうなずかされれば、死は生の円満成就ですね。

<了>

(構成・写真/大西夏奈子)