ウンコは己の姿を映す鏡、阿弥陀の世界は生態系

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本多雅人(蓮光寺住職)× 伊沢正名(糞土師)

昨年、真宗大谷派の機関誌「同朋新聞」から伊沢さんへ取材依頼がありました。そのときにインタビュアーを務められた蓮光寺(東京都葛飾区亀有)本多雅人住職との対話を通じ、伊沢さんは浄土真宗と糞土思想は考え方の根っこが似通っていると実感したそうです。

今回は逆に伊沢さんからの依頼で、本多住職と再び対談。まずは伊沢さんが、浄土真宗の教えを糞土思想的にアレンジしたという言葉を、住職の目の前で広げました。

ウンコの僕(しもべ)である私

うんこの僕 糞土師が説く

糞土新宗 糞陀の教え

他力糞願 悪人糞機

うんこは己を映す鏡

糞土師

伊沢 これは真宗の教えを糞土思想的にアレンジした言葉を書いたものなんです。本多さんにご覧いただいてもいいですか。

本多住職 ……いいんじゃないでしょうか。

伊沢 私は今まで、宗教はすごいものだけど理解が難しいと感じていました。それをウンコでわかりやすくできないかと思いまして……。

本多住職 誰もが本当は宗教的感覚を持っていますが、宗教に出遇う縁がないだけなんです。ところで1つ気になるのですが、この「糞土新宗」の部分は、「糞土真宗」としたほうがいいですね。

伊沢 え!? 「真」の字を使うのはあまりにも申し訳なくて、「新」に変えたんですが……。

本多住職 「新」にすると、内容がここだけ違ってしまうんです。真宗とは「真のよりどころ」ということですから、「新」では伝わらないですね。

伊沢 確かにそうですね。私、真宗に怒られるかなと思って遠慮しちゃったんです。

本多住職 だって糞という言葉で何かを語りたくて、「悪人正機」の部分は「悪人糞機」と書いたんですよね。本願の教えに伊沢さんが深くうなずいて、この言葉を使ったはずです。

そういう思いで「糞土真宗」としたのでしたら大丈夫ですよ。遠慮していたらウンコに背くことになります。

伊沢 ありがとうございます。それから「ウンコの僕(しもべ)」というのは、親鸞聖人の上には阿弥陀様がいました。糞土師の上にはウンコがいる。ウンコから教えてもらっているので、私はウンコのしもべです。

本多住職 糞土師が教えを説くのではなくて、あくまでウンコが説いているんですね。

伊沢 そうです。私は伝道役ということなのですが、別の字のほうがいいでしょうか?

本多住職 「伝える」のほうがいいですね。「説く」だと、僕の糞土師が自分で教えを説くことになりますから。

伊沢 そうですね。ウンコの教えを広げるとか、解説するという意味の言葉があればいいのですが。

本多住職 「解」でもいいかもしれません。仏教でも、仏の教えを聞いてうなずくという意味で「了解(りょうげ)」という言葉を使います。

伊沢 よくわかりました。ここは「解く」にします。

本多住職 「解」はとても大切な言葉です。ただし、僕たちは教えを頭で聞いた場合、換言すれば自我で受け止めた場合、教えをいただいたことにはなりません。教えは理解してわかるものではありません。だけど体に響いてくることってありますよね。これを「体解(たいげ)」と言います。

自我を突き破って身に響いてくる、聞くのではなく聞こえてくるということです。これが本当に教えを聞くということなのです。そういうことから「解」のほうがいいと思います。

伊沢 いや、そんなふうに言っていただけて嬉しいです。

本多住職 阿弥陀様は私につねに呼びかけてくれますが、私から阿弥陀様は手に届かないのです。ですから、伊沢さんがウンコと一体化したらだめなんです。ウンコと共に歩んでいても、ウンコのほうが超越しているのです。

ウンコからの呼びかけにうなずきもし、またウンコに教えられたなあとか、ウンコに背いちゃったなって、つねに気づかせてくれる存在です。つまりウンコは自分を映し出す鏡なんですね。

<修正後>

うんこの僕 糞土師が解く

糞土真宗 糞陀の教え

他力糞願 悪人糞機

うんこは己を映す鏡

糞土師