「無」になることで得られるもの

萩原博光×伊沢正名(糞土師)

植物でも、動物でもない。そんな生き物の存在をご存じですか? アメーバのように這い回り、キノコのように胞子を作る、そんな奇妙な存在こそ、変形菌と呼ばれる生き物です。

そんな変形菌を研究し、伊沢さんの長年の仕事のパートナーでもあった、萩原博光さんとの対談が実現。退職してから、「無」の価値に気づいたという萩原さん。変形菌の専門家は、なぜ「無」に辿り着いたのでしょうか。

変形菌とは何か?

伊沢 萩原さんと私は、もう40年以上の付き合いなんですよね。

1975年にいきなりあかね書房の「科学のアルバム」というシリーズでキノコの本を作ることになったんです。それまで全然知らなかった菌類の知識が必要になり、76年に菌学会に入会して初めて参加したのが、新潟県妙高高原での菌学会フォーレ。そこで思わぬ出会いがあったんですね。

偶然トイレで一緒になった元会長の印東弘玄先生は、私を大学の研究室の学生だと勘違いして「きみはなにを研究しているのかね」と連れションしながら話しかけてきました。「いえ、研究ではなくキノコの写真を撮っています。それから変形菌もちょっと」と言うと、印東先生は、「ほぅ、変形菌を。それなら良い人がいますよ」とトイレから直行して紹介されたのが萩原さん(笑)。

萩原 そうそう(笑)。

伊沢 じつはその時は気がつかなかったんだけど、その本の編集者が菌類を勉強するためにと持ってきてくれたのが『カビとキノコの研究』という古い本で、それが何と!印東先生の著書だったんですよ。すごい奇遇でしょう?

萩原さんとの出会いがきっかけで本格的に変形菌の写真も撮るようになったんだけど、最初はこんなに変わった生き物がいるのかと驚きました。

萩原 本当に変な生き物ですよね。変形菌は名前に「菌」とつくので、キノコの仲間と思う人が多いかもしれません。でも分類学的には、アメーバが進化したものと言われているんです。

木に這い上ってきた変形菌アメーバ(変形体)。こんな複雑な姿をしているのに、変形体は単細胞生物。(写真:伊沢正名)

 変形菌の不思議なところは、動物と植物の中間のような性質を持つところ。キノコみたいに胞子を作って子孫を残す植物的な一面があるかと思えば、成育する時期は変形体と言って、動物みたいに動き回って微生物を食べる。

伊沢 変形菌を見ていると、多くの人が持っている「生き物とはこういうものだ」という常識が、ひっくり返ってしまう気がします。   

萩原 そうですよね。体の構造をとっても、普通の生物と全く違うんです。一般的な生物って、成長するにつれて細胞の数も増えていくでしょう。でも変形菌の変形体は、たった一つの細胞のまま何十センチも、時には1メートル以上にも大きくなるんです。

その一つの細胞の中に何個も核を持っているから、変形体を10に分割したら、10個の個体に分裂し、何も問題なく生きていけちゃうんです。

種類によって変形体の色は異なる。(『たくさんのふしぎ・変形菌な人びと』)

伊沢 今でこそ変形菌は、割と人気の研究ジャンルになってきていますが、私が変形菌の写真を撮り始めた70年代ころは、その存在を知る人はほとんどいなかったですよね。

だから写真家時代は、萩原さんに本当に助けられました。たとえきちんと変形菌の写真を撮れたところで、名前が付いてない写真はなかなか採用されないんです。萩原さんが名前をつけて、テキストを書いてくれたおかげで、写真家として活動することができました。

萩原 それはお互い様ですよ。当時は高尾山や筑波山、群馬の霧積温泉などあちこちに変形菌の採取と撮影に行ったり、伊沢さんの写真と私の文章を合わせて、『科学朝日』や『ニュートン』などいろいろな科学雑誌に記事を掲載したり、書籍を出版したりと、一緒にいろんな仕事をやりましたね。懐かしいなあ。 

萩原さんが監修、伊沢さんが写真を担当した月刊誌『たくさんのふしぎ・変形菌な人びと』。

なぜ生物は生きているのか?

伊沢 そんな萩原さんから最近、手紙をいただいたことがきっかけで、この対談が実現したんです。なんでも研究者の仕事を退職してから、第2の人生にも終止符を打ち、とうとう「無」の人生を始めるつもりだ、と。

萩原 そうなんです。といってもそう閃いただけで、まだあまり思考は深められていないのですが(笑)。

伊沢 すごい! 答えの方が先にわかってしまったんですね。

萩原 そうなんです。数学者は、難解な数式を前にすると、解き方より先に答えが分かってしまうことがあるそうです。答えが分かった後に、その解き方を証明していくと。私が言うのもおこがましいですが、そんな感覚に近いのかもしれません。

伊沢 ですがそもそも、どうして「無」について考えるようになったんですか?

萩原 私は退職して今は自宅で過ごすことが多いのですが、自室から毎日庭を眺めているんですね。そこでは雑草も含めて、いろんな植物が競い合うように生えている。春に咲く花もあれば、寒い冬にわざわざ咲く花もあるし、そもそも花をつけない植物だってあります。

そんな植物を見ていると「この多様な植物は、なぜこんなにそれぞれ頑張って生きているんだろう?」と考えてしまうんです。

ここから妄想の世界に飛んでしまうのですが、地球上に生まれた生物たちの競い合いの結果がこの庭の景色だと感じたんですよ。

地球上の生物は、太陽のエネルギーか地球のエネルギーを直接的か間接的に取り入れて生長しています。この事実から、私の妄想はさらに太陽の起源や宇宙の起源へと広がってしまったのですね。

宇宙は、138億年ほど前に想像を絶するほど秩序だった源がビックバンによって壊れ、膨張しながら、無数の恒星を形成し、多数の恒星からなる銀河群を構成したとされてますね。宇宙の膨張は今も続いているそうですよ。

地球は、46億年ほど前に1つの恒星から生まれた惑星ですが、小さいながら莫大なエネルギーを蓄えています。私たちは日常生活においてまったく意識することがありませんが、ゴムボールの皮のように薄い陸や海の下では数千度のマグマが煮えたぎっているんですね。

生物は、38億年ほど前に地球上に発生したといわれています。太陽と地球のエネルギーを取り込んで種類数と個体数を増やし、現在では、陸や海にひしめき、競い合っています。

どんな生物個体も、生まれて生長し、繁殖して死をむかえますね。死は、生態学的には明らかに糞土思想に結びつきますが、物理学的にはどうでしょうか。

生きている体は組織がうまく機能していますが、死によって機能を失い、すべてが無秩序の状態になります。このように秩序が失われていくことを物理学ではエントロピーが増大するというそうです。秩序の無さを示す物理量のエントロピーは、時間とともに不可逆的に増大します。

この物理学の基本的な法則は、宇宙全体に及び、「エントロピー増大の法則」と呼ばれています。

伊沢 エントロピー増大とは耳にしたことはありますが、難しい概念ですよね。

萩原 実は私も、エントロピーという物理量の概念をまだよく理解していません。しかし、生物も星も宇宙もエントロピーが増大して死滅することは間違いない、と直感的に思ったのです。

人間の関与しない宇宙の生死は、まったくの物理的現象ですから、明らかに意味がありませんね。したがって、生物の生死も無意味なのです。自宅の庭でひしめいて生長する植物も、頑張って生きているように見えるだけで、無意味にエントロピーの増大に向かっているに過ぎないとわかったわけです。

そう考えると人間を含め、生き物が生きる意味なんてないんじゃないかと考えるようになったんです。それって結局、人生は「無」であるということではないかと。そこを出発点にして自分の人生を考え直してみようと思ったんですね。

バカと天才は紙一重

伊沢 なるほど、面白いですね。私も実は「無」というものにはすごく価値を感じているんです。

そう考えるきっかけになったのが、私がもっとも尊敬するアーティストで、少しでもその域に近づきたいと考えた山下清という画家。この花火大会の絵、貼り絵なんだけど、すごいでしょう? もう観客なんて何人描かれているんだ、という感じで。

伊沢さん宅にある山下清の複製画。

萩原 本当だ。すごい迫力ですね。

伊沢 実は山下清に関しては、作品以上に衝撃を受けた出来事があって。もうずいぶん前の事ですが、あるデパートで開催された山下清展に行った時のことです。そもそも山下清は知的障害があると言われているけど、展示会場にはそんな山下清の作品だけでなく、施設での生活の様子も展示されていたんです。

その中に山下清の脳波の写真がありました。それがなんと、真っ直ぐの一本線だったんです。

萩原 え、どういうことですか? 

伊沢 脳波が真っ直ぐで、全然波打っていない。つまり頭の中を完全に空っぽに出来るんですね。山下清は、思考をゼロにして「無」になれる。余計な自我がないから、目に入った花火大会のこんな細かな情景の全てが一気に頭の中に焼き付けられて、こんなすごい絵が描けるんじゃないかと思うんです。

萩原 面白いなあ。頭が空っぽの状態を作り出せる、と。

伊沢 そう。「バカと天才は紙一重」なんていうけれど、まさにこういうことなんじゃないかと。山下清の脳波の写真を見てから、自分でも写真を撮るときに、「無になること」を意識するようにしたんです。というのも実は写真家時代、写真があまり撮れなくなってしまった時期があったんです。

当時の私は、「こういう写真を撮ってやろう」みたいに意気込んで、自分のアイデアに合った被写体を探して撮ろうとしていた。でも、すぐに限界が来ちゃったんです。自分の内から湧き出てくるアイデアなんてたかが知れていたんですね。

そこで、もう自分で考えるのはやめて、「無」になって被写体に向き合ってみようと。そうしたら、キノコや変形菌が自ら発する「こう撮ってくれ」というメッセージを感じられるようになって、また写真が撮れるようになったんです。被写体の魅力を、より引き出せるようになったというか。

伊沢さんが運営するプープランドにて。

「欲がない」ことのしあわせ 

萩原 いやあ、面白い。私が閃いた「無」から、こんなに話が発展するとは(笑)。

これまで「無」になることの価値を考えてきましたが、「無」というのはそもそも、相互的であるとも思うのです。

例えば、他の生き物を食べるという行為。食べられた側は「無」に帰することになりますが、食べた側はそこからエネルギーを得て、生き延びることができる。「無」が生まれることで、他の生物が「無」になることを防いでいる、ということですよね。

伊沢 そう、無にも両面あるんですよね。私の最期は山の中で野垂れ死んで、いろんな動物に食べられたり腐ったりして、土に還りたいと思っているんです。そうすれば私自身は無になりますが、他の生き物の命を繋ぐことができる。循環の中で他の生き物の役に立てる、言い換えれば新たな命になれることが、私にとってのしあわせな死なんです。そのためなら、喜んで「無」になりたいと思っています。

萩原 究極の利他ですね。それをしあわせと呼べるのは、すごいことですよ。

伊沢 私は、価値がないと思われているもの、嫌われているものにも価値を見出せれば、しあわせを見つけられるんじゃないかと考えているんです。それを代表する二つが、物としてはウンコ、事としては死。この二つを克服できたらもう、恐れるものは何もなくなるんじゃないですか?

萩原 確かに、伊沢さんの死生観を体得できれば、死ぬことはむしろ喜びになる。死の恐怖を克服できるということですね。

でも、伊沢さんはすごいなあ。正直言って、私はそこまで悩んでいないですよ。死ぬことが怖いかと聞かれると、そうでもない。だから結局“のほほん”と生きていて、伊沢さんみたいに真剣に考えていないのかもしれない。もっと苦労しないとダメですね。

伊沢 いやいや、苦労しなければいけないなんてこと、ないですよ。私も写真家から糞土師に転身する時、カミさんに言われたんです。自分の好きなことをして楽しんでお金を稼ごうなんて、けしからんと。

でも私はそうは思っていなくて。どうせなら、楽しい方がいいじゃないですか。野糞だって、地球環境のためだからと難しい顔をしながらやらなくていいんです。

外の風が気持ちいから、葉っぱで拭くのが快適で楽しいから野糞しよう、それで命を土に還せるなんて最高だよね、というくらいの姿勢がちょうどいいんじゃないかと思っています。

むしろ私は、萩原さんこそ達観しているなあと思っているんですよ。第2の人生に終止符を打つときに、それまでの研究資料や変形菌に関する書籍などを、全て処分してしまったという話も驚きました。その執着のなさはすごい。萩原さんほど欲がなければ、もうしあわせなんじゃないですか(笑)?

萩原 どうかなあ(笑)。

私は、現在76才ですが、75才までは生きられると思ってきました。というのは、父が79才の時に胃癌で亡くなったことからなんとなくそう思ったようですね。

退職後の10年間は「第2の人生」と考え、日本の変形菌研究の発展に少しでも貢献することと南方熊楠関係の研究を自分なりに深めることに努めました。そして、75才を過ぎたとき、余生の「第3の人生」をどのように始めようかと考えました。

手始めに、日記を元に自分史を作成しました。すると、自分がしてきたことが中途半端で終わり、自信が持てないままやり過ごしてきたなと反省しきりでしたね。

その原因は、ここで初めて告白するのですが、私の性格がとてもいい加減だったことでした。あれこれに興味を持って深掘りするのですが、時間切れで、結局は中途半端に終わっていたのですね。その結果、何事にも自信が持てないまま臆病になってしまったようです。

そんな人間が物事に対処した場合、当然、いい加減になってしまいますよね。私は、どちらかというと、肯定的で楽観的な人間ですが、このいい加減さに気づいたとき、少々落ち込んでしまいました。

第3の人生を「無」から始めたいと思ったのは、ひょっとしてこれが原因かもしれませんね。

伊沢さんにとってのしあわせは、何なんですか?

伊沢 私なりのしあわせは、苦しくなくて、満足できること。その尺度は、一人ひとり違っていていいと思うんです。でも世間では、お金や名声など、偏ったしあわせの評価軸に執着し過ぎていますよね。自然破壊も、そういった欲望に偏りすぎたことから生じているわけです。

私はこれまでずっと、人類が自然を犠牲にして豊かになってきたことに罪悪感を感じているので、その罪の償いをしないといけないと考え、糞土師活動をしているわけです。もちろんヒトだって自然の中の一部だし、欲を満たしたって良いんだけど、行き過ぎがまずいんですよね。

「足るを知る」という言葉もあるし、先住民の暮らしを良く知っている関野吉晴さんとも以前対談しているんですが、関野さんは著書にサインをするときに、「ほどほどに」って書くんですよ。 

贅沢をしなくても、豊かな自然の中でしあわせを感じながら生活できる術を見つけてしまえば、そんなにあくせく働いて苦労しなくても、しあわせにたどり着けるんじゃないか。そう考えると萩原さんの欲のなさは、もうしあわせに到達している気がしますよね。

萩原 そうなのかなあ。そう言われると、自信が湧いてきました(笑)。今日は久しぶりに会えてよかったです。楽しい対談をありがとうございました。

<了>

取材・執筆・撮影:金井明日香