SDGsを盲信していいのか?(前編)

酒井敏(静岡県立大学副学長)×伊沢正名(糞土師)

ここ数年で一気に浸透したSDGs。しかし「本当にSDGsに突き進んで大丈夫?」と疑問を呈するのは、京都大学の変人教員による講演会「京大変人講座」を主宰し、現在は静岡県立大学副学長の酒井敏さん。SDGsとほどよく向き合う方法から、自然界の構造、教育のあり方まで、盛りだくさんの対談内容を、前編・後編でお届けします。

あなたは穴を掘り続けられるか

伊沢 今回酒井さんに対談をお願いしたのは第一に、「京大変人講座」という面白いことを始めたことにクラクラッと来て、それに加えて科学者であり教育者でもあることに強く惹かれたためです。いろいろお話しを聞かせていただきたいので、よろしくお願いします。

それにしてもこの部屋、いろんな工具などが所狭しとひしめき合い、壁一面に工作道具がぶら下がっていて、とても副学長室とは思えませんね。酒井さんは一体全体、何者なんですか?

酒井 いえいえ、そんな大した者ではないんですが(笑)。

まずは伊沢さんに、こちらを見ていただきたいんです。谷川俊太郎さんの『あな』という絵本なんですけれど。主人公のひろしくんが、「日曜日に何もすることがなかった」からといって、ただひたすら穴を掘り続ける物語なんです。

あな(谷川 俊太郎 作 / 和田 誠 画 福音館書店)

伊沢 普通に考えれば、「なんで穴を掘るの?」と思ってしまいますね。

酒井 まさにそうなんです。この絵本を高校生に読み聞かせたことがあるのですが、みんな頭の中がハテナだらけになってしまいました。その後に「自分も穴を掘ってみたいと思ったか」と問いかけたのですが、200人中2人しか手が上がらなかったんです。

正直私は、この状況をかなり「ヤバいな」と感じたんですね。

主人公のひろしくんは、「よくわからないけれど面白そうだからやってみよう」と穴を掘り続けています。一方で、「目的や意味がないことは、やる必要がない」と考える人たちにとって、その行動は理解不能なんですね。

ですが、歴史に名を残すような研究や発明は、気になることや好きなことをやり続けた結果、「できちゃった」というケースが多いんですよ。それを、「メリットがわからないならやりません」と言っているようでは、起業家や研究者なんて育たないと思うんです。

酒井敏(さかい・さとし)静岡県立大学副学長。1957年、静岡県生まれ。80年、京都大学理学部卒業、81年同大学院理学研究科修士課程中退。京都大学教養部助手、同助教授、同大学院人間・環境学研究科教授を経て、2021年より現職。専門は地球流体力学。研究の傍ら、京都大学選りすぐりの変人教員・学生による講演会「京大変人講座」を主宰。著書に『カオスなSDGs グルっと回せばうんこ色』(集英社)、『京大的アホがなぜ必要か カオスな世界の生存戦略』(集英社新書)、『都市を冷やすフラクタル日除け』(気象ブックス)、『京大変人講座』(三笠書房) などがある。

伊沢 明確な目的なく続けていたら、すごいものができてしまったという感覚は、私もよく分かります。

私が野糞を始めたのは74年の1月1日ですが、その時なぜか手帳に、「新春キジ始め、富谷山」と書いているんです。キジというのは山屋用語で、野糞のことですね。その後もずっと野糞をする度に、した地名と共に手帳に書き込んでいました。何年後かにその事を、「オレ、なんでこんな変なことしてるんだろう」と思ったのをハッキリ覚えています。でも、止められなかった。

ところがそれが、糞土師になってから凄い力を発揮したんです。講演会などの自己紹介で、今日で何回目の野糞をしたと話すんです。数字には強い説得力があるから、野糞への並々ならぬ思いが伝わるんですね。ちなみに今日は早朝一番の電車で来たので、まだ真っ暗で林へ行く余裕もなかったため、家の庭で16220回目の野糞をしてきました(笑)。 

でも当初は野糞なんて恥ずかしいものだと思っていて、10年以上ずっとひた隠しにしていたくらいです。

「地球を救う」は本当か

酒井 伊沢さんにも、野糞を恥じていた時期があったとは、驚きました。

伊沢 いや、こんな私にだってある程度は常識的な羞恥心はありますよ。じつはこのことをカミングアウトしたのは1986年のことで、信念を持って野糞を始めてから、なんと12年後のことです。

酒井さんの本の中にもありましたが、京大的変人の代表選手として、数学者で京大名誉教授の森毅先生が出てきますね。その森先生が編者になったエッセー集『キノコの不思議』(光文社)の30名の著者の一人として私も取り上げられたのですが、森先生と対談した中で初めて野糞をしていることを告白したんです。そのことを森先生も面白がってくれたお陰でだいぶ自信がつき、今に至っています。

酒井 なるほど、そういう経験があったんですね。やはり、目的ありきで何かを始めるだけでは、辿り着けない境地がありますよね。

こうした「目的至上主義」の考え方も相まって、最近の学生が傾倒しすぎていると感じるのが、SDGsなんです。若者らしい正義感から「こうあるべき」が先行しすぎて、「とにかく二酸化炭素を出すな」「地球にやさしいものしか買わない」というように、SDGsを真っ直ぐに受け止めすぎている学生が少なくありません。

ですが、世の中の課題はSDGsという綺麗事だけでは解決できないし、SDGsを信じすぎて自分の判断軸が失われてしまうのは危険。そんな問題意識から書いたのが、『カオスなSDGs グルっと回せばうんこ色』(集英社)だったんです。

伊沢 『カオスなSDGs』、付箋だらけにしながら読みましたよ。私もSDGsは、上っ面のきれいごとだけの概念だと常々思ってきました。何しろSDGsの6番目は、「安全な水とトイレを世界中に」というもので、これでは人と自然が共生して持続するための野糞が否定されてしまいます。持続可能な世界を目指すんだったらむしろ、きちんとした維持管理も出来ず、いずれはやっかいなゴミになるトイレを世界中にばら撒くんじゃなくて、先ずは正しい野糞を全世界に広めることが大切ですよね。

酒井さんは、SDGsは、一方を尊重すればもう一方が成り立たないという、「トレードオフ」的なものであると書いていますよね。

酒井 ええ。たとえば、SDGsの文脈では悪者扱いされている二酸化炭素は、植物からすれば光合成に必要なご馳走です。その光合成から排出される酸素が、私たち人間にとっては不可欠なもの。人間の都合だけを考えて脱炭素を叫んでは、自然界のより大きな循環を見逃してしまいます。

もっとも、地球にとっては二酸化炭素や酸素が増えようが減ろうが、特に問題はありません。現に最初の生命が誕生したとされる40億年前は、大気中に酸素はほとんどありませんでした。

また地球温暖化が人間社会にとって、本当に害悪なものなのか、という点も検討の余地はあります。たとえば、増え続ける人口の食糧を得るためには、地球が寒くなるよりも、暖かくなる方が有利です。作物は一般的に、寒冷な気候よりも温暖な気候の方がよく育ちますからね。

このように、全てものには表と裏があります。これはSDGsも例外ではありません。それなのに、「これが絶対に正しいんだ」とみんなで同じ方向に突っ走っていく最近の傾向に、危機感を抱いているんです。

伊沢 非常に共感しますね。一方で一つ気になったこともありました。酒井さんは著書の中で、地球温暖化の原因を、人間の活動によるものと断定していいのだろうか、という問題提起をしていますね。その理由は、気象メカニズムは非常に複雑で、明確に温暖化の原因を確定するのは非常に難しいからである、と。

一方でここ数十年の地球温暖化は、この短期間で急速に進んでいますよね。やはり自然の摂理には反しており、人間活動が原因という説が最も有力なのではと考えているのですが、どうでしょう。

酒井 私ももちろん、地球温暖化に人間活動が関係ないとは全く思っていません。一方で、「地球温暖化が人間活動に起因する」との研究や言説に、疑問を呈するだけで悪者扱いされるような風潮を、危ないと思っているんです。

それを踏まえた上で歴史を振り返れば、人間活動に関係なく、短期間で気温がかなり変動していた期間はあります。約1万年前、氷期が終わった後、ヤンガードリアス期と呼ばれて急激に寒冷化が進んだ期間がありました。その移行期には、数年で10度近く気温が変わっていたんです。なぜそのような劇的な変化が起きたのかは、明確にはわかっていませんが。

ここから得られる学びは、自然界はそれほどの変動をするものだということです。人間が存在していようがしていまいが、変動することを前提に考えるべきです。安定しているのが異常かもしれない、くらいの気持ちでいるのが適切なのかもしれません。

カオスなのに上手くいく生態系

伊沢 確かに人間活動とは関係なくても自然は変化する、という前提で考えるべき、というのはその通りですね。

一方で、人間が生きていく上でもっとも大切なことは何かといえば、「どれだけ喜びを得られるか」ではないかと私は考えているんです。地球温暖化が進めば、暑すぎて住めない地域が出てきたり、絶滅する生物が出てきたりしてしまう。これでは、喜びとは真逆になってしまいます。

酒井 おっしゃる通り、私も自分自身の喜びを追求することが、一番大事だと思っています。自分の喜びを傍に置いて、「こうでなければいけないんだ」と正論を振りかざしても、うまくいかない。

それに関して、印象に残っているエピソードがあるんです。経営者育成を促す、学生向けのセミナーを企業と合同で開催した時に、とある高校生が「世界から貧困をなくせるスタートアップを起こしたい」と話していました。現に彼は貧困を体感するために、インドのスラム街まで視察に行ってきた、と。

もちろんその志は素晴らしいし、高校生でインドまで行ってしまう行動力も卓越しています。ですが彼に、「生きていて何を幸せに感じる?」と聞いてみたら、「世界から貧困をなくすことが幸せ」と答えたんです。これに心配になってしまって。

「他人の幸せが自分の幸せ」状態では、自分に何もないことになってしまいます。他人の幸せより先に、自分自身の喜びや幸せを考えなければ、どこかで心が折れてしまうと思うのです。

伊沢 そうですね。私も声を大にして言いたいのは、自分自身が楽しいし、気持ちいいから野糞をし続けているということ。自然環境のためだけに、イヤイヤやっているわけではありません。何かを続けて大事なことを成し遂げるには、喜びを起点に行動することが欠かせないですよね。

酒井 ええ。そもそも、自然界には目的なんて存在しません。計画性も、意図もない。自然界の参加者のそれぞれの欲求や喜びの追求が交わり合って、全体としてはなぜか均衡がとれている。このカオスこそが、自然なのです。

このように、誰も全体像を設計も把握もしていないのに、全体的に秩序だっている秩序のあり方は、スケールフリーネットワークと呼ばれています。これは「基準(スケール)」が「ない(フリー)」という意味だと思えばいいでしょう。この構造は、インターネットや神経細胞にも共通します。

スケールフリーネットワークの逆は、中央集権的な、どこかに権力が集中している構造です。そんな構造は、一時的には強く機能するケースも多い。ですが、一度中心が潰れてしまえば、全てが壊れる脆さがあります。一方でスケールフリーネットワークは、中心がないからこそ、全体として瓦解しない強さがあるんです。

伊沢 よく分かります。キノコや変形菌なども、スケールフリーに広がっていきますね。

この対談ふんだんに以前登場してもらった出川洋介さんが、「菌類に学ぶ平和な世界」の中で同じような事を言っています。キノコの菌糸体も変形菌の変形体も、どこにも中心がなく全部同じで平等で、その一方で都合の良い事があるとそこが中心になり、皆が力を合わせてそちらへ進んでいく。だから何処かがおかしくなっても全体としては大丈夫で、しかもヒエラルキー(軍隊のような上下の階級)もなければ格差もない、きわめて平和な生き方なんだと。

酒井 そうですよね。生物が作るネットワークは、スケールフリーな構造のものが多いんですよ。

スケールフリー構造は、全体をコントロールしないからこそうまくいく仕組みです。そう考えると、まさにSDGsのようなゴールを掲げて、人間が目的を持って自然をコントロールする姿勢が、本当に正しいのかという疑問も生まれるわけです。

<後編に続く>

執筆・撮影:金井明日香