念仏を称えることには意味があるのか?
伊沢 念仏については、意味をわかって称えている人とわからない人がいると思うのですが、後者の場合、称えることに意味があるのでしょうか。
本多住職 わからなくても称えるのが大事ではないでしょうか。称えたらどうなるか、と考えるのは人間の知恵です。
伊沢 ああ、それも分別なんですね。
本多住職 すでに私たちは南無阿弥陀の世界の中にあるということです。それに気づかされるかどうかですね。南無阿弥陀の世界を生態系に例えると、まず自分がいて、次に生態系という自然があるのではなく、まず大きな自然があって、その中に自分が生かされている。
この生態系と同じように、念仏の教えのある家庭環境で育ってきた人は、まず自分がいて、念仏の教えを聞いて自分の足しにしようとするのではなく、まず念仏があり、その中に自分がいるという生活をしています。念仏を称えるといっても、発音で救われるのではなく、具体的には教えに聞くということです。
現代人はまず自分がいて、他と関係を結んでいこうとしますが、人間には分別があるので、利害関係がはたらいて本当の関係はなかなか見出せないものです。現代はエゴがモンスター化してしまい、自然との関係も人間との関係も切ってしまったから、現代人は孤独や虚しさを根源的に抱え、依存しないと生きていけません。
経済や政治のシステムが巨大化し、そこでいかに成果をあげるかが重要になって、それを失うと自分がなくなってしまうような錯覚を持っているのですね。
ウンコになって死を考える
伊沢 死の恐怖から逃れるために、宗教に救いを求めて入る人も多いですよね。でも実は私、5年前に舌がんになったときも、交通事故にあったときも、いつか死ぬというのが理解できて不安に思いませんでした。
本多住職 伊沢さんはウンコになって考えると見えてくると仰っていましたね。
伊沢 人間社会では価値がないと見下していたウンコが、生態系の中では新たないのちを生み出す凄いものなんだと気づけて。生き物は死んだら終わりだと思うのは、人間が自分中心に考えるからですよね。
大自然の目線で考えたら、自分だって他の生き物のいのちを奪って生きているし、逆に自分が死ぬ段階になったときは、他の生き物のいのちになって蘇るとわかった。
土に還って他の生き物のいのちになり、輪廻転生みたいにいのちがどんどん続いていくと思ったら、がんでも交通事故でも、まあいいかってすごく楽になったんです。ですから、自分の死体を焼かれて灰になるのだけは嫌なんです。
本多住職 死にたくないという気持ちも煩悩です。でも煩悩が縁となって、なぜ生きるのかという問いに転じられていくことが大切です。
僕たちは分別するから、生と死を分けて、死のほうを見ないようにしますが、「生もわれら、死もわれらなり」(清沢満之)です。死を寒さ、生を暖かさと言い換えると、寒さに震えたことがある人ほど本当の暖かさを知っています。
ですから「生死一如(しょうじいちにょ)」です。法事は亡くなった人を縁として、残された人たちが、「生きるとは何か」「人間とは何か」という本質的な問題に向かい合う場でもあると思います。
残された人が本当に生きるということはどこで成り立つのかについて尋ねてくれたら、亡くなった人は良かったなと思うでしょう。供養というのは、亡くなった方が喜ばれること、つまり皆さんが救われることなんですよ。