あなたも、差別しているかもしれない

松本亜季(引き取る・大阪)×伊沢正名(糞土師)

沖縄の米軍基地問題。基地の撤退を求める活動を知る人は多いと思いますが、沖縄以外の地域で基地を引き取ろうとする運動をご存じでしょうか。なぜ、わざわざ「引き取る」ことを主張するのか?その根底には、沖縄への差別を解消したいとの思いがありました。

糞土師として長年ウンコへの差別に向き合ってきた伊沢さんが、「沖縄差別を解消するために沖縄の米軍基地を大阪に引き取る行動」の松本亜季さんを訪ねました。

基地を大阪で引き取ろう

伊沢 初めて沖縄の米軍基地引き取り運動を始めたのが、松本さんですよね。新聞記事でそのことを知ったときは、これまでの基地反対運動とは全く違うもので、これこそ本物だと感銘を受けました。改めて、どんな運動か教えていただけますか?

松本 もちろんです。私は、「沖縄差別を解消するために沖縄の米軍基地を大阪に引き取る行動」(引き取る・大阪)という運動をしています。

これは、米軍基地の廃絶や戦争反対だけにフォーカスをあてた行動ではなく、沖縄の米軍基地を自分たちが住む地域で引き取ろうというもの。私の場合は住んでいる大阪で引き取ろうと呼びかけていますが、今では国内約10の地域で展開しています。

私たちの問題提起は、「沖縄に過重な基地負担を押し付け続けていいのか」というもの。国内の米軍基地の約7割が沖縄に集まっている事実を見れば、沖縄と「本土」の間に、甚大な不平等、不均衡があるのは明らかですよね。

沖縄以外の地域で基地を引き受ければ、少なくともその差別構造の解消の一歩になる。そう考えて立ち上げたのが、この運動なんです。

伊沢 亜季さんは、引き取り運動を始める前は、いわゆる一般的な米軍基地反対運動に参加していたんですよね。なぜ、引き取り運動に舵を切ったんですか?

松本 「基地反対」と叫んでいるだけの活動に、限界を感じたんです。本当にこのままで、状況は変えられるのだろうかと。

私は2004年ごろから、沖縄の基地問題に取り組んでいました。その頃は、普天間基地の辺野古への移設問題は、まだまだ人々に認知されていない時期。

だからこそ、みんながその問題を知りさえすれば、辺野古移設の計画も止まると思っていたんです。「これまでも沖縄に押し付けてきたのに、また沖縄県内で移設なんておかしいよね」と。

そこから10年経って、みんなが「普天間基地移設問題」を知るようになりました。世論調査などでは、8割を超える人が日米安保体制を支持しています。

でも、計画は止まらないどころか、さらに沖縄に基地を押し付けようという力が働いていると感じたんです。基地の負担という嫌なものは、見えないところに追いやってしまおうと。

そこで、運動をしてきた側の姿勢にも、問題があったんじゃないかと考えるようになりました。「どこにも基地はいらない」と言って日本政府を糾弾するだけでは、沖縄の米軍基地は固定化してしまう。沖縄への差別に本気で向き合う方法として、6年ほど前から基地引き取り運動を始めました。

伊沢 なるほど。実際に沖縄の人から、沖縄差別について言われたことはあったんですか? 

松本 辺野古の座り込みをしている時にも、沖縄の人が経験してきた差別の話はいろいろと聞きました。そのときに手に取った冊子に、「基地を持って帰ってほしい。引き取ってほしい。」という意見が載っていて。

それを見たときは、やはり衝撃を受けましたよ。一緒に座り込みをしていた沖縄の人に、恐る恐るこの意見についてどう思うか聞きました。その人に「これはあなたたちみたいに一緒に頑張っている人たちに向けた言葉ではなく、何も考えていない人に向けたものだよ。」と言われ、ほっとしたことを覚えています。

私自身、この主張について何年も考え続けて、徐々に自分の中で消化してきたんだと思います。

松本さん提供。

批判してくるのは「平和運動家」

伊沢 私も実は、辺野古で座り込みに参加したことがあります。2017年春のことでしたが、私も亜季さんと同じように疑問を感じていました。辺野古で基地反対と叫ぶだけで、沖縄の基地を減らすことができるんだろうかと。

その時、自分のところにスピーチのマイクが回ってきました。そこで、この警備をしている人の中には、基地は反対だけど生活があるから仕方なくやっている人もいるだろうし、自分たちの正義感だけが正しいと基地反対を叫んでいても、それはちょっと違うんじゃないか、というようなことを言ってしまったんです。

そうしたら、東京から来て座り込みに参加している人の中に、食ってかかってくる人がいました。せっかく頑張っている自分たちに向けて、足を引っ張るようなこと言うなとね。その一方で、ウチナーンチュの参加者の一人が、そっとうなずいてくれたのも目に入りました。

松本 わかります。意外にも、基地引き取り運動を一番激しく批判するのは、「どこにも基地はいらない」と主張する平和運動家の人たちなんですよ。

伊沢 具体的にどんな批判をされるのですか?

松本 まずは、権力側に利用されるとの批判。基地を沖縄以外で引き取るなんて、権力側の思う壺じゃないかと。

他には、本来は米軍基地なんてゼロにすべきなのに、別の場所で引き取るなんて何事だと。そんなの、基地を肯定することに繋がるんじゃないかという意見ですね。

結局大阪で引き取ると言ったって、大阪の被差別地域に押し付けるだけなんじゃないか、との意見も。

基地引き取りに関する書籍。

伊沢 「そうならないように、自分の町で引き受けたらどう?」と言いたくなりますね。そう言う人はだいたい、自分は安心安全なところにいて、高みの見物なんですよね。

松本 そうなんです。確かに政府に任せたら被差別地域に押し付ける、となってしまう可能性はあるけれど、そうならないように市民が主体になって話し合おうよ、と。

伊沢 論点をすり替えて、自分を正当化する理論を立てる人は、正直ずるいなと感じてしまいます。

松本 そう、論点の違いなんですよね。「引き取り運動は、米軍基地や戦争を肯定するものだ」との批判を受けるときに思うのは、私たちだって戦争は絶対反対だし、基地だってゼロにするのが理想だと思っているんだ、と。

でも、基地引き取り運動の論点やその目的は、何より、日本に住む私たち一人ひとりがふるっている沖縄への暴力、差別をやめることです。だから戦争反対と基地引き取り運動は、相反するものではありません。

沖縄への差別を解消するために基地を引き取った上で、基地をどうするのか、安保の問題をどうするのかを、私たち「本土」の人が主体的に議論していくべきだと思います。

個人を非難しているわけではない

伊沢 基地引き取り運動に対して、いわゆる平和運動家はなぜ反発してしまうのでしょうか?

松本 「基地はどこにもいらない」と思っていることもあるでしょう。また、「沖縄に基地を押しつけている」という責任や加害性を問いたいという私たちの発信が、個人を批判しているように聞こえ、辛くなってしまうのではないでしょうか。自分はこんなにも沖縄のことを思って日々活動しているのに、なぜ批判されるのかと。

でも私たちは、何も個人の思想や信条、アイデンティティを非難しているわけではないのです。

あくまでも、日本国に属して、有権者の一人として日本政府を支えているその立場を批判している。私たちはこれを「ポジショナリティ(政治的立場性)」と表現しています。

伊沢 なるほど。そう考えると、糞土思想もポジショナリティの批判だと気づきました。糞土思想では、自然を顧みない人間社会を批判していますが、それは個人に向けてではなくて、自然から奪い続けてきた人類全体に向けての批判なんですよ。

その人類のうちの一人が自分自身なのだと、まずは自覚してほしいということなんです。

松本 まずは、自覚するって大事ですよね。沖縄への差別に気づいたなら、差別をやめる行動をとり、差別をなくすことで、「沖縄への差別者」というポジショナリティは変えることができます。自分が間違っていたなと気づければ、その間違いをやめればいいと思うのです。

大阪にある、沖縄関連の資料を集めた関西沖縄文庫で対談を実施。入り口に佇むシーサー。

どう当事者性を持てるか

伊沢 自覚した次のステップとして悩ましいのが、どうやって自分ごとにしてもらうかという点だと思います。基地反対を叫んでいるのに引き取り運動を非難する人は、その当事者性というか、覚悟が足りないのではないでしょうか。 

松本 基地引き取り運動は、沖縄の基地問題を「自分ごと」として考える方法論の一つでもあると考えています。沖縄以外の場所で暮らしながら、日々基地と隣り合わせの生活を強いられていることがどういうことなのか、想像するのは難しい。

自分たちの家の近くに基地がくる、生活に軍隊が入ってくることを実際に想像すれば、自分のこととして考えやすいのではないでしょうか。

とはいえ、私も毎日のように悩んでいます。当事者意識ってなんなんだろう、どうやったら生まれるんだろうと。伊沢さんの糞土思想のすごさは、生活レベルで当事者性を問えるところだなあと、改めて感じてしまいます。

伊沢 そうなんですよ。ウンコは、全人類が一人残らず、生まれてから死ぬまで毎日のようにしているんだから、こんなに当事者性のあるもの、なかなかないですよ。だから私は闘う武器として、ウンコくらい強いものはないと思っています(笑)。

松本 ウンコの威力ですね。でも、ウンコもかなり嫌われ者ですよね。なぜ自分から出したものなのに、出た瞬間にこんなに忌み嫌われるのかと、私も前から疑問に思っていました。

伊沢 結局人間誰でも、エゴイストなんだと思います。自分の利益になることしか考えていない。自分が出して用無しになったもの、汚くて見たくないものは、他のところに追いやって、見て見ぬ振りをする。

若い頃にし尿処理場建設に反対する住民運動を知って、心底そのズルさを感じました。自分が出した糞尿なのに、その処理はどこか遠くでやれって、エゴの塊じゃないかと。

そう考えると、沖縄の基地問題とウンコの問題は、すごく構造が似ているんですよ。沖縄は、日本中の膨大なウンコを押しつけられて、処理させられているようなものなんです。  

松本 本当にその通りですね。ということは、伊沢さんもそのウンコに価値を見出す糞土師として、差別されてきたということなんでしょうか?

伊沢 ええ、もう数え切れないくらい批判されたり無視されたりしてきました。ウンコなんて汚くて不衛生なものを、なんて言う批判もあれば、そもそも野糞は軽犯罪法違反じゃないか。野糞をしようなんて、犯罪行為を広めるようなものだと言われたことだってあります。

人はなぜ差別をするのか

伊沢 なぜ人は差別をしてしまうんでしょうね。差別の構造をなくすためには、どうしたらいいと思いますか?

松本 差別してしまう心は、誰もが持っているのではないかと思います。差別を一切しないなんて人は、いないんじゃないかと。

私は障がいがある方の支援に携わっているのですが、油断をすると私も「あれ、私今偉そうな態度とっちゃったな」とか「抑圧的に接しちゃったな」とか思うことがあります。「私は支援の勉強をしてきたから差別なんてしません」なんてことは、絶対にないと思います。

だからこそ、「今の発言は大丈夫だったかな?」と、自分自身を常に点検することが大切なのではないでしょうか。

伊沢 なるほど。私は、しあわせと感じる尺度を、相対的なものから絶対的なものに変えられれば、差別する心は抑えられるんじゃないかと考えています。

他人と比べてしまうからこそ、自分より劣った存在を作り出して、自分はこの人よりはしあわせだと安心しようとする。それが差別の根底にあるのではないかと。

松本 人と比べなくても、自分の中に絶対的なしあわせを見つけられればいいと。でも、どうしたらいいんでしょう? 

伊沢 嫌なもの、差別してしまうようなものの中に、良さを見つける。これがしあわせへの鍵になると考えているんです。

もちろんウンコはその代表例。みんなにものすごく嫌われているウンコだけれど、他の生き物に命を与えることが出来るものがウンコだと知ったら、その価値に気づくことができる。そうすれば、ウンコ差別なんてもうできなくなりますよね。

さらに、みんなに嫌がられ遠ざけられているものに、死があります。私は、死の中にすら喜びを見出すことができたんですが、そうしたらすごく生きやすくなったんですよ。

松本 どういうことですか?

伊沢 生き続ける限り、食べることで他の生き物の命を奪わなければいけないですよね。でも、自分が死んだらもう、何も奪わなくてよくなる。さらに死体を土に返せば、他の生き物に食べられて、新たな命になれるんです。

そういった命の循環という視点を持てば、死は単に終末や苦しみではなくなり、劣等感や悩みを感じることもなくなるんじゃないでしょうか。他人を見下してしあわせになろうなんて気持ち、起こらなくなると思うのです。

松本 それはもう、絶対的なしあわせですね。ですが、差別は本当に日常に溢れていますよね。一朝一夕に意識を変えられるものではないというのが、難しいところだとも感じます。

伊沢 ガンジーの言葉に、「善きことはカタツムリの速度で動く」というものがあるくらいですから、時間はかかって当然なのかもしれません。ですが今の時代は、社会が変わるスピードもすごく速いですよね。

私が若い頃は、セクハラなんて言葉すら聞きませんでした。私も無意識で、セクハラまがいの発言をしていたと思います。でも今では#MeToo運動などもあって、世の中、本当にすごい速さで変わっている。

松本 抑圧された側から声を上げて、権利を勝ち取ってきた歴史ですよね。抑圧している側から問題提起をすることはないですから。こういった声が今ではSNSなどで広まりやすく、変化が起こりやすい時代なのかもしれませんね。

どう喜びを見出せるか

松本 広め方、という観点でも、「引き取る・大阪」の活動にはまだまだ課題があると感じています。差別に関する問題提起はすごく大事だと思いつつも、それをどのように打ち出していくのかを考えています。

2004年の辺野古の基地建設を止めるための活動を始めた時も、差別という言葉を打ち出すべきではないとの意見もありました。

伊沢 なぜですか?

松本 差別という言葉って、きついですよね。沖縄を差別している自覚なんて毛頭ない人たちに対してその言葉を突きつけても、拒否感が勝ってしまい、余計に「自分ごと」として考えないということになってしまうんじゃないかと。

伊沢 大阪には被差別部落がたくさんありますが、それも差別という言葉に敏感な地域性を作っているのでしょうか?

松本 あるかもしれませんが、そもそも人が見たくない、蓋をしておきたいことを突きつけられる際の反応かもしれません。部落差別のことは、わざわざ歴史をほじくり返して部落のことを言うから差別が続くんだ、というナンセンスな指摘もあります。  

伊沢 糞土思想では、差別という言葉よりも、「責任」という言葉をよく使っています。食べることで命を奪っているんだから、その責任を果たすために命を返そうと。

ですが私も、「責任という言葉は重すぎて嫌がる人も多いから、使わない方がいいんじゃないか」と指摘を受けますよ。そういうことを言ってくるのも、だいたいは自分は正しいと思っている良識派の人たちですが……。

松本 自分が差別をしていると認めるのは、苦しいこと。事実を伝える大事さと、多くの人に届く、一緒に考えようと思うきっかけになる言葉の紡ぎ方は、長年葛藤していますね。

伊沢 糞土思想の場合は、葉っぱでお尻を拭く気持ち良さや、命を返せる喜びなど、プラスの要素もたくさんあります。辛いけど責任だからイヤイヤやる、というのではなく、喜びをもって取り組めるよう積み上げてきました。

ですが私も、野糞をし始めてからここまで来るのに40年以上かかりました。やっぱり人にわかってもらうには、時間をかける必要があるのかもしれませんね。立場が似ているもの同士、カタツムリの速度でもいいから、進んでいきましょう。今日はありがとうございました。

<了>

取材・撮影・執筆:金井明日香