ウンコは己の姿を映す鏡、阿弥陀の世界は生態系

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――阿弥陀様は蓮台の上に立っていますね。

本多住職 蓮は綺麗なところでは咲かないのです。泥の中に咲く。つまり苦しみや悲しみの中でしか咲かない。ということは何を言わんとしているのかというと、まず人間には苦悩するということがあります。自我分別ではどうにもならないときに本願が顔を出すのです。

つまり苦悩を縁として、受け止められない現実を受け止めて立ち上がっていくということです。たとえば、大切な人が亡くなると残された人は悲しみ苦悩します。泥の中です。

しかし、実は亡くなった人のいのちは、灰になったり、霊魂になったりするのではなく、今も大きないのちの世界の中にいて、残された人の中にもいる。亡くなった人は一人ひとりの中に生きている。また、大切な方の死を通して自分も死ぬのだと実感し、どう生きたら本当によかったと言えるかが問われるご縁をいただきます。

だから泥の中で沈んでいくのではなく、沈みそうな私にそう本願が呼びかける。その人間の姿こそ真の救いであり、尊さです。それを阿弥陀如来という形で示して下さっています。本当に尊いことだから「ご本尊」と言うのです。

伊沢 私は死んでも、生態系や菌類のおかげで土に還ることができると知ったときに、阿弥陀の世界というのは自然の生態系なのではないかと感じるようになりました。それから、糞土思想と阿弥陀の世界との共通項を見出せるかもしれないと思うようになって。

私が死を怖くなくなってきたのは、自分自身が死に近づく経験をして、生態系という形で本願の世界に少し近いものを感じられたからかなと思います。

実際に自分のウンコの変化を追跡調査したら、価値のないカスであるウンコが他の生き物に食べられ喜ばれて、いのちが広がっていくことを知りました。単に頭の中で考える理論を越え、循環の様子をこの目でとらえられたんです。

死ぬと自分自身の肉体は終わりかもしれないですが、食べられたり、土に還ることで、自分が生きるためにいのちを与えてくれた生き物たちに対して恩が返せる。自分が生きるために他の命を奪い続けることも終わる。それがわかってから、死への不安が軽くなったんです。

本多住職 「恩が返せる」とはいい言葉ですね。私たちも「報恩感謝」ということを大切にしています。無分別の世界、無量寿の世界といってもいいですね。

そこから生まれて私になったのだから、この私を支えてくれた世界に対して恩返ししないといけない。それが、現実を受け止め精一杯生きるということにつながっていくんですよね。

伊沢 帰り道が見えたので、今は死を怖がらなくてもいいって。本当に大事なことを精一杯生きれば、自分の人生が終わっても納得できると思えたんです。

本多住職 親鸞聖人は、死んだら浄土に行くとは言いませんでした。私たちは今も生態系の中で生かされていて、死んだらその生態系に帰っていくだけです。その生態系から生まれ、生態系に支えられ、生態系に帰っていく。

浄土の世界もそういうことですね。必ずいのちは継承されていく。ウンコはただの排泄物ですが、生きていて、次のいのちにつながっていくんですね。全部、いのちのつながりが巡っている。

伊沢 本多さんから仏教のお話を聞いて思うのですが、とても深いし、納得することが多いんですよね。しかしなかなか世間一般に広まらないのは、仏教の世界が観念的で難しいからではないかと思いました。

それに対して、私がやっているのは生態系の循環をウンコで理解すること。そういう意味で糞土思想は、今まで観念の世界にあったいのちの循環が、ウンコによって可視化されたと言えるのではないかと思うんです。