コロナ禍に考える。納得して死を受け入れるには

大西つねき(政治家)×伊沢正名(糞土師)

 みんなが目を背けたがる、「人は必ず死ぬ」という事実。しかしコロナ禍において、死の存在が改めて浮き彫りになりました。いたずらに生にしがみつくのではなく、納得して死を受け入れる方法は、あるのでしょうか。

 伊沢さんは、コロナ対策で「命の選別」発言が問題視された、政治家の大西つねきさんのClubhouse配信に参加。その後、「しあわせな死」について語り合いました。

みんな田舎に住めばいい

伊沢 収録では、ありがとうございました。リスナーに予想以上に野糞経験者がたくさんいて、嬉しかったです(笑)。

大西 あんなに野糞経験者がいるとは、正直驚きましたよ。もう時代は変わり始めているのかもしれないですね。

 ただ私が気になるのが、実現性の面です。糞土思想には非常に共感しますし、まさに今考えるべき問題。ですがやはり、日本人全員が野糞できるわけじゃないと思う。その辺りはどう考えているんですか。

大西つねきさん

伊沢 私は実は、みんな野糞ができると思っているんですよ。たとえば、「都心に住んでいたら野糞ができない」と皆さん言いますよね。

 でも今のとんでもない環境問題などを改善しようと考えたら、都会の生活にしがみつく必要はないと思います。じゃあ田舎に移住すればいいじゃないかと。野糞ができる密度を保って、全国に散らばればいい。

大西 「人口野糞密度」みたいな指標が必要ですね(笑)。  

伊沢 そうですね(笑)。私はもうそろそろ、人間の価値基準を改める段階だと考えているのです。今まで重視されてきたのは、「人間がいかに便利に、豊かに生活できるか」という価値ですよね。

 ですがその人間中心の思想を突き詰めたことで、どれだけ環境を破壊してしまったか。明らかに限度を超えていると断言できます。

 それならば、便利さより「自然との共生」を優先する価値基準に変わらなければいけない。それに基づいて、人生設計や街作りをしていくべきだと考えているんです。野糞ができるような林を街作りの一環として取り入れる、という風に。

Clubhouse配信では、伊沢さんの糞土思想が書かれた手拭い旗を披露。

命の選別発言の真意

大西 自然から遠ざかることで、人間の生活がおかしくなっている。その考えには共感です。まさにここ1年のコロナ対策が良い例ではないでしょうか。

 本来は、ウイルスに対抗するなら免疫力が必要なはず。それなのに、政府が推奨しているのは「除菌しまくれ」「外に出るな」という、人間の自然な状態からかけ離れたことばかりです。

 もちろん、いろんな意見があっていい。ですが、「本当に私たちは自然に反する生き方を歩みたいのか?」と、一度みんなが自分自身に問いかけてもいいと思います。

伊沢 今のコロナ対策を見ていると、衛生観念って何なんだろうと思いますよね。私も、落ち葉でお尻を拭くなんて不衛生だ、と指摘されることがあります。確かに落ち葉には雑菌が付いていますよ。

 ですが雑菌に触れているからこそ、免疫力が高まる。身の回りの全てのものを除菌して、自らの自然治癒力を弱めて、何のための衛生なの?と思います。

 コロナ禍でもう一つ語られるべきだと考えているのが、死をどう受け入れるかの観点です。実は私が大西さんに強い共感を覚えたのは、あの「命の選別発言」(注)での炎上だったんですよ。

大西 そうでしたか。私もコロナ禍において、死についてはもっと真剣に議論すべきだと、今も思っています。もちろん理想は、全員の命を救うこと。でも、現実的には不可能じゃないですか。

 だったら、誰を優先的に生かすのかという問題は避けては通れないはず。政治こそがその意思決定をしなければいけないと考えて、発言しました。 

伊沢 私としては、批判されないように及び腰で逃げ回っている上辺だけの良識人がほとんどの中で、「よくぞ言ってくれた!」という気持ちだったのですが。当たり前に向き合わなければいけない問題なのに、なぜここまで炎上したのだと思いますか?

大西 みんな、臭いものには蓋をしたいのではないでしょうか。死は怖いものとして忌み嫌っているから、見なかったことにして素通りしたい。だからこそ死を話題に出すと、「せっかく見ないふりをしていたのに、何でわざわざそんなこと言うんだ」と袋叩きに合うんです。

 そもそも日本国民は、世に問うことが苦手な国民性というか、当たり前のものを疑わない空気を持っていると感じています。

伊沢 全くその通りですね。私は常々この日本社会というものに対して、「常識は思考停止、良識は自己保身の八方美人」ではないかと考え、発言しています。

(注)昨年7月、当時れいわ新撰組の党員だった大西つねき氏は、コロナ禍において「命の選別」を容認する発言をしたことで、同党から除籍されている。

人口爆発は、度が過ぎている

伊沢 いかに死を受け入れるか、いかに「しあわせな死」を見つけるかというのが、糞土師としての私の今一番大きなテーマでもあります。当たり前ですが、自然界では生物間の数のバランスが非常に重要です。一種類の生き物が爆発的に増えると、生態系全体が壊れる。これは自明のことです。

 そう考えると、この人口爆発は狂っている。度が過ぎています。人口が増えすぎていることこそが、自然破壊の根本原因だと思うのです。だから死ぬことの価値を高め、健全に人口を減らしたい。そのために、死ぬのは苦しいこと、嫌なことという価値観を、納得して受け入れられる幸せなものに変えたいのです。  

大西 伊沢さんは、「人間としての人間」と「自然の一部としての人間」のバランスを、どう取っていくかという問題に向き合っているんですね。

 確かに今の世界は、圧倒的に人権が最優先されています。自然より、他の生物より、人間の権利が絶対強い。だからこそ、自然から離れた思想、政策が浸透している。これは一度、腰を据えて議論すべき問題ですね。

伊沢 そうなんです。じつはさっきの「常識・良識」の次に、「人権は人間中心主義の傲慢の塊」というのがくっつくんです。人間は今まで好き勝手やってきたんだから、これからはもう少し遠慮しながら生きるべきじゃないかと。

そもそも、いたずらに長生きすることが本当に幸せなのか?という疑問もあります。現在の日本の医療は、とにかく人命を救うこと、長生きさせることを良しとしていますよね。それが本当に正しいのか、と。本当はその裏に、医療による経済効果、つまり金儲けが絡んでいるんでしょうけどね。

大西 医療や社会保障のあり方を問い直す、大きな問題提起ですね。確かに高齢者が医者から処方されるままに、何十種類もの薬を飲んでいる姿を見ると、これは本当にあるべき医療の姿なのだろうか、と感じます。

「しあわせな死」は可能か?

伊沢 大西さんは、どうすれば人間は納得して死を受け入れられると思いますか?

大西 幸せに死ぬためには、納得して「生きる」ことが必要ではないでしょうか。人はもっと、自分の意思で自由に生きていいんです。

 でも今の日本社会って、変わったことをする人に対する目がすごく厳しい。自分の好きなように生きづらい環境だと思います。伊沢さんは、もう人の目なんて気にならないと思うけれど(笑)。

伊沢 そうですね。最近は自分自身を「人でなし」だと思ってますから。そして私にとっては、食べることで奪った命をいかに自然に返すか、それが毎日の生活の中でもっとも大事なことで、人の目なんて一切気にならなくなりました。

大西 償いみたいな感覚ですか?

伊沢 償いとも言えると思いますが、嫌々償っている感覚ではないんです。とにかく日々の葉っぱノグソって心身共に快適そのものだし、私にとってはこれが一番幸せな生き方なんです。

大西 なるほど。みんなが伊沢さんくらい振り切って自分の好きに生きられたら、死を納得して受け入れられるようになるかもしれない。

 そもそも私は、世の中に善悪なんてないと思っているんです。正しいとか正しくないで判断できることなんて、何もない。今この心の状態を自分が好きかどうか、という判断軸だけです。方向性なんていうものはそもそも虚構で、向かうべき方向なんてないんじゃないかと思っています。

大西さんが抱く世の中に対する問題意識と、自身の解決策を提示した著書『私が総理大臣ならこうする』。

伊沢 そういう世界、実はもうすでにあるんですよ。出川さんという菌学者から教えられたんですが、菌類の世界です。

「こうすべきだ」とかいう考え方って、すごく動物的なんですね。脳を発達させた動物は、脳からの指令に従って体を動かすしかありません。言い換えれば、動物は体の構造からして、ヒエラルキーの塊なんですね。

 一方で、菌類には脳もなければ器官の分化もない、体全体が均一なんです。だから非常に柔軟性があり、自由だし民主的なんです。

 もし体が二つにちぎれたら、二個体に分かれて生きていけるし、逆に二つが一つにくっつけば元に戻ります。土の中に広がる菌糸体(菌類の栄養体を構成する糸状の塊)は、自由に自分の中心を決められます。美味しい食べ物を見つければ、そのスポットを菌糸体の中核にできるんです。

大西さんがおっしゃる自由で柔軟性ある生き方は、まさに菌類的じゃないですか? 私も野糞を始めたのはキノコの働きを知ったことがきっかけですし、人間は菌類から学べることが多いと考えています。  

大西 面白いですね。加えて動物の特徴の一つは、死を意識できることですよね。死を予測できるからこそ、そこから逃れるために死を恐れる本能が備わっているんでしょうね。

50歳で死んでもいいと思った

伊沢 実は私は、50歳の時にもう死んでもいいと思ったんです。当時は写真家でしたが、北海道から沖縄まで日本産のコケ全種類を扱う『日本の野生植物・コケ』という分厚い写真図鑑の大仕事を終えた時でした。

 心身ともに疲弊していたのもあるけれど、こんなすごい仕事をやり遂げたんだという大きな満足感もあって、「もう十分生きた」と思えたんです。

大西 誰しも「ここまででいいや」と思うタイミングはありますよね。むしろ、死ねないのも怖いこと。死があるからこそ、生きている時間を大切にできる。個人的な推測ですが、ここまで人間が死を恐れるようになったのは、戦争のトラウマじゃないかと思うんです。理不尽な死に方をたくさん見てきたからこそ、死を過度に恐れるようになったのではないかと。

伊沢 確かに戦争のように理不尽な形で死ぬのは、全くしあわせな死とは対極にある恐怖ですね。ただ、死ぬことによって生態系の大きな命の循環の一部になれると考えれば、死に対する恐怖がだいぶ和らぐと思うのです。

 だから私が死ぬときは、燃やされずに土に還らなければいけないと考えているんです。他の生き物の栄養にしてもらって、新たな命に繋げたい。食べて生きるということは、他の生き物の命を奪って自分の命にすること。散々奪ってきた分、最期はお返ししたいと思うんです。

 ですが今は、法律や条例等で土葬にもかなり制約があります。野糞だって野山では良くても、「街路、公園や公衆の集合する場所で大小便をすること」は軽犯罪法違反です。結局法律も、人間中心なんです。

 命を返す行為、生物の命の循環を断ち切らない行為が、なぜ違法なのか。法律の根本的な思想も、見直されるべきだと思います。この辺りを政治家にぜひ変えてほしくて、大西さんのような方が出て来てくれたのは心強いです。

大西 ありがとうございます。今年も選挙がありますが、ある意味これが試金石になると考えているんですよ。私みたいな人間が当選したら、日本も変わり始めているなと。そして伊沢さんのように、常識を根本から疑ってかかるような人が増えていくと、世の中一気に変わっていくと思います。今日は面白い話をありがとうございました。

<了>

(取材・執筆・撮影/金井明日香)