2020年5月から始めた「対談ふんだん」は19回(そのうち4回は前後編)行われ、様々な分野の方とお話してきました。そこで区切りの20回目は、これまであまり話題に出なかったことを中心に、糞土師の独談という形で話を進めます。
まずは糞土師誕生までの軌跡を、子どもの頃から順を追って……
戦後のまだ貧しい時代、田舎の自然の中で育つ。
生まれたのは1950年(昭和25年)、まだ戦後の貧しい時代だった。親父は田舎で歯医者をやっていて、三人兄弟の真ん中として茨城県西茨城郡北那珂村(55年に岩瀬町、現桜川市)で生まれ育ったんだ。当時は遊ぶ所といったら自然の中。野山はみんなのもので、とにかく冬枯れの田んぼや野山を駆けずりまわっていたね。
まだ貧しい時代だったからおやつもなくて、山遊びでは木の実やキノコを採って、特に甘い乳の出るチチタケは生で食べたり。貧しいからこそ、身近にある自然と深く関わるしかなかった。今の子どもより、はるかに自然との絆は強かったと思う。遊び道具は肥後守という安い小刀を使って自分で作ったり、麦わらで蛍かごを編んで蛍狩りをしたこともあるよ。
なんでもお金で買える時代じゃなかったからこそ、自分で作るしかなかった。身の回りにあるものを使って工夫することを学んだし、そんな経験が手先の器用さにも繋がっていると思うんだ。
もちろん危ないこともいろいろあって、藁束を縛っただけの筏遊びでは途中で藁がばらけて溺れそうになったり、小刀で指を切ったり…。でも、そんな遊びのなかで何が危ないかを体で覚えていった。安全第一で育てられる今の子どもたちって、むしろかわいそうだと思うんだよね。
通学の列車内で大人社会の汚さを知り、人間不信に。
中学から水戸にある学校に通ったけれど、最初の一年間はまだ蒸気機関車だった。その中学時代の列車内で、会社や上司の悪口など、大人たちの汚い本音をうんざりするほど聞いてしまったんだ。
中でも一番印象に残っているのは、ボックス席の隣に座った制服自衛官の話。食糧関係の仕事らしく、年度末に残っていると翌年の予算が取れないからと、まだ手も付けてない醤油の缶を開けて、全部ドブに捨てたと面白おかしくしゃべっていた。
それまでは単純に、シュバイツァーや野口英世の伝記を読んで医者になって世の中のためになりたい、と将来の夢を持っていた。ところが大人社会の汚さを知って不信感が募ったし、怒りも感じたね。
人間相手に暮らすのが嫌になり、もともと山の自然が好きだったから、高校に入った時には進路は医者じゃなく、日がな山の中を歩き回って暮らせる営林署職員。ところがその後、公害や自然破壊が大きな社会問題になると、各地で林を伐りまくっている営林署の実態がニュースで伝わってきた。とうとう人間社会の中には行き場がなくなり、そうなると、もう山に籠って仙人みたいに暮らすしかないと考えるようになったんだ。
仙人を夢見て高校中退。新天地を求めて旅に出る。
人間不信で悶々としている中、2年生になって最初の授業で「俺は教育のプロだ」という教師が現れた。「おまえたちが希望する大学に行けるように、テストで良い点を取る方法を教えてやる」。この一言で教育にも不信感が渦巻き、授業をサボって図書館に籠ったり映画を観に行ったり、テストは白紙で出し、挙げ句の果ては白紙答案の裏に「教育とは何ですか?」と教師に逆質問までする、とんでもない問題児になっていった。ちなみに教師の方も白紙回答で、教育への信頼感もすっかり無くなっちゃったね。
学年末の成績表は当然、1が幾つも並んで落第するはずなのに、全て2以上で3年に進級できるという。こんな問題児は早く卒業させて、体よく追い出そうという魂胆に違いない。人間不信は極限まで達し、3年になって間もなく、退学届を出して学校を去ったんだ。
たった一人の同級生を除き、親から何から全ての大反対を押し切って退学したのはいいけど、アルバイトの経験すら一切なく、誰にも頼らずどうやって生活すれば良いんだ。正直、目の前は真っ暗だった。でもそれ以上に、人間不信の怒りの方がもっと強かった。
手先が器用で学校では図工が得意だったことが幸いし、歯医者の親父の指導で入れ歯作りを手伝い、小遣いが貰えることになった。早速仙人として籠る山を探すため、時間の許す限りヒッチハイクで北海道から九州まで貧乏旅を始めた。だから今では、高校中退の日が本当の誕生日だと思っているんだ。
今のスマートなザックとは違って、ちいさな体にでかくて重いキスリングを背負って歩いていると、「おい兄ちゃん、どこまで行くんだ? この車に乗れ」、「泊まるとこないんだったら、うちへ泊まっていけ」、「今日は給料日だから焼き肉のご馳走だぞ!」。旅先ではしばしば見ず知らずの人から思わぬ親切を受け、それまで街中で見てきた大人たちとの違いに驚くと共に、自分自身の偏狭さにも気がついた。その一方で開発による自然破壊の現場を多数目にし、安住の地など簡単には見つかりそうにもなかったから、仙人になる夢もしぼんできちゃったね。
人間不信が氷解し、改めて人間社会で生きていく決意をしたときに、やるべきことは自然保護運動以外には思いつかなかった。2年余の山旅を切り上げ、1970年夏からいきなり、何の準備もなく自然保護運動に走りだしたんだ。
自然保護運動と屎尿処理場反対運動
自然保護運動といっても、いったい何をどうすれば良いのか全然わからなかった。とりあえず自然に関係あるところと考え、まずは母校の高校の生物と登山部の部室に突然押しかけ、とにかく自然保護をやろうと熱っぽく呼びかけると、反応は意外に上々。まだ学生運動の熱気が残る時代で、高校生も社会問題に関心を持っていた。
続いて水戸市内の高校や茨大の生物研究会などを回って勧誘を続け、「自然を守ろう若者連合」という学生中心の自然保護グループを立ち上げたんだ。学園祭での展示や新聞への投書、清掃ハイキングや生物調査を始めたり、得意の絵を生かして「自然保護のてびき」などの冊子も作った。でも、60年代に盛んだった学生運動が下火になるにつれ、会員の学生たちの意識も急速に白けていき、わずか5年後の75年には解散の憂き目を見ることになっちゃったんだ。
若者連合解散のきっかけは、単に学生たちの意識低下だけではなく、実は私自身にも大きな変化があったんだ。73年の暮れ近く、屎尿処理場建設反対という住民運動のニュースが、事の発端だった。
まだ下水道整備がそれほど進んでいなかった当時は、トイレのウンコは主にバキュームカーで処理場に運び込まれていた。処理場自体の臭い汚いというイメージに加え、家の前をしょっちゅうバキュームカーが往来することを思えば、反対したくなる住民の気持ちもそれなりに理解は出来るよね。でも、処理場で処理するのは自分たちが出したウンコやオシッコじゃないか。トイレにウンコをしているかぎりは欠かせない処理場を、嫌だからと一方的に拒否するとは、なんて身勝手なんだ。反対するならウンコをするな!と強い憤りを感じたね。
それまで住民運動として自然保護をやってきた私は、自然を破壊する企業や行政が悪で、それに異議を申し立てる住民は正しい、と信じ込んでいた。ところがこの処理場反対運動では、善悪が根本から揺らいでしまったね。結局は自分の好きなものが善で、嫌いなものを悪と決めつけて反対しているだけじゃないか。私は自然が大好きだし、大切だと考えるから自然保護運動をしてきたわけで、物質的豊かさや利便性を求める人だったら、開発が必要だと考えるよね。
そしてもう一つ、それまで当たり前にトイレを使っていた自分自身も、その処理で誰かに迷惑を掛けていたことに気付いてしまった。トイレにウンコをすることの意味を、責任を、これほど深く考えたのは人生初の経験だったね。
キノコが私を野糞に導いた
ウンコが素直に出せなくなった私を救ってくれたのが、実はキノコだった。その少し前の73年秋、偶然写真に撮ったキノコの名前を調べようと、キノコのガイドブックを買ったんだ。そこに、動植物の死骸もウンコも、菌類が腐らせて土に還し、その養分で植物が育ち、森が造られるという菌類の働きが書いてあったんだよね。だったらウンコを山ですれば困ったゴミではなく、木を育てる栄養になる。
答えは野糞だった!
そしてもう一つ、それまでの自然保護では動植物でも環境でも、自然を物として捉えていた。しかしどんな生き物でも必ず死ぬし、自然の素晴らしさは生き物で、つまり命で成り立っているはずだ。死んだ動植物を菌類が土に還し、新たな命に繋げる“命の循環”を守ることこそ、真の自然保護だと気付いた瞬間だった。自然観が180度転換したことで、私は新たな道を模索し始めたんだ。
そして年が明けた1974年1月1日、スコップとチリ紙を持って裏山へ、意気揚々と信念の野糞に出かけたわけ。なぜスコップかというと、人間不信に陥った高校時代は日曜ごとに、たった一人で裏山を歩いては山道のゴミを掃除して回っていたんだ。ほぼ3カ月で山道を一巡するけど、次に行くとまたゴミが落ちているというイタチごっこだった。それでも、好きな山が汚れているのは我慢ならなかったんだよ。
そんなある日、頂上付近の尾根筋で、道端の紙くずを拾ったとたん紙が破れ、下に隠れていたウンコをモロに掴んじゃったんだ。手を洗う水もない苦い経験から、野糞では必ず穴を掘り、きちんとウンコを埋めるのが絶対の条件になったというわけ。
自然保護運動から写真家へ
一筆ひと筆、丹念に仕上げる絵や彫刻が好きで、得意でもあった私は、写真なんてシャッターを押しさえすれば一瞬で写ってしまうと馬鹿にして、自然保護運動を始めるまではカメラを手にすることはなかった。自然破壊の現場写真が必要になり、仕方なくカメラを買ったくらいだから、私の写真の知識は完全にゼロだったね。ところがそれが、後にとんでもない力になろうとは!
生物部の高校生たちはそれぞれに、花やチョウ、野鳥、両生類などと、自分の好きな専門分野ごとに結構うまい写真を撮っていたんだ。保護運動の中では自然観察も重要になり、私も彼らに倣ってマクロレンズを買い、見よう見まねで花や虫などを写し始めたんだけど、やってみると結構面白い。特に、シャッターを切ったが最後やり直しのきかない写真に、絵には無い潔さを見出しちゃった。また、逆光撮影での透過光の透明感が、絵では難しいのに写真では何の苦もなく表現できた。急速に写真の面白さに引き込まれていく中で撮ったのが、73年秋のキノコだった。
菌類の魅力を知り、キノコの写真撮影に熱くなってきたころ、いつまでも入れ歯作りの手伝いでは独り立ちできないという思いも募ってきた。そんなとき、昆虫写真家の栗林慧さんに写真を見ていただく機会があり、ハナオチバタケの写真を褒めてもらえたんだ。栗林さんの勧めで『アサヒカメラ』フレッシュアングルにキノコの「組み写真」を応募すると、75年2月号に掲載された。すると直後に、それを見たあかね書房の科学のアルバムを担当する編集者から、キノコの本を作りませんか、という手紙が届いた。
何という幸運!いきなり写真家への道が開けてきたんだよ。
伊沢流、常識外れの写真術
写真家を目指してキノコの魅力を広めるのに、本作りの提案は願ってもないことだけど、私にはキノコの知識もなければ写真技術もまだまだ未熟。高校中退の時と同じように先の見通しは立たなかったけど、その時の経験から、なんとかなるだろうという変な自信だけはあったよね。
キノコの素晴らしい働きを教えていただいた今関六也(いまぜきろくや)先生に指導と監修をお願いし、日本菌学会にも入会して、無我夢中で撮影に駆けずり回り、77年秋には科学のアルバムシリーズの1冊として、『キノコの世界』が完成した。
キノコが見られない冬場には、新たにコケの魅力に目覚めたり、南方熊楠で有名な粘菌(変形菌)には、UFO研究会と連れションという不思議な縁で結びつき、このころにはキノコ・コケ・変形菌をメインに、菌類と隠花植物専門の写真家を目指して突進していた。そして、これらの被写体独特の常識外れの写真術を、失敗を重ねながら習得していったんだ。
キノコやコケなどは林内の日陰での撮影が、そしてミリ単位の微小なコケや変形菌などは拡大撮影が当たり前だった。また、植物なら花、動物だったら顔や目というように、そこにさえピントが合っていれば、他がボケていても様になるポイントがある。しかしキノコなどにはそれがなく、全体にしっかりピントが合っていないと寝ぼけた写真になり、種の特徴もわからない。薄暗い日陰でレンズを絞り込めば、シャッタースピードは何秒、何十秒になることも珍しくない。おまけに拡大撮影では、撮影倍率が上がるにつれて数倍~数十倍という露出時間が必要になる。カメラブレは致命的で、三脚だけでは足りずに、レンズ付近も支える四脚撮影にまで発展した。
太陽光の下で良い発色をするように出来ているカラーフィルムは、日陰では青味が増し、長時間露光では赤味がかってくる。だから写真教育を受けたりして良く知っている人は、日向の光を好み、長時間露光は避ける。ところが写真撮影のイロハも知らない私は必要に迫られて、やってはいけないことを同時に二つもやらかしていたんだよ。それなのに目も覚めるような色彩の写真が撮れてしまったのは、「マイナス×マイナス=プラス」という偶然の産物だったんだ。
知らないからこそ挑戦できる「無知」のお陰で良い写真が撮れちゃった。そんな私の信条は、「曇りこそ写真日和、小雨もなかなか、晴天は最悪」。日陰者に太陽は似合わない。晴れた日はわざわざ白傘を差し掛けて、さらに青いフィルターも付けて曇天の光を再現するという、ちょっと変な撮り方なんだ。
正しい野糞のしかたの確立から、連続記録の樹立まで
キノコの撮影とほぼ同時に始まった野糞は、年々その回数が伸びると共に、技術面でも大きな進歩があった。特に自慢したいのは、トイレ使用を避けるために我慢するのではなく、野糞が困難な翌日に備えて「明日のウンコを今日する」こと。そんなことは不可能だと言われそうだけど、よく考えてもらいたい。
みなさんは夜寝る前に、たいして尿意がなくてもオシッコをしていないだろうか? 小さい頃はオネショ予防でしつけられたし、大人になってからも夜中に起きたくないから、寝る前に膀胱を空っぽにする習慣がついている。ウンコだって同じように出来ないかと考えたんだ。1983年のことだったね。
私は基本的に朝食後に便意がきて野糞に行くんだけど、ウンコは次から次に直腸に送り込まれ、夕方には半日分のウンコが溜まっているはずだよね。だったらそれをさっさと出してしまえば、次の排便を半日先伸ばしできるに違いない。便意がなくてもひたすら排便に意識を集中して頑張っていると、徐々にだけど出せるようになってきたんだ。もちろん便意があって出すときのような快感はないけどね。
1990年秋には、一切紙を使わず葉っぱで拭き、水で仕上げて枯れ枝の目印を立てる「正しい野糞のしかた」を確立。そして野糞を始めて四半世紀、1999年には遂に年間野糞率100%を達成する。さらに2000年から2013年に掛けて、13年と45日(4793日)という驚異的な連続野糞記録を樹立したんだ。
『日本の野生植物・コケ』の大仕事で完全燃焼。 「もう死んでもいい」。
写真の仕事を始めてしばらくは、収入が撮影機材や取材費で消えてしまい、相変わらず入れ歯作りと二足のわらじで自転車操業が続いていた。そして自分の写真のレベルに自信を持てるようになってプロ宣言したのは、14冊目の著書となる『日本のきのこ』が出た1988年のことだった。じつはその本作りが始まる直前の86年に親父が咽頭がんで入院し、入れ歯の仕事がなくなり撮影時間が十分取れるようになったんだ。しかもバブルの時代で出版社も気前がよく、多額の取材費を印税の前払いで工面できたことも幸運だった。
『日本のきのこ』は初版35000部、1週間後には1万部と次々増刷を重ね、ようやく一人前に税金を払える身分になったのもこの時からなんだ。それにしても親父の癌がプロ写真家になるきっかけだったなんて、不思議な縁だよね。
それから10年、1997年には私の運命を変えることになる本作りが始まった。日本産のコケ全種類を網羅する写真図鑑:平凡社の『日本の野生植物・コケ』の大仕事。その前のシダ編にも携わったけど、その時は4人の植物写真家が地域を分担して取材に当たり、それほどの苦労もなく仕事を終えた。でも、微小なコケとなるとまともに撮れる写真家は他にいなかった。1200枚近い写真の一部を研究者に提供してもらった以外は、97%以上を私一人で埋めなければならなかったんだ。
沖縄から北海道まで、さらには北岳山頂から西表島横断まで、厳しい撮影山行が3年続いた。1年目は心身共に充実していたけれど、2年目は体力を消耗し尽くし、3年目は気力さえ途切れそうだった。いつでも何処でも撮れるからと後回しにしていたコスギゴケの葉の乾燥状態を、撮影期限ギリギリの99年の大晦日に、やっとの思いで撮るありさまだった。
思い出に残る撮影は山ほどあるんだけど、葉っぱ1枚がたったの4細胞という極めて微小なミジンコゴケは、沖縄はヤンバルの深い森の中で、必死の思いで写した。撮影倍率は14倍。つまり35ミリフィルムに2.5ミリの範囲しか入らない、細胞1個1個がハッキリ見える拡大率だよ。ベローズに拡大撮影専用のマクロレンズを付けて、四脚撮影、ミクロン単位でピントを合わせる。ところが、地面は落ち葉で柔らかく不安定。数十秒の露光中に、心臓の鼓動が伝わってブレるんじゃないかと心配だった。とにかく、帰ってからフィルムを現像しないと結果がわからないからね。心臓を止めたくなるほどの、極限状態での撮影だったよ。
99年末に撮影が終わっても、まだ写真キャプション作りや編集作業が残っていた。読者がそのコケの実際の大きさを理解するのに、写真倍率は欠かせない。ノギスを使い、コケの標本とフィルム画面を実体顕微鏡下で0.1ミリ単位で測定し、撮影倍率を出し、それに印刷原稿の倍率を掛けて決定する。そんな肩の凝る作業を、交通事故に遭い、むち打ち症になった状態で数ヶ月続けた。
全ての作業が終わった2000年の暮れ、大仕事をやり遂げた満足感と完全燃焼した放心状態の中で、「もう死んでもいい」、そんな想いが湧き上がってきた。
写真家卒業、そして糞土師に
もう死んでもいい、残りの人生はおまけだ、と思う中で、これからやることはウンコと野糞で訴えることしか考えつかなかった。まだ幾つかの本作りは続いていたけど、写真家を目指した当初から作りたかったキノコの生態の本『きのこ博士入門』と、初めてのカビの本『たくさんのふしぎ・クサレケカビのクー』が2006年4月と6月に出たのを機に、写真家を辞め、糞土師を名乗って新たな道に踏み出した。
糞土師活動の準備は、じつは前年の秋から少しずつ考えていたんだ。正月に届く年賀状に代えて、旧正月に長文の挨拶状を出していたけど、2006年はそこで、これからは『野糞師』としてやっていく決意を表明したんだ。すると間もなく、ウンコ色をした一通の封書が届いた。それは漫画家の小池桂一さんからのもので、ちょっと下品な「野糞師」に代わる、新たな名称の提案だった。
「…そこには、土というものを要とした生命観があるように思われます。そこでー 糞土師(ふんどし)…というのはいかがでしょうか。自らの肉体と大地とをひとつながりのものととらえる身土不二の思想の実践者にしてその道の練達、というニュアンスが、そこはかとなく香ってくるネーミングだと思うのですが。ご検討ください。」
なんとピッタリな、しかも高尚な呼称じゃないか! 一も二も無く即決だった。
小池さんとの出会いは1992年の秋、信州の「ペンションきのこ」で開催した『しあわせなキノコ狩りツアー』で、それは91年暮れに出版した『しあわせなキノコ』の読者を対象にしたイベントだったんだ。じつは小池さんは高校生の時に手塚治虫賞を受賞し、まるで幻覚を見ているかのようなサイケデリックで緻密な絵を得意とする天才漫画家だった。そのため、信州でよく見られる幻覚性の毒キノコ、ベニテングタケに興味を持っていたらしい。それを機に年賀状のやりとりが始まったんだけど、名付け親になってからの小池さんは、『くう・ねる・のぐそ』のイラストを描いてもらうなど、様々な面で糞土師活動を支える大きな存在になり、今に至っているんだ。
(取材・執筆・撮影/小松由佳)