土地に沁みこむもの(後編)

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小松由佳(フォトグラファー) × 伊沢正名(糞土師)

取材先のシリア難民の家族と小松由佳さん(写真提供/小松由佳)

前回に引き続き、伊沢さんは小松由佳さんから「共生」の術を学ぶため、対談を進めました。

 

生きているという実感が、死の恐怖を上回る

伊沢 小松さんはこれまで何度か死に直面してきましたよね。K2では登頂したこと以上に生きて還ってきたことに感動していました。当然ながら、死に直面している時は恐怖や死にたくないという気持ちがあるわけですよね。どうやって危険な場面を乗り越えるんですか?

小松 一瞬一瞬が必死な状態なので、死にたくないと強く思うというわけでもないんです。ヒマラヤにいると人間の命が運と不運に左右されているのを感じて、納得の境地に至るんです。

伊沢 諦めのような? 

小松 ポジティブな意味での諦めというか……。もちろん自分では必死に安全対策をして生き抜こうとしているのですが、そのうえで何かあってもしょうがないという感覚でしょうか。

伊沢 むやみに怖がったり逃げようとするのではなくて……。

小松 そうですね、すごく静かな心境でした。 

伊沢 登山家ってそういう人が多いんですか?

小松 そういう場にずっといると、人間はそうなるんじゃないでしょうか。危機意識に対してはとても敏感になりますが、逆に危機的状況に対して落ち着いていく気がします。

伊沢 そうですね。恐怖のほうに意識がいったら山なんてやっていられない。登山の喜びのほうが死に対する恐怖より強いわけですよね?

小松 登山の喜びというか、生きていることへの実感が死の恐怖よりも上回っている。それを感じるために登っていたように思います。

伊沢 シリアでは、自分だけではなく周りの人が殺されたりもするわけですよね。そこでは死についてどう感じましたか?

小松 ヒマラヤを登る中で得た死生観がやはり強烈で、そこからあまり変わっていないですね。人間の生死というのは、私達の努力や情熱以上に何か大きな自然の流れの中で左右されていると今も思っていますし、ただ生きていることがすごく特別なことなのだと思うようになりました。

伊沢 私の場合はちょっと違っていて、自分が生きるために食べることで、他の多くの生き物の命を奪っている。つまり命は自分一人のものではないという考え方なんです。死は確かに自分から命が離れていくことだけど、終わりではなく他の生き物に命が移行していくという、循環とか輪廻転生のような考えです。 

小松 私もそう思います。 

伊沢 だから自分の命を他の生き物につなげれば、自分から単に離れるというだけで、命はまだまだ生き続けるのではないか。そういう考え方なんですよね。

小松 よくわかります。

伊沢 そこで死というものを、自分個人としては命が完結してもいいのではないかと考えると、結構気楽なんです。だから生きている今も、命を循環させるためにノグソをしているんですよ。

小松 ノグソをすることでたくさんの命を生かしてきましたよね。

 

民族や宗教によって死生観が違う

伊沢 ノグソで命を返せるというところに行き着いたのが私にとっては大きい。そういう意味で糞土思想は、死の恐怖を超えて幸せを実現できる思想だと思っているんです。

ところで、他人の死は見えても自分の死は見ることができません。でもノグソをして観察すれば、自分がしたウンコで命が他の生き物に受け継がれる様子は見える。命の循環が見えるから、ウンコに向き合うってすごく大事。それを知れば、死生観ももっと楽になるんじゃないかと考えています。

モンゴルの草原を走る馬の群れ(写真提供/小松由佳)

小松 確かに、動物だったら排泄を通して循環の輪がつながっていますよね。私はかつてモンゴルに行った時に、草原で白い馬が死んでいるのを見ました。その時、馬がミイラ化して虫がわいて、サナギから孵化して飛び立っているところでした。もし日本で同じものを見たら気持ち悪がったのかもしれませんが、草原で見たらそんな思いはなくて、馬が死んで、その命が新しい命に循環していくんだと感じたんです。

伊沢 死体からウジが湧き、それが新しい命になって飛んでいくのを見て、小松さんは自分自身の命についても考えましたか? 

小松 はい。その後ゲルに帰って、草原に住む家族に馬のことを話したら、昔は馬と同じように草原に人間の遺体を埋めたと聞きました。お墓は作らず、埋めた場所もはっきりと記憶されない。でも自分達は草原に生きてきたし、死んだらまたこの草原に帰る存在で、この草原が自分たちの大きなお墓でもあるという感覚なんですよね。でも今は、法律でこうした埋葬が禁止されたそうです。埋葬を通じて意識されてきた草原との絆が、こうして少しずつ薄れていっているようです。

伊沢 モンゴルでもそうなってしまったというのは残念ですね。では、ムスリムの死生観はどうですか?

小松 イスラムでは、生者の世界と死者の世界がはっきり分かれています。死ねば死者の世界で審判を受けて地獄か天国へ行く。来世があることが前提です。でも実は、夫と結婚してムスリムになったことで、日本的なアニミズム思想にいかに自分が生かされてきたかに気づかされたんです。

例えば家族で節分の豆撒きをした時に、夫から「これは宗教だ」と言われたんですよ。一昨年天皇陛下が即位された時に旗を振りに行った際も「これも宗教だ」って夫に言われました。日本人は無宗教だと言われますが、実は根深いところで宗教的な文化を持っていて、簡単に意識や生活とは切り離せない。曖昧で、複雑で、深いものを持っていると思いました。

また日本文化の特色として、一神教の土地ほど生と死の境界が区別されていません。人が死んでも49日間は家の周りを歩いて回っているとか、お盆に帰ってくるとか、そういう曖昧な生と死の世界にいる。それが私にとって安らぎだったと気づいたんです。私は結婚してイスラムに改宗しましたが、自分の精神的なルーツを大切にしつつ、いかに生きられるか、その共生法を模索しています。

伊沢 まるで違う価値観を共生させるって、一体どういうふうに?  

小松 宗教とは、人間がその土地に生きるための知恵の結晶でもあると思うんです。人間としてどうあるべきか、どうやって様々な苦難を乗り越え、豊かに生きられるのか。これは自分なりの解釈ですが、人間はそれぞれ、宗教文化やそのルーツで得たものを活かしていけばいいのではないかと思うんです。イスラムの考えもリスペクトするけれど、自分が生まれ育った文化もリスペクトしたい。そして必ずしもそれは対立しないように感じています。

夕暮れどき、庭に集うシリア難民の家族(写真提供/小松由佳)

 

自分が生きたいように生きる

伊沢 私の家は古いので庭に氏神様や水神様の祠(ほこら)があるんですが、毎年お赤飯をお供えしていたのに母親が亡くなってからはやらなくなったんです。そもそも氏神様というのも人間が作りだしたもの。私は自然のほうへもっともっと行きたいので、野生動物の感覚で生きたらどうなのかなと思って。それで祠を放っておいたらだんだん崩れてきて。アニミズムを否定はしないし、むしろ良いと思っているのですが、そのアニミズムも人間が作りだしたもの。極端なことを言えば幻想ですよね。

小松 人間が生きるための信仰なんですね。

伊沢 だからそれを一切取っ払ったらどうなるのかなって考えているんです。

小松 面白い。    

伊沢 もちろん批判もされますよ。まだその祠を綺麗に手入れしていないんで。でも、もう少しやってみようと思ってます。当然色々な人から反発され咎められるのはわかっているのですが。

小松 反発されてもいいんじゃないですか? 伊沢さんがどうありたいかが大切なのだと思います。

伊沢 そうですね。人間社会の価値観から離れちゃったらどうなるのか、自分自身で体現してみようと思っているんです。 

小松 伊沢さんらしいですね。

伊沢 だから子供に勘当されても、まあそれはそれで良いじゃないかという気持ちもあるんです。と同時に、まずかったなという思いもあり、実はまだまだ揺れてるんですよ。でも、人間性というみんなが大事に思っているものを取り除いてみたら、逆に命のことや見過ごしていた何か大事なものが見えてくるんじゃないのかなって。これまでの夢や希望という、人々が幸せを願って追求してきた人間活動が原因で、気候変動などで地球が滅びそうになっている今こそそれが必要じゃないかと思っているんですが、どうなんでしょうね。

小松 うーん。  

伊沢 もちろん氏神様を祀るという気持ちも大事だというのもわかります。でも他にももっと大事なものがあるだろうって……。

小松 いいんじゃないでしょうか(笑)。

伊沢 いいですか? そう言われると自信持っちゃうなあ。

小松 自分の生き方はそれぞれが選べばいいと思います。どうあるべきかは、強制されるものでもないと思いますし。

伊沢 そういう考え方って、以前から持っていたんですか? 今私が言ったようなことを、いいんじゃないですかって普通の人は言わないですよね。

小松 そうですか? 時代によっても信仰って変わりますし、普通だと思います。

伊沢 小松さんは自分の考え方を普通だと思っていますか?

小松 普通じゃないかもしれないけど、それでいいと思うんです。みんなそれぞれ違っていていいと思うし、違うんだってことがわかっていればいい。

伊沢 そうか! 小松さんはそこをわかってるからなんだ!! 

小松 私は私が生きるようにいきたいし、それと同じように他の人も自分の信条をもって生きているから、それを認めあえればいいなと思うんです。

伊沢 それが小松さんの基本的な考え方なんですね。普通こういうことを言うと、まず悪く思われるよね。伝統にも根ざしてないし。でもそれをいいんじゃないですかって言われちゃうと、あまりに普通の人の反応と違ってて、ほんとにこれでいいのかなって戸惑ってしまいます(笑)。

小松 そうですかね。何を信じるかってすごく自由だと思う。

伊沢 それがさっき小松さんが言っていた、「違いを認めて理解されないことを理解する」ということなんだなと今わかりました。 

 

日本人には受け入れる土台がある

小松 むしろ、日本人って受け入れる土台がわりと大きいように思います。

伊沢 そうですか? 思ってはいても、それを表に出さない人が多いということなのかな。

砂漠での祈りの風景(写真提供/小松由佳)

小松 “こうじゃなくちゃいけない”というのは、一神教の土地よりはおおらかだと感じています。仏教が入ってきてからも、土着信仰や神道と混在してきましたよね。日本人には、とりあえず受け入れてしまおうという要素が元々あるというか、全てに神性を見出したり、神様も八百万の神じゃないですか。他文化や新しいものを柔軟に受け入れようとする寛容さがある一方で、それを他者にも当てはめて考えやすい傾向もあると感じています。

ラクダの放牧後、お茶を飲んでくつろぐ男たち(写真提供/小松由佳)

伊沢 私は、世間からはみ出していることを自覚している半面、そんな自分を他人にも理解して欲しいし、受け入れてほしいという気持ちもどこかにあるんです。

小松 こういっては大変失礼かもしれませんが、必ずしも世間に受け入れられなくてもいいのではないでしょうか? 伊沢さんの活動は、ユニークでオリジナルで、十分素晴らしいです。ご自分が活動に納得されていることが大切だと思います。

 

伊沢 ただね、自分一人が良ければそれでいいとは思っていないので……。

小松 確かに、それはそうですね。

伊沢 とにかく、気候変動など色々な問題があって、人間だけが滅びるなら自業自得でしょうがないけど、自然や他の生き物まで滅ぼしちゃうことに、人類の中の一人として責任を感じています。

小松 テーマが壮大です。 

伊沢 他の生き物や自然に自分が生かされているという気持ちが強いんです。自分を生かしてくれる自然に対して申し訳なさすぎると思うから、罪滅ぼしをしたいんです。だから自分一人が納得する生き方をすればいいのではなくて、人類全体が自然に謝れよ、というのを他の人にも世界中に広めたいんです。でも今の自分自身と人間社会の感覚が違いすぎていて、なかなか受け入れてもらえない。どうやったら実現できるのかなって。

小松 失礼ながら、皆にわかってもらえなくてもいいのではないですか。少数でも理解者がいて、活動が継続されていくことが大切では? 

伊沢 どうしてですか?

小松 人間にとって本当に良いものだったら、理解者が自然と広がっていくと思うんです。でも、広めるには時間がかかると思います。活動の広がりを信じて、伊沢さんが活動家としてどう生きるかが大事ではないでしょうか。

伊沢 わかってもらおうじゃなくて、皆が真似したくなるような生き方をすればいい? でも私は広めたいんですよ。自分一人でするんじゃなくて、人類全体の問題として考えていきたいんです。

小松 うーん。あくまで一意見ですが、何かを伝えることと、それを理解してもらうことはまた別のことのように思うんです。皆に理解してもらえたら素晴らしいけれど、そうじゃない価値観の人もいるかもしれません。でも、こういう価値観があるんだよと伝えていくことはできます。今は創始者の伊沢さんが、この糞土思想を伝えることに徹し、伝えられた人々の中から新しいムーブメントが生まれていく。そうして広がっていくのではないでしょうか。

例えばですが、私が取材しているシリアやトルコなどの西アジア地域はイスラム教社会です。神が全てを作り、自然界を支配する権限を人間に与えたという考え方です。ですので、自然に生かされているという思想が前提としてないんです。伊沢さんの糞土思想は、自然界へのお返しや、循環という概念が前提となっていて、それは東アジア的な価値観のように思います。

伊沢 確かに東アジアと他の地域は違うでしょうね。

 

ノグソした土地に変化は起きたのか?

伊沢 ちょっと私は欲張りすぎなんですね、それにせっかちなんです。

小松 ガンジーの言葉に、「良きことはかたつむりの速度で進む」というものがあります。

伊沢 私も好きな言葉です。

小松 人の心を変えたり、世の中を変えるということは時間がかかるし、むしろ時間をかけないといけない。だから急がず、じっくり腰を据えたほうが、結果的には良いのではないかと思います。

伊沢 ノグソを始めて48年目ですが、これだけ時間をかけたからこそ糞土思想はしっかりしたものになった。5年や10年じゃない、1万5千回以上ノグソしているから自信を持って言えるんだ、というのはあります。でもこの歳になると、この先どれくらい時間があるんだろうという焦りも感じるんですよ。

小松 そのノグソしてきた土地はどういうふうに変わってきたんですか。

伊沢 さあ、ノグソの影響で林がどう変わったか、そこはよくわからないです。ノグソした場所としていない場所をきちんと分けて、継続して観察していけば答えが出てくるんだろうけど。どこかでやってみたいですけどね。

小松 はい、是非やってみたいですね。

伊沢 でもキノコの発生を見ると少しはわかります。2007~09年に野糞跡掘り返し調査をしたときに、それ以前にはたまにしかノグソに行かなかった西の林としょっちゅうノグソをしていた東の林を比べたら、草食動物のウンコに生えるバフンヒトヨタケの発生頻度はほぼ同じなのに、肉食動物のウンコに生えるアシナガヌメリは東の方が圧倒的に多かったんです。

ノグソ跡に生えたバフンヒトヨタケとアシナガヌメリ(写真/糞土師)

伊沢 私は雑食で野菜も肉も食べるけど、この辺にいるウサギやイノシシなど野生動物の平均値と比べたら、私ははるかに肉食系でしょう。ということは、私が長年してきたノグソの影響で、東の林ではアシナガヌメリ菌が繁殖していたんでしょうね。そういう面ではノグソで林は変わったのかなと思います。

小松 それはすごいですね。生えてきたキノコは動物が食べるんですか? 

伊沢 バフンヒトヨタケは人が食べるには小さすぎるしすぐ溶けちゃうし、アシナガヌメリは肉質はすごく良いんだけど食毒不明です。それに虫や動物が食べたのも確認していません。でもそれは人間が知らないだけのことで、自然の中では必ず誰かのご馳走になっているはずだと思います。

それにしても今日小松さんと初めて会って話をして、イスラムという異文化との共生を本気で実践している小松さんならではの考えを聞けたのは嬉しかったです。さっき小松さんは氏神様のことでも、私のことを「それでいいんじゃないか」と言ってくれました。

私の講演を聴いた人の中には、例えば「コペルニクス的転回」なんてスキップしたくなるようなことを言ってくれる人もいましたが、実は最も嬉しいのは、「ウンコのことをこんなに楽しく話す人に会ったことはなかった」という感想なんです。とにかくウンコとノグソの話をしているときの私はしあわせそのものなんですね。あれこれ迷って思い悩んだり焦ったりするよりも、小松さんの言うように、「糞土師としてしあわせな生き方を貫くこと」こそ一番大事じゃないかと思えるようになりました。

小松 恐縮です。私から見ると、半世紀ほどもノグソ文化を継続されて立派に大成されていて、すでに形になっていらっしゃると思います。

伊沢 そうですか。これをどうやったら人間社会に効果的に広められるか聞きたかったのですが、小松さんの懐の深い母性から出た言葉は本当に大収穫でした。今日はどうもありがとうございました。

(構成・写真/大西夏奈子)

<了>