糞土師の独談(中編)

前編では、野糞との出会いや糞土師を名乗るまでの道のりを語りました。そして中編では、糞土師として特にフン張った出来事の幾つかをお話しします。   

「ついに糞土師になった!」と実感

糞土師を名乗った2006年にはすでに、野糞を始めて32年の経験があり、それなりの考えと自信もあった。しかし糞土師として活動するには、多くの人を説得できるだけのきちんとした理論も必要になるよね。写真家としてプロ宣言するまでには、撮影技術の習得や課題もあって13年もかかったけど、糞土師になるときは意外な展開があったんだ。

糞土師として初めての著書となったのが『くう・ねる・のぐそ』。その本作りはすでに2004年の夏から始まっていた。原稿をほぼ書き上げた07年5月、担当編集者はいきなり、とんでもない課題を出してきた。

「ウンコは3ヶ月もあれば土に還ると伊沢さんは言っているが、写真家として写真に撮って証明するのが義務と責任じゃないですか」。忙しくて編集作業に取りかかれない彼は、時間稼ぎをしたいんだと直感したんだけど、確かに言われたとおりだった。野糞はしっかりやってきたけど、そのウンコがどうなったか確認したことは、一度もなかった。ただ漠然と、バクテリアに分解されて次第に肥えた土になっていくのだろうと思っていただけだったんだ。

元々、地中の虫から生えるセミタケなどの冬虫夏草の撮影では、土の中もきれいに断面を切って写すことも得意だった。しかしウンコとなると話は別だ。何しろウンコは柔らかくて形も定まっていない。おまけに分解が進めば土のようになり、周囲の土とどう区別すればいいんだろう。分からないことだらけだった。でも、だからこそ挑戦する価値も楽しさもある。とにかくやるしかない。そこで調査用の野糞を5月末からし始めたんだ。8月末からは掘り上げ調査を行い、10月1日までに全部で101点の野糞を掘り返して調査を終えた。

この様にウンコを綺麗に掘り上げて、表面を観察したら断面を切り、内部の様子まで調べ上げる。(伊沢撮影)

団粒土になった野糞跡に、その養分を求めて多くの木の根が伸びてきた。(伊沢撮影)

掘り返し調査を始めてすぐ、次々と目の前に現れる、想像もしなかった展開に度肝を抜かれた。ウンコは徐々に土に変わっていくんじゃなく、姿かたちも臭いも様々に変化していく。そしていろんな動物や菌類、植物が入れ替わり立ち替わりそこに現れたんだ。例えば臭いは、糞臭からヘドロ臭、エビ・カニ臭、傷んだ野菜臭、香辛料臭、そしてシメジや針葉樹の樹脂のような芳香へと変わり、最後は無臭になった。姿かたちは、どんなウンコでもまずはドロドロのヘドロ状になり、次に表面から固まり始め、やがて内部までチーズ状になって、最後はツブツブの団粒土になる。これはミミズが分解後のウンコを食べてさらにウンコをしたからで、その次はミミズを食べにモグラがやって来るんだ。イノシシがほじくり返して食べちゃったり、ウンコ全体がアリの巣になったり、ウンコをすっかり食べてできた大きな穴の中に栗の実が入っていたこともある。これはネズミの仕業だと思う。もちろんハエや糞虫はしょっちゅう来ていたよ。

分解が終わると大量の木の根が養分を吸収しに伸びてきて、芽生えがあったりキノコが生えたりして、新たな命の誕生まで目撃できちゃったんだ。この事実は、野糞の素晴らしさを確信できるところまで、一気に高めてくれた。遂に自信を持って糞土師を名乗れるようになったんだ。(*野糞跡掘り返し調査の詳細は、『ウンコロジー入門』または『くう・ねる・のぐそ』をご覧ください)

 だから物事というのは、とんでもない方向に発展していくんだよね。編集者の時間稼ぎの一言が、思わぬ新しい発見に繋がった。こんなことって世の中にはたくさん転がっていると思うんだ。こういう経験をしてるから、じっくり計画を練るよりも、まず思いつきでもやってみるんだ。やれば必ず結果があって、その時はダメかなと思っても、後で良い方に転がることって、いくらでもあるんだよ。だから慎重に物事を考えるより、迷ったらまずやってみる。そのことで後悔したことはなかったし、何かを経験するのにマイナス要素だけだなんて絶対にありえないよね。

連続野糞記録 4793日の顛末

 私にとって写真家としての最大の仕事が『日本の野生植物・コケ』なら、 野糞での最高峰は連続4793日の記録だね。その始まりは『千日行』だった。99年に年間野糞率100%を達成してから500日を超えて続いていた野糞は、2000年5月31日、下痢をしてうっかり漏らしてしまい、仕方なくトイレに入って途切れちゃった。屈辱の思いで便座に座りながら、今度こそは連続1000日を目指そうと、仏教の千日講や千日参りに引っ掛けて、決意も新たに野糞の『千日行』を始めたんだ。

しばらく順調に進んでいた野糞も、900日目あたりから雲行きが怪しくなってきた。山奥の急斜面で谷底に転落しそうになったり、南米旅行ではホテルの中庭で、渋谷の街中では交差点の植え込みの陰で野糞したり、ハラハラドキドキの連続だったよね。その最中にイノシシが2匹、こっちへ向かってきたこともある。

そんな困難を乗り越えて野糞『千日行』を成就すると、あら不思議、大願成就の御利益か、ごく普通に野糞が楽々続くようになった。ちょうどその頃、米大リーグでは、イチローが200本安打の連続記録を伸ばし続けていた。それで何処まで野糞の記録が伸びるのか張り合いが欲しくなり、勝手にイチローをライバルに仕立て上げたんだ。安打と野糞ってまるで比較にならないかもしれないけど、お互いそれに命を掛けているといっても良いくらいの最重要課題だよ。とにかくイチローと競っているというのは、大きなやり甲斐だった。そして彼の記録が10年で途絶えたとき、野糞記録はまだ続いていた。遂にイチローを超えた!という喜びは大きかったね(笑)。

そして運命の2013年7月16日がやってきた。その頃、ウンコの本としては2冊目になる『うんこはごちそう』を世に出せるかどうか、難しい局面を迎えていた。この日は3時から、編集者とその重要な話し合いがある日だった。

この日は早朝に便意があって目覚め、朝食前に野糞に出掛けた。出始めはツルンとしたトグロウンコだったが、後半はへたれ気味のトグロで終わった。出かける1時間ほど前にまた少し便意があり、念のため二度目の野糞に行くと、今度のウンコは半練り泥状。でも腹の調子は悪くないし、直腸も空っぽになったはずだ。家を出る直前に、安心して冷たい牛乳を飲んだのが失敗だった。

『特別授業 “死”について話そう』という本に、「ウンコに学ぶ 生き方・死に方」という一章を書いた私は、その編集者のT氏と新宿駅で落ち合い、沖縄料理屋で昼食を済ませた。すると、なんとなく肛門付近が気になってきた。オシッコもたっぷり溜まっていたので、駅のトイレでオシッコを出そうと少し息張ると、先にウンコが漏れそうになっちゃったんだ。30分後には大事な打ち合わせがあるというのに、ウンコもオシッコも満タン、オナラも出せない状態だ。これで冷静に話し合いなんて出来るのか!絶体絶命のピンチだった。『千日行』を誓ったときのように、洋式便座に座るのは屈辱的で二度とごめんだ。たった一つだけど、しゃがんで用が足せる和式便器があったのがせめてもの救いだった。

いつかは必ずこの時が来ると覚悟はしていたが、黄色いスープ状の下痢便を眺めながら、悔しさが湧き上がるどころか、意外にもホッと心が軽くなった。目標だった野糞『千日行』を5倍近く長くやり遂げた満足感と、記録を伸ばし続けるプレッシャーから解き放たれた安堵感だったのかもしれない。

野糞天国、プープランドの藪陰には、野糞跡の枯れ枝の目印が見える。

松下幸之助 花の万博記念賞

私の大嫌いなものの一つが、権威と権力だ。権威にはその道の第一人者や大家という評価もあるけど、うっかりすると傲慢になる恐れがあるので好きじゃない。だから、権威ある賞からずっと無縁だったことを、私はむしろ誇らしく思っていた。

ところが野糞連続記録が途絶えてほどなく、共著で『カビ図鑑』を作った菌学者のHさんから突然、菌類や隠花植物の出版で社会に貢献したということで、「松下幸之助 花の万博記念賞」に推薦したいとファクスが届いた。この賞は、1990年に大阪で開催された花の万博の理念を後世に伝えるために創設されたもので、その理念は「自然と人間の共生」だから、糞土思想にはぴったりだ。それにHさんには本作りで恩があるし、好意を無にするのも申し訳ない。とりあえず推薦に必要な略歴と著書一覧を送りはしたが、ちょっと複雑な心境だった。

すると松下幸之助記念財団から、前年の21回までの受賞者と、金屏風のホテル宴会場での贈呈式の様子が入った資料が送られてきた。その受賞理由はほとんどが植物の研究や栽培などに関する功績で、人間社会には貢献したかもしれないけど、「自然との共生」とはちょっと違うと感じたんだ。しかし、受賞者は式で記念講演ができるという。これには参った! 選考委員の一流大学名誉教授やパナソニックのお偉いさんたちの前で、ウンコのスライドを写し、野糞の話ができる。これなら受賞も悪くはないと思い始めた。

受賞者の記念撮影。糞土師だけはウンコ色のスーツ。(写真提供:安田陽介)

 その後、私はどうやらこの賞の最終選考に残ったらしく、主要著書を5冊に絞ってほしいと連絡が来た。そこで、キノコ、コケ、カビの代表作4冊に、『くう・ねる・のぐそ』を加えることにした。これまでウンコや野糞は、メディアや良識人?に散々無視され排除されてきたが、糞土思想の「野糞は命の返しかた」こそ、人と自然の共生の最たるものだ。この一冊で落選するなら、その賞の理念はうわべだけのものじゃないか。高校時代、白紙答案の裏で教師に逆質問した時のような、反骨精神が頭をもたげた。ところがあっさり受賞の知らせが届き、振り上げた拳の持って行き場を失った。

暮れ近く、記念財団の事務局長と贈呈式の打ち合わせがあった。いつもジーンズで、葬式以外ではほとんどネクタイを締めたこともない私に、スーツにネクタイ着用とか、あまり汚くならないようにウンコ写真は最小限に、最後は綺麗な写真で終わること、等々しっかり釘を刺されてしまった。しかしこんな場でウンコ話が出来るなら、と、要求は全てのむことにした。

松下記念賞の贈呈式で

贈呈式での受賞記念講演。(写真提供:安田陽介)

年が明けて2014年の2月1日、大阪のど真ん中、中之島にあるホテルのきらびやかな宴会場で贈呈式は始まった。まずはパナソニック副会長でもある財団理事長の松下正幸氏の挨拶に始まり、選考経緯や受賞者業績を発表する選考委員長は京大名誉教授。代理ではあるが大阪府知事と大阪市長の祝辞など、権威満載で式は進んだ。他の二名の受賞者は、これまた岡山大学名誉教授と東大大学院教授だ。そこに私のようにウンコと野糞で活動する糞土師が紛れ込む図は、200名ほどの参会者の目に一体どう映っていたのだろう。おまけに、他はみな黒っぽいスーツなのに、糞土師だけはウンコ色のスーツだった。

式の終盤になり、いよいよ糞土師の出番がやってきた。そうそう簡単に権威に絡め取られる糞土師ではない。表面上は従っているようでじつは背いている、面従腹背でいこうと決めていた。講演タイトルはしっかり皮肉を込めて、「人と自然の本物の共生を求めて」。配布する講演資料には「ウンコ」の文字が21箇所、「野糞」に至っては28箇所も載っていて、そのほか、人糞や脱糞などで「糞」の字が13、合計62もの糞がちりばめられたものだった。

講演で使うスライドは、先方の要求通り、大幅に作り直した。まずはキノコによる分解と共生を簡潔にまとめ、次のウンコの分解過程は小さく目立たないように4分割写真にし、最後は爽やかなコケの写真で構成した。コケで出来たミソサザイの巣と渓流の写真で、急な流れの中に生えるコケが巣材として鳥に利用されることで上流に運ばれたり、ウンコに生えるマルダイゴケがハエを利用して胞子を拡散する、コケ植物と動物の共生関係を紹介。最後は、「植物のウンコは酸素」ということで、水中に生えたコケが光合成で酸素を吐き出す写真にした。結局最後はウンコで締めくくったんだ。

渓流に生えるクロカワゴケ。

コケで出来たミソサザイの巣。

ウンコに生えるマルダイゴケ。

水中に生えたヤナギゴケの、脱糞シーン。

贈呈式後の祝賀会では、短時間だが、松下正幸氏と直接にこやかに野糞話もできた。スーツにネクタイ、スライドの大改変など苦労も多かったけど、糞土師としてのプライドは曲げずに通すことができたんだ。部屋に戻る途中、エレベーターの鏡に映る自身の姿に、「やったね!」と思わず声を掛けてしまったよ。

松下記念賞、副賞の行方は?

 実はこの賞にはもう一つ、悩ましい問題があった。記念賞には300万、記念奨励賞に150万、そして出版など縁の下の力持ち的業績に対する松下正治記念賞の最初の受賞者として、私には200万円の副賞が出た。これをそっくり懐に入れてしまうようでは糞土師のプライドが許さない。さあ、どうする?

 3.11福島原発事故を契機に、放射能被害や利便性優先の物質文明の危うさから逃れ、農を中心に据えた安心安全な生活を目指し、地方移住する子育て世代が多く現れた。そんな人たちから糞土講演を聞きたいという声が届くのだが、困った問題があった。私の講演会は謝礼20000円+旅費が基本だが、九州など遠くなればなるほど、お金に余裕がなくて呼べないのだ。しかし、こういう人たちにこそ糞土思想を伝えたい。副賞の使い道が決まった。新たに「旅費なし、謝礼なし、投げ銭のみ」という講演会を始めることにしたのだ。

糞土師の最も濃密な一日

 せっかく大阪に行くのに、松下記念賞の贈呈式だけではもったいない。それに合わせて講演会の企画を現地の人にお願いしたところ、関西人のノリで、とんでもない過密スケジュールが出来上がってしまった。翌2日の10時半から市内の淀川で講演、次は14時半から兵庫の芦屋で、そして吹田に戻って18~20時に講演と、未だかつて経験したことのない一日3講演。果たして最後まできちんと話し続けられるだろうか。喉が心配だった。

問題はそれだけじゃない。この過密スケジュールで、無事に野糞は出来るのだろうか。大阪は日本一の、いや、もしかすると世界一野糞の難しい街なのだ。以前長居公園でしたときは、地元出身の案内人がいたにもかかわらず、場所探しだけで2時間もかかったんだ。今回は近くの大阪城公園はどうかと尋ねると、至るところ監視カメラだらけだと言われてしまった。一時的に人の目はごまかせても、監視カメラに捉えられてはおしまいだ。贈呈式の前日も受賞者として無料でホテルに泊まれたのに、わざわざ自腹を切って京都の宿に泊まり、当日朝は大文字山に登って銀閣寺を見下ろしながら野糞したくらいなんだから。

お尻を洗う水が入った容器を手に、正しい野糞の仕方を説明する。

2月2日5時10分、モーニングコールが鳴る前に目覚めた。もちろん朝食はキャンセル。まだ薄暗く小雨がちらつく中、JR福島駅へ急ぎ、始発は逃したものの2番電車で野崎駅へ。急ぎ足で野崎観音に着くと、日曜とあってか境内には朝の早い中高年ハイカーが次々に集まってくる。彼らが登り始める前に野糞を済まさなければと足早に山道を登れば、真冬の早朝とはいえじっとり汗ばむ。無事野崎参りを済ませて部屋に戻ると8時半。所要3時間強。休む間もなく弁当を掻き込み、荷造りを済ませて9時のシャトルバスでホテルを発った。

さて、1日に3回の講演だ。まず淀川での講演会を予定通り終え、主催者手作りの美味しいカレーを昼食に頂き、次へ向かう。ところが芦屋の駅に着いた途端、急に下痢が襲ってきた。いつもとまるで勝手が違う贈呈式への参加に備えて、この数日は気の休まることがなく、早朝の野糞からてんてこ舞いの連続だった。一瞬の気の緩みを突いて出てきた神経性の下痢だった。

芦屋での講演主催者は機転を利かせて、講演会場とは反対の六甲山方面へ車を飛ばしてくれた。家並みが切れると林に入る小道が現れた。ところが今朝の野糞で、正しい野糞には欠かせない仕上げの水を使い果たしていた。すると彼女は、バッグからペットボトルを取り出し、渡してくれた。それは『宮島の天然水』! 初めての土地で、しかも講演会が迫り来る中で、危機一髪で窮地を切り抜けることができた。おまけに私の肛門様はこれまでにない甘露に大喜び。

時間に迫られた早朝の困難な野糞。そして講演直前の下痢という緊急事態。以前にもこうした危機的状況は何度もあったけれど、これほどの高難度を連続突破したのは初めてだった。その後の講演会は喉のトラブルもなく順調に運び、夜の懇親会ではビーガンの手によるベジタリアン料理の数々に舌鼓を打ち、まさに勝利の美酒に酔いしれた。

最近は、誰でも伸び伸びと野糞を実践できるプープランドで、糞土思想を伝える活動を始めた。

                           (取材・執筆・撮影/小松由佳)        

 

   〜「糞土師の独談(後編)」へ続く〜