アイヌのイメージが、ひっくり返る(後編)

関根摩耶(アイヌ文化発信者)×伊沢正名(糞土師)

前回に引き続き、アイヌ民族の文化を伝える関根摩耶さんとの対談を続けました。

中退しても叱られなかった

伊沢 アイヌの集落で生まれて、関根さん自身はどんな人生を送ってきたんですか?

関根 小さい頃は、アイヌの文化の中で育ちました。私自身は、世の中のいろんなものに疑問を抱いたり、はちゃめちゃだったりするところもあって、中学2年生で学校を中退しているんです。

でも、中学を中退することを親に連絡したら、「3時間後に着くから、荷物まとめときー」と言われただけ(笑)。何食わぬ顔で迎えに来てくれて、責められることもありませんでした。

伊沢 え、それだけ? すごい器のご両親だ(笑)。

実は私も、高校を中退しているんです。きっかけは、大人の世界の汚さを知って人間不信になったことと、学校教育への失望です。そろそろ大学受験の準備に入る高2の最初の授業で先生が、「俺は教育のプロだ。おまえたちが希望の大学に入れるように、テストで良い点数の取り方を教えてやる」って熱弁を振るって。

つまらない知識を詰め込むだけで、それが教育なのかと腹が立って、中退してしまいました。私の場合はたった一人の同級生を除いて、学校でも家族からも猛反対されましたが(笑)。

それにしても、関根さんと「学校中退」という共通点があったとは驚きですね。中学を退学してからは、どう過ごしていたんですか?  

関根 中退した後の1年間は、遊び歩いていました。そして高校は札幌の学校に進学して、アイヌの集落を出て初めて一人暮らしを始めました。

その頃はバイト三昧の生活でしたね。高校時代もよく問題を起こして、警察に補導されることもありました。ですがそんな時も両親は、文句も言わずに明け方に札幌の警察署まで迎えにきて、家まで送り届けてくれました。

そしてある時、「自分がやっていることってダサいな」って思い始めたんです。なぜ私は、自分のためだけに生きているんだろうって。まず大切にすべきなのは、自分の家族や地元なんじゃないかと気づいたんです。その頃からアイヌのことをきちんと勉強し始めて、ラジオなどでの発信を始めるようになりました。

ラジオの収録現場の関根さん。「イランカラプテ」はアイヌ語で「こんにちは」という意味。

伊沢 なるほど。それにしても素晴らしいご両親ですね。

関根 確かに今では非常に寛大ですが、元々はとても厳しい家庭だったんですよ。挨拶や自然への態度など、「人としてやるべきことはきちんとしなさい」という教育方針でした。小学生の頃は、鉛筆削りすら持たせてもらえず、ナイフで削っていました。誤って手を切ってしまうこともあるけれど、痛みを自分で体感することが大事だと言われていました。

ですが、厳しく躾を受けたのも10歳まで。10歳を過ぎたらもう大人で、「自分でやったことには、自分で責任を取りなさい」という方針に一気に変わったんです。10歳の誕生日の次の日から、ルールは一切なくなりました。

伊沢 それこそ本物の教育ですね。最も大切な基本は小さいうちにたたき込んで、次いで本人の自主性を引き出す。しかも失敗や怪我を経験することで、危険性や痛みなどを身体で覚え、生きる力を身につけさせる。

でも今の日本社会の子育ては「褒めて伸ばす」ばっかりで、悪戯をしても叱らない親も多いし、怪我もさせないですよね。

これでまともな大人に育つのかと、私はこの風潮に大反対なんです。おまけに、公園で子どもが遊ぶ声がうるさいとクレームを付けて、公園を封鎖させる大人までいます。ここでも、「和人はアイヌに学べ!」って言いたくなりますよ。

世の中に絶対的な善悪は存在しない

伊沢 関根さんのご両親は、自分でやったことには、自分で責任を取る。責任が取れる範囲で生きなさいという教育なんですね。ちなみに関根さんは、世の中に「絶対に正しいもの」ってあると思いますか?

関根 どうだろう、ないんじゃないかな? どんなことにも、必ず良い面と悪い面があると思います。

伊沢 そう、私も同じ意見です。善悪は結局、その人の好みでしかなく、絶対に正しいというものはない。

だから私は何かの判断をするときに、善悪ではなく、責任が取れるかどうかで決めるようにしています。責任が取れることはやってもいい。取れないことはやらない。その判断基準を持てば、自ずとさまざまな問題の答えが見えてきます。

たとえば原発。原発を動かせば、大量の電気を生み出せるけれど、とんでもなく危険な核廃棄物の責任は取れないですよね。だから私は、原発は使うべきではないと思っています。むしろ、「これが正しいんだ」と断言している人が一番危ないし、嫌いなんです。その究極が、上辺だけのえせ人権派だと考えています。

関根 そもそも私が本当に問題視しているのは、現代人の単一的なものの見方です。わかりやすく言い換えるならば、台風が来ても、値段の上昇しか気にしない人間性。

本来なら台風が来たら「山の木は大丈夫だろうか」など、気にすべきことはたくさんある。それを「物価」という経済的な一つの軸でしか判断できなくなっているこの世の中は、本当におかしいなって思っています。その問題提起をしたくて、アイヌの文化を伝える活動をしていると言っても過言ではありません。

アイヌの暮らしを撮影する関根さん。

伊沢 本当にその通り。全てをお金で判断している。お金になれば良くて、儲からなければ価値がないと、経済的な軸で考えることしかできないんですよね。それがいかに危険なことか。

私は糞土師になる前は、キノコやコケなどを専門にした写真家だったんです。世の中から見れば、きちんとお金をもらえる真っ当な仕事ですよね。でも、私はその経済的な軸で判断され、認められてしまうことが、むしろ嫌だったんです。

糞土師になって、さらに“人でなし”になって、人間社会の中では底辺まで落ちました。そうすることで、この社会のおかしさがハッキリ見えてきたと感じています。

生きていく自信をつける教育を

関根 伊沢さんは、テストの点数ばかり気にする学校に嫌気が差して、高校を中退したとお話ししていましたが、この単一的なものの見方を変えるには、教育そのものを変えるしかないと考えているんです。

私はこれまで、親や親戚からテストの点数についてなんて、何も言われたことがありません。そうではなくて「お腹痛くなったらこの木の皮を食べなさい」とか「喉が渇いたらこの木はすぐ樹液が出るから飲みなさい」とか、そういう自然の中で生きていく知恵を教わってきたんですね。そのおかげで、人生何があってもなんとかなる、生きていけるという自信をつけることができました。

教室の中で教科書を丸暗記させて、テストの点数ばかり気にする教育では、そんな自信は育めない。大袈裟ではなく、もはや教育という言葉のあり方から変えていく必要があると考えています。

伊沢 非常に共感します。つまらない知識があると、かえって考える力を阻害するんですよね。私には好きな植物写真家がいて、その人は花の写真の世界では3本指に入るくらい素晴らしい写真の腕を持った人なんです。でも、その人が撮ったキノコの写真が、私から見たら本当に下手くそなんですよ。

花を撮るための見方と技術が出来上がっているからこそ、その方法で撮影していて、キノコ自体がきちんと見えていない。余計な知識があるとむしろマイナスに働いてしまう、その良い例だと思います。

私が菌類や隠花植物という、それまで写真の世界になかった分野を専門にする写真家になれたのは、写真少年でもなかったし、写真学校にも行ってなくて、写真のことを何も知らなかったからなんです。

キノコなどの撮り方を自分なりにゼロから工夫できたのは、むしろ写真教育を受けていなかったお陰です。二十歳になるまでは写真が嫌いで、既成概念に毒されなかったのは幸いでした。

関根 そうですよね。数年前に北海道で大きな地震があって、心配して東京から家族に連絡したんです。そうしたら、地震で停電しているはずなのに、自家発電できているからスマホも使えるそうで、なんだかすごく余裕そうで、拍子抜けしてしまって(笑)。どんな状況でも生きられる自信って、そういうことですよね。

伊沢 いいですねえ。私は、日本全土で一度電気が止まってみればいいと思っているんですよ。みんな、やってみれば案外、生活できると思うんです。東日本大震災の時も停電が多くの地域でありましたが、それでも何とかなりましたよね。電気が足りないと騒ぐのではなくて、足りなくてもなんとかなるように知恵を絞って工夫すればいいんです。

関根 そうですよね。その根本の考え方を変えるために、アイヌの文化を知ってもらうことはすごく有用だと思うんです。現代社会で当たり前と考えられている文化や考え方と、全然違うから。アイヌを使えば、今の当たり前をひっくり返せるかもしれない。

伊沢 私の場合はまさに、その武器はウンコ。意識改革を進めるために、ウンコほど強力な武器はないですよ。だって糞土思想は、社会の最底辺にあるウンコと野糞こそ、最も尊く価値があるものだと訴えているんですからね。

糞土師になる前は、自然の素晴らしさや重要性を伝えるために写真を使っていましたが、ウンコを使った方がよっぽど本質的だし効果がある。そんな思いで写真家から糞土師になって、私としては大きく前進したつもりだったのですが、周りの目は違いました。ウンコの世界に逃げた裏切り者と見られてしまったんです。

関根 そうだったんですね。私には、すごく価値のある役割に思えますが。

アイヌという言葉は、アイヌ語では「ひと」という意味です。それもただの「ひと」ではなく、人から慕われ尊敬される、いわば、人としての「ひと」を指します。ではどうすればアイヌになれるかと言えば、社会から役割を持たせられ続ける存在がアイヌなのです。人や自然から求められているか、自然ときちんと対話しているか。それが重要なんです。

伊沢 良い考え方ですね。私は、人権派なんかがよく言う「人は生きているだけで価値がある」なんて言葉は、くだらないなと思うんです。地球を汚すだけの人間に、本当に存在価値があるのか。世界の人口はとうとう80億人を超えてしまったけど、明らかに増えすぎたと思っています。半分に減ってもいい。

アイヌなんて全盛期でも、あの広い北海道の土地で2万人以下の人口ですよね。狩猟採集で完全に自然と共生して生きようとしたら、それが限界なんでしょうね。

関根 そうかもしれないですね。でも便利になりすぎた今の世の中、「全て元に戻そう」というのは、現実的にもうできないですよね。現代社会を生きていると、狩りに行かなくても、漁に出なくても、肉も魚も簡単に手に入ります。

そうすると、お金さえあれば一人で生きていけると勘違いしてしまう人も、多いと思います。なぜ私は、ここまで加工された肉や魚を、何不自由なく食べられているのか。現代社会に暮らしていても、そういうことを想像しながら生きられる人でありたいと思うんです。

伊沢 本当にそうですね。今日のお話は、アイヌについての見方が完全にひっくり返ってしまう、ビックリの連続でした。もっともっと多くの人に、この関根さんの話を聴いてもらいたいですね。 

これまで私は、現在の地球の危機的状況を改善するのに、正しさよりも責任という糞土思想が大きな力になると考えていたのですが、今日関根さんの話を伺って、アイヌの文化とコラボしたらもっと素晴らしい力を発揮できるんじゃないかと思うようになりました。 

糞土塾ではいろいろなイベントをやっていきますが、なるべく早い段階で是非とも関根さんのトークショーをやってみたいです。もしも「アイヌ流野糞のしかた」なんていうのもあれば、プープランドでの実践講座もセットにして。いかがですか? 

関根 面白そうですね!

私は、マルかバツか、白か黒かのような、わかりやすい答えを見つけたり考えるだけではなく、世の中にあるいろんな中間のようなところをバランスよく自分の中で自分のものにしていくことが、意味のあることだと考えます。どちらがいい、悪い、ではなく、それぞれが意味をきちんと持ち、自分を伝えることができるようになれば、素敵な社会になるのではないでしょうか。

伊沢 そうですそうです! こうして関根さんと話していると、目の前がどんどん明るくなってきました。糞土塾では特に、プープランドの林を活用して子どもたちが伸び伸び成長し、社会を変えていくことを大きな目標にしています。関根さんの力も借りて、これからは力を合わせてやっていきたいです。今日は本当にありがとうございました。

<了>

(取材・撮影・執筆:金井明日香)