ウンコは己の姿を映す鏡、阿弥陀の世界は生態系

阿弥陀の世界とは、すなわち生態系である

本多住職 西洋だと自分を独立した存在としていますが、仏教では独立した「私」という存在はどこにもなく、あらゆるいのちに支えられた存在と受け止めます。私のいのち自体は、どこから来たのかわからない深いものなんです。

色々ないのちのつながりから生まれたのが私のいのちであり、私はいのちの代表者。あらゆるいのちはつながりあい支え合っているから、どのいのちも尊い。健常者も障害者も日本人も外国人も、草も木も動物も皆つながっていて、自然も含めた大きな世界の中に私たちはいつも支えられているんです。

そのことを日常忘れて生きていますが、根底において、つながりあい支え合っている世界をよりどころとして生きていきたいという願いが胎動しているのです。それを「本願」という言葉で表現します。

伊沢 本願をわかりやすい言葉で言うと何でしょうか?

本多住職 人間の自我分別は迷いの構造を持っています。しかし、それに気づかないどころか、わかったつもりになって、自我を絶対化しています。これを「無明」といいます。本願はその私たちの知恵を否定するはたらきであり、自我分別を翻して、そのままの自分を受け止めていく意欲をあたえるはたらきです。

たとえば病気になって、もう生きていけないと自我では思っていても、本願にふれると、まるごと自分が受けとめられ支えられて、病気のまま生きていく意欲を与えられていくような……。

さきほど、つながり合って支え合っているいのちの世界について語りましたが、その世界は無分別の世界です。だからどのいのちも尊いのです。分別する人間は無分別(ありのまま)にふれて救われるのです。関係を自己として生きているのが真実で、独立した自己などなく、分別でない世界でつながっているのです。

あえて独立と言う言葉を使うなら、これが仏教でいう独立した人間と言うのでしょう。その無分別の世界を「浄土」と表現してきたのです。浄土とは本願が南無阿弥陀仏と言葉になって呼びかける世界と言ってもいいでしょう。

伊沢 本願と阿弥陀様との関係は何でしょうか?

本多住職 阿弥陀様の本願と言いますね。阿弥陀様がそのまま本願です。阿弥陀様とは法(教え)そのもので、実際に存在する方ではないのですが、無分別の真実の世界に導く手立てとして、阿弥陀様という形であらわしています。無分別の世界(真如)の自己表現が阿弥陀様と言われた方がおられますが、その通りだと思います。