“殺す”から逃げない

栃木裕(元屠場労働者)×伊沢正名(糞土師)

食品として加工するために牛や豚を殺す、屠畜の仕事。長く差別されたきたその仕事を、あくまでも“普通”の職業であると話すのは、屠畜の仕事に40年近く従事した栃木裕さんです。

生き物を殺すことは罪なのか、差別にどう向き合うか。その新しい視点を求めて、伊沢さんが対談を申し込みました。

屠畜は“普通”の仕事

伊沢 今回対談をお願いしたのは、屠畜を生業としてきた栃木さんの著書『屠畜のお仕事』を読んで、その差別への向き合い方に感銘を受けたからなんです。

屠畜の仕事は、動物を殺す仕事として否定的な目を向けられがちな職業ですが、栃木さんは「ごく当たり前の、ただの仕事」であると話していますよね。

栃木 ええ。私が一番伝えたいのは、屠畜を生業としている人たちは、嫌な仕事を嫌々引き受けて働いている自覚は、全くないということ。むしろ、やりがいのある仕事として、誇りを持って楽しく働いている。

これまでしばしば、「屠畜を生業にしている立場としての、被差別体験を語ってほしい」と依頼を受けることがありました。ですが、自分が差別の “被害者”として話すという構図に、強く違和感を感じたんです。

栃木裕(とちぎゆたか)1957年3月鹿児島県阿久根市生まれ。1985年東京都中央卸売市場食肉市場作業第二課入職。2017年定年。再任用職員を経て、2019年退職。入職と同時に全芝浦屠場労組加盟。2013〜2017年委員長。趣味は陶芸、歴史散策など。

たとえば、屠畜の仕事をしていることで差別された経験を話すときに、「こんな嫌な辛い仕事なのに、頑張っているんです」という論調で話したとしましょう。それを子どもが聞いたら、「そんなに嫌な仕事なんだ、やりたくないな」と感じてしまう。それはいわば、「感動ポルノ」みたいなもの。

感動ポルノとは、たとえば身体障害者が奮闘する姿が、健常者に感動をもたらすコンテンツとして消費されていることを指す言葉です。その構図は、根本的に間違っていると感じたんです。つまり、健常者が自らの差別性を棚に上げて、美談をでっち上げる事への憤りです。

だから私は、屠畜の話をする際には、「差別されるかわいそうな職業」としてではなく、「農業の一部として当たり前の職業」として伝えるようにしています。

屠殺の仕事に使われるナイフ(上2本)と棒ヤスリ(下2本)。

伊沢 糞土師という仕事も、似たような境遇なので、良くわかります。写真家だった時代の知り合いにも、私が糞土師になった途端に離れていった人がたくさんいました。またウンコ自体も、臭くて汚い不潔なものとして、真っ先に差別される対象です。野糞に至っては、軽犯罪法に触れる犯罪行為だ、と、しばしば強い批判もされたりします。だから野糞をしたことがない人には、野糞なんてよくできますね、と言われます。

ですが実際は、真逆。私としては、「野外の風も気持ちよく、葉っぱの拭き心地といったら、紙なんかより遙かに良い。こんなに気持ちいいウンコの仕方、他にあるか?」と思うくらい、楽しんで野糞をしているんです。

最初はその差別に対して、正面から論理で対抗しようとしていました。でもそれでは、人の心はなかなか動かない。そこで私は、野糞の“楽しさ”に重点を置いて人に伝えるよう、ここ数年は特に意識してやっています。

栃木 結局みんな中身を知らないからこそ、勝手なイメージで“嫌な仕事”と決めつけてしまうんですよね。対話するにも、そもそも同じ土俵に立っていない。

著書にも詳しく書いていますが、屠畜の仕事って本当に面白いんです。私は今から37年前、芝浦にある屠場で仕事を始めました。入職した頃は驚きました。先輩社員が、華麗なナイフ捌きで豚の足を切ってしまうのですが、足1本にかける時間はわずか1秒。「見てまねろ」と言われても、手の動きが速すぎて何も見えない(笑)。

でもなんとか食らいついて練習を重ねると、いつの間にか自分もできるようになる。不器用だったからこそ、そこには大きな達成感があったし、なんて面白い仕事なんだと感じたものです。

棒ヤスリとナイフを構える栃木さん。仕事の現場では、棒ヤスリを使って高速でナイフを研いでナイフの切れ味を保ちながら、屠畜の作業を進めていくそう。

同業者の若手同士で飲みに行ったって、話す内容はみんな「ナイフはどういう風に研ぐと切りやすい」とか、仕事の話ばかり。それくらい、仕事に熱中している人が多い職場でした。

外から見た「かわいそうな仕事」とか、「押し付けられた仕事」なんていうのはイメージに過ぎなくて、普通の仕事と同じように、やりがいも楽しさも溢れる職場なんですよ。

栃木さんの著書『屠畜のお仕事』。屠畜の仕事内容が分かりやすく解説されている。

“殺す”という言葉から逃げない

 伊沢 栃木さんが、屠畜を農の一環と捉えているのも、興味深いですよね。

 栃木 家畜は、動物ではなく農作物です。農家が稲を刈って米を作るのと同じで、屠畜というのは牛や豚を殺して、人が食べられる形に加工する工程の一つにすぎません。米農家だって生き物の命を殺して加工しているという点では同じなのに、なぜ屠畜だけ特別視されるのか。

また、屠畜場にとってのお客さんは、常に生産者なんです。私も現役時代は、農家が丹精込めて育てた牛や豚の商品価値を下げるわけにはいかないという気持ちで、丁寧な仕事を徹底していました。

農の一環である必要不可欠な仕事だと思っているからこそ、私はあえて 家畜を“殺す”という直接的な言葉を使っています。「命をいただく」とか、「命を解く」なんて、遠回しな言葉は使わない。そういった言葉を使うのは、外からの非難があるからです。

何か罪を許してもらうわけじゃないんだから、直接的な言葉で堂々と言えばいいだけです。「殺さなきゃ食えないだろう」と言う権利はあると確信しています。

伊沢 優しい言葉に言い換えるなんて、ただの偽善ですよね。私も糞土思想を説明するときは、「食べて生きるということは、他の生き物の命を奪って、自分の命にすることだ」という言い方をしています。食べて命を奪うからこそ、野糞をすることで命を返すんです。

私は都会で宿泊するときも野糞ですが、お寺や神社には杜が多いので、社寺林で野糞をすることもよくあります。そう話すと、「神聖な場所で野糞なんてけしからん」と言われることもある。でも、それは私と認識が反対なんですよ。

私は野糞は、命を返すための、この世で最も尊い行為だと考えています。だから穢れとは真逆。そう確信しているからこそ、堂々と神域などでも野糞ができるのです。

栃木 汚いって思い込みなんでしょうね。以前、小学5年生のクラスで屠畜の仕事について話す機会があり、そこで興味深い経験をしたんです。

当日は、仕事内容の説明のために、切った豚の尻尾を持って行って、生徒の前で見せました。そうしたら、袋から出した途端に「臭い」と言い出す生徒がいて。でも、そんなはずはないんです。前日綺麗に洗って冷蔵庫に入れていたので、そんなに匂いはしないはず。

そう話したら、別の生徒が「それ、思い込みだね」と言ってくれて。偏見という言葉をわかりやすく言い換えたいと思っていたのですが、それだ! と。

きっとウンコも“思い込み”で、汚いとか不潔だとか言われているんでしょうね。伊沢さんの著書にもあったように、江戸時代には貴重な肥料として、お金を払ってウンコを買っていた時代もあったのに。

ここはもう理屈ではなくて、感覚や感性の問題だと思います。大人になってからこの認識を変えるのは、難しいのかもしれません。

欲望とどう向き合うか

伊沢 私も頭の硬い中高年よりも、可能性があるのは考え方が凝り固まっていない子どもたちだと思っています。だから『ウンコロジー入門』という本は、小学校高学年から中学生を読者対象に書きました。

栃木 子どもの可能性は感じつつも、一方で「何年経っても状況は変わらないのか」とうんざりすることもあります。

私は屠畜場の労働組合に所属して、屠畜の仕事の地位を向上できるよう、何年も活動してきました。自分の子どもや孫が、自分の職業のせいで差別されない世の中にしたいと思い、活動を続けてきたんです。差別のもっとも大きな被害者は、子どもたちですから。

ですが、私より二回りも年下の職員が労働組合に入ってきた時に、入会の理由を尋ねたら、全く同じことを話していたんですよ。「何十年経っても、結局差別は無くなっていないじゃないか」とがっかり落ち込んだものです。

一方で、希望を感じる出来事もありました。当時小学校4年生だった孫の学校で、親の職業を話して聞かせる企画があり、そこに呼んでもらえて。そこでも、ごく普通の職業として、屠畜の仕事を紹介しました。

その時の生徒が、感想文を書いてくれたのですが、その中でも私の孫が、「面白い仕事だと思ったので、一度やってみたい」と書いてくれていました。それが、素直に嬉しかったですね。

伊沢 それは、おじいちゃん冥利に尽きますね。だからこそ私は、栃木さんが子どもや孫世代のことをきちんと考えて行動している点が、本当に素晴らしいと思っているんです。

栃木 ありがとうございます。まあ、自分がやりたくてやっているだけ、ではあるんだけれど……。

伊沢 でも全ての原動力は、欲望ですよね。欲望自体はさまざまな原動力なので否定することはできませんが、良い結果を招くこともあれば、最悪の結果に導く可能性もある。その欲望にどう向き合うかが、重要だと思うのです。

これまで人間は、人間社会さえ良ければいいと、欲望に任せて自然からどんどん奪ってきましたよね。でも、誰も自然を壊したいと思って壊してきたわけではない。自分たちなりの夢や理想を掲げて、そこに辿り着こうという欲望のままに突き進んだ結果として、自然を破壊してしまったわけです。

私はそのように自分たちだけのことを考える“狭い欲望”ではなく、もっと幅を広げた“広い欲望”を大事にするべきではないかと考えているんです。

たとえば、自分を含めた人間だけではなく、他の動植物や菌類といった自然全体を巻き込んだ上で、何をすれば良いのかを考える。さらには自分の世代だけではなく、100年後200年後の将来を熟慮した上で、何をしたいのかを考える。こういった具合です。

そうすれば、欲望を良い方向に持っていけるのではないかと。その点で、栃木さんの孫世代まで思う気持ちには、とても共感するんです。

栃木 確かに視野を広く持つことは、非常に重要ですよね。今回『屠畜のお仕事』という本を書いたのを機に、自分自身の視野も狭かったと気づいたんです。いざ文章を書いてみると、いかにも労働組合の活動家風の、堅い文章しか書けなくて。

試行錯誤しながら柔らかい言葉に直しましたが、いかに自分が組合という閉じた世界の中に浸かっていたかに気づきました。

伊沢 私自身も、最近糞土塾というのを始めました。その活動を20〜30代の女性が手伝ってくれることが増えてきたんですが、考え方が全然違うんです。私は人間と自然の共生ばかりを考えてきました。しかし彼女たちは、人間社会で人間同士が共生するために、という視点を強く持っているんです。そして何よりも、“戦う”よりも“一緒に楽しく” 、と思っている人が多いようです。

そういう考えの人たちにも糞土塾に来てもらい、良い時間を過ごしてほしい。こうすべきという“正しさ”を主張するより、“楽しさ”の視点を大事にしていきたいと。今日の栃木さんとの対談でも、心を新たにしました。 

栃木 差別というのは、長い歴史があるものです。それを本当に変えられるのか? と問われることもありますが、変えられると思っていなければ、こんな活動はしていません。お互い“楽しさ”を武器に、活動を続けていきたいですね。

<了>

取材・撮影・執筆:金井明日香