――自分は死にたくないという煩悩や苦しみを避けようとする心が、人間をかえって苦しめていると。
本多住職 死の恐怖から逃れようとすればするほど不安になりますね。死の恐怖が転じられて、むしろ死によって生が見えてくる教えに出遇わないと、根本的救いにならないでしょう。ここで気をつけなければならないことは、煩悩はけっしてなくならないのです。
なくならないから、本願が寄り添うのです。苦しむことをやめて立派になりなさいという教えではない。人間はどこまでも救われがたき身です。それを正面から見つめてごまかさなかったのが親鸞聖人です。
本多住職 ですから、本願によって気づかされることが大事であり救いなのです。自分はどこまでもエゴがあって本当に救われないと気づかされることが、そのまま本願の救いにあずかることなのです。気づかされることは、煩悩から解放されることです。
しかしまた煩悩が自分を苦しめる。そしてまた本願に出遇う。人生は終わりなき歩みです。それが、親鸞聖人が言われる「悪人」の自覚ということで、「善人」はそのことに気づいていない人です。
だから「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」(『歎異抄』)と教えられてきたのです。
――浄土真宗では、病気も「縁」だと考えるのですよね。
本多住職 死も病気も「縁」なんです。「死因はなんですか」という問いの唯一の答えは、この世に生まれてきたことです。交通事故や病気が縁で亡くなるのです。死ぬのは生まれたことが因で、死に至るのは縁ですね。因縁果の道理です。病気になるのも縁です。
伊沢 この対談企画を一緒に進めている大西さんとの最初の出会いは、まさに縁でした。私も参加していた福島原発事故の被災地を巡るツアーに、彼女が前夜に酒を飲みすぎて寝坊し、集合時間に間に合わなかったんです。遅れたんだけど別ルートで追いかけてきて、途中でギリギリ合流できた。
こんな変なのがいるんだって興味を持ったんですが、その一方で、失敗してもなんとか辻つまを合わせてしまうだけの強さもあるんだと感じました。その出来事がなければ単なる参加者の1人としか意識しなかったし、後で『葉っぱのぐそをはじめよう』の編集を頼むこともなかったと思います。
本多住職 それも彼女が、それだけ酒を飲むという縁があったわけで。
――お酒の強いモンゴルの友人と飲みすぎてしまったんです……。
本多住職 言い方を変えると、そのモンゴルの友人と深酒しなければ、伊沢さんとも糞土思想とも出遇うことはなかった。人は縁を憎んだりもしますが、自分でその縁の良し悪しを判断しようとするのも分別です。良かろうと悪かろうと、縁は縁なんですね。それが生きるということではないでしょうか。
――縁だと気づくと、人間は執着から解放されるものですか?
本多住職 諸縁によって成り立つ自己自身を縁起的存在であると自覚すれば、すべて自分の意思の自由でやっているようだけれども、意思の自由というものは徹底したものではないと気づかされると、今までの自分の執着から解放されるのです。すべて縁に依るのです。
伊沢 縁をしっかり手繰り寄せるか、断ち切ってしまうかで、人生は変わる。こんなにチャンスがたくさん転がっているのに、それを生かさない人が多くて、もったいないなとよく思うんですよ。
――縁という考えに救われる人は多いと思います。その一方で、全てを縁で片付けてしまうと、そこから前進しないようにも思うのですが、それについてはどう考えたらいいのでしょうか。
本多住職 それも人間の自我分別の問題です。縁で片づけてしまう場合は、本願の教えが身に響いていないのです。さきほども言いましたが、人間の煩悩は消えませんから、そう考えてしまうこともあるでしょう。
しかし、本願にふれれば、縁で片づけていた自分の凡夫性に気づかされて、縁を縁として、その現実をしっかり受け止めて生きることができる意欲があたえられるのです。本願の意欲と言ってもいいでしょう。