土地に沁みこむもの(前編) 

小松由佳(フォトグラファー) × 伊沢正名(糞土師)

フォトグラファーの小松由佳さんは高校時代から登山に魅せられ、2006年に日本人女性として初めて世界第2位の高峰K2に登頂成功。やがて山の麓で営まれる人間の暮らしに惹かれるようになり、世界を旅する中で出会ったシリア人男性と結婚。2012年からシリア内戦・難民をテーマに撮影を続けています。日常生活において異文化と「共生」している小松さんに、伊沢さんはその術を学びたいと対談をお願いしました。

 

異文化と「共生」する

伊沢 『人間の土地へ』を読みましたが、小松さんは自分を飾らず葛藤もそのまま見せていますよね。一番感動したのは、K2登山や危険な地域での写真家としての活動以上に、異文化に自分自身を投げ込んでシリア人と一緒に必死に生きているところです。この本を読んでいて、感動で涙が出そうになりました。

伊沢 また、共生についても書かれていましたね。糞土思想でも共生が大きなテーマですが、こちらは人間社会ではなく、自然と人間との共生です。

ところで、共生って異文化を認めることで初めて可能になりますよね。私が広めようとしている糞土思想は、人間社会から見れば今までと全然違う異文化。その点でも小松さんには共通項を感じていて、今日は何か教えてもらえるのではないかと思っているんです。

小松 大変恐縮です、ありがとうございます。この本を書くのに3年もかかりました。

伊沢 逆に3年で書いたのはすごいですね。子育てなど色々なことに中断されながらでしょう?

小松 時間をかけることの大切さを、身をもって知りました。 

伊沢 私も『葉っぱのぐそをはじめよう』の出版がなかなか進まず3年近くかかりました。でもその途中で熊本地震があり、災害時のノグソの話も入れられて内容がぐっと深まった。案外順調に進むことで薄っぺらになる場合もありますよね。 

小松 壁があったり山があったりすることで、逆に深くなるものかもしれないですね。

伊沢 そう。苦しめば苦しむほどね。それは思います。

小松 いい言葉ですね(笑)。まさに今の私にぴったりです。日々クライミング中です。

伊沢 小松さんは、いつ死ぬかという瀬戸際も何度も経験していますよね。

小松 山に登っていた頃はそうでした。

伊沢 シリアでも危ない目にあっていますが、山とシリアではどちらの困難が辛かったですか?

小松 うーん。辛いという感情とはまた違うんですけれども、今考えるとヒマラヤ登山のような大きな挑戦よりも、淡々と日常を続けてゆく大変さのほうが、もっと深みのある冒険に感じられます。淡々と生きることの重みを今すごく感じています。

伊沢 自分の生活だけじゃなく子供までいてすごいです。私は自分をフェミニストだと思っているんだけど、女性には敵わない。男の私にはとてもこんなことはできないですよ。 

子供を抱くシリア難民の女性。空爆で失った片足をかばいながら子育てをする(写真提供/小松由佳)

小松 環境への適応という点では、女性独特の強さやしなやかさを感じることがあります。例えばシリア難民の女性を取材していると、新しい環境に慣れるのが男性より早い傾向があると感じます。男性は、シリアでやってきたこと、かつての立場など、過去に意識を大きく傾けますが、女性は現在をどう生きるかに、気持ちを早くシフトしやすい傾向があるように感じました。

でも私は子供達がまだ小さいので、男性に羨ましさをすごく感じるんです。なぜなら男性は、家庭や子供がいても、1人でフィールドに行ってしまえるじゃないですか。私は小さい子供を連れてフィールドにいかに立つかを模索している段階なんです。子供を連れているからこそ見えることもあるのですが。

伊沢 女性は子育てという大きな仕事も抱えこんだ上で、自分の人生も考えないといけない。つまり2つ同時に抱えていて、それに比べると男は楽して、そのくせにいばっている。私も子供が小さかった時に面倒をあまり見ず自分のフィールドに出ていました。そこは父親としてまずかったなと、今は反省しています。

トルコで2人の子連れ取材中の小松さん(写真提供/小松由佳)

 

必ずしも理解できなくていい

伊沢 本の中で、ラドワンが兵隊に行って帰ってきた後に軍を脱走しましたよね。その時に彼が「政府軍も反政府軍も結局は同じだった」と言いましたが、小松さんはどう解釈しましたか?

小松 結局のところ主義主張がどうであれ、戦場に立てば、最終的に同じ殺戮行為に繋がっていくのだと感じたんだと思います。

伊沢 私はこれを読んで、政府軍も反体制派も自分達が正しいと信じこみ、自分と違うものを悪と決めつけて撲滅するという点では同じだった、と解釈しました。政府がやることがひどいから反体制派に入って戦ってきたけれど、反体制派がやっていることもひどくて幻滅したんじゃないか、と。   

私もかつて自然保護運動をやっていた時、自然破壊するのは行政や企業で、それに反対する住民運動のほうが正しいと思っていました。でも、し尿処理場反対運動を見ていて、結局は住民側も自分がいい思いをしたいから反対しているんだと分かりました。自然保護にしても同じで、皆自分の理想、つまり欲望を実現したいだけなんだって、それまで頑張ってきた自然保護運動にも冷めちゃいました。それからは善悪という考え方をやめて、責任を持つことを基準にしようと思い、自然に対する責任と、自分自身のウンコへの責任を果たすためにノグソを始めたんです。 

小松 そうですね。絶対的な善悪というのはなくて、人間の立場によっていかようにも変わっていくものだと思います。

伊沢 その後、日本でラドワンと小松さんはお寺のお坊さんの集まりに招かれ、ポークエキスの入ったカレーを出されたけれどムスリムなので食べられないと丁重に断った。しかしお坊さん達からは、食べ物をありがたくいただくように説得されたというエピソードもありました。お互いに自分の文化を押しつけていたんですよね。

小松 自分の文化から相手を見ていたんです。だから正しい、間違っているという見方ではなくて、違うんだということを理解すればいいんですよね。

伊沢 どうしたらお互いが違うんだと理解できるようになるのでしょうか。私も写真家だった頃は、写真という共通認識で多くの人と違和感なくやってこられました。でも糞土師になってウンコとノグソで表現するようになると、それだけで愚劣なものとみなされ、いきなり拒絶されたり無視されたりして本題に入ることもできないんです。私の場合ストレートすぎる物言いが、理解や説得どころか、かえって反発を招いてしまうことも分かってはいるのですが……。小松さんの場合は異文化を理解して受け入れて、その過程で葛藤もきっとあったと思うのですが、相手を説得するのではなしに、どうやって自分自身を納得させてこられたのですか? 

夫ラドワンとはシリアの砂漠で出会った(写真提供/小松由佳)

 

夫と両親の「共生」から学んだこと

小松 共生については私もずっと考えてきました。一つの学びを与えてくれたのが、夫と私の秋田の両親の関係性です。結婚したことで、私は両親に2013年から1年半勘当されていたんです。両親からすると、アラブ人でイスラム教徒といえばテロリストを連想したようで、結婚したら私もテロリストになって事件を起こすんじゃないかと妄想し、心配したそうなんです。

このように両親は夫に偏見をもっていたのですが、私と夫が、日本で懸命に生きていることを手紙に書いて送り続けていたら、「いがみ合ってもしょうがないから会いに来なさい」と、ある日、父から手紙が届きました。両親が心を開き、夫に会う決意をしてくれたのです。父にとっても、夫ラドワンにとっても、互いに未知との遭遇です。父はお酒が大好きですが、ムスリムの夫からすれば、「由佳の父親はお酒を飲んで酔って乱れ、クレイジーだ」と言い、父は父で、夫がいきなり駅前でイスラムのお祈りを始めたりするので、視線を浴び、最初は困惑していました。

でも、父はだんだん知らない人の振りをするという、自分なりの方法を編み出すようになりました。夫も酒好きの父に対して、1年ほど経つと、お酒を飲むということが、この土地に根付く文化なんだと受け入れるようになったんです。それを見て学んだのは、相手を否定したり批判したりせず、かつ自分も無理することなく、相手と共生を図る方法があること。必ずしも、互いをとことん理解し合おうとするのではなく、適度な距離を取り合うということでした。共生とは、相手に近づくことだけじゃなくて、お互いの適度な関係性、距離感を見出すことではないかと思うんです。

伊沢 確かにそうですね。近づき過ぎると、かえって人間関係が悪くなるのを私自身も何度か経験しています。

小松 父も夫も、自分が無理せず、相手を否定することもなく、少し離れることで余裕を保っているんだと感じました。ルーツが違う二人が完全に理解し合うことはこの先も難しいと思いますが、同じ場にいる方法を模索し合い、適度な距離をつかんでいる姿を見ました。

現在も夫との生活は、難しいことがたくさん起きます。たとえば、夫は意図的に低収入状態を維持して、自分で決めた基準以上の収入を得ようとしません。夫にとっては「ゆとりの心」と「ゆとりの時間」を持つことが大事であって、収入を得ることは大事ではないんです。日本で暮らして心が安定するのは月収8万円ぐらいまでだと言っています。さらに我が家には小さい子供が二人いて、売れない写真家として私も大変ななかで、家事も育児も、夫はまったくやらないわけです。家計は常に火の車どころか、もうサバイバルです。

伊沢 家事育児をやらないというのは、いったいどういう価値観なんですか?

小松 イスラム文化というよりも、アラブ民族の価値観です。男性が台所に立つのは恥であるという考えがあります。民族的な文化ですね。

伊沢 日本にも以前はありましたね。男子厨房に立たず、って。

小松 そうですね。夫はそこに誇りをすごく持っているので、以前はよく衝突しました。でも私も、自分の文化から夫を意識し、要求していることに気づいたんです。男性だから収入を得て働いてほしいとか、家事育児も分担してほしいというのは私の価値観。夫からすれば、シリア人の妻に比べて育児も家事も中途半端な私は、シリア人の価値観からすると「とんでもない妻」なんです。

伊沢 つまりお互いに価値観が違うんだということを理解して、でもそれを全部受け入れるのではなく、そこそこ距離を保つということですね。ぶつからない程度に。

小松 はい。「そもそもルーツが違うのだから、相手を完全には理解できない」という立場をとっています。もちろん対話は大事ですが、話せばわかると思うから衝突が続くこともある。そもそも前提が違うんだと受け入れて、その上でどう同じ場にいられるか距離感をさぐるということですね。

朝の時間。シリア難民の住む家にて(写真提供/小松由佳)

伊沢 わかります。小松さんは親から勘当されたけど実は……私は逆に長女から勘当されているんです。6年前に母親が亡くなり、葬儀の打ち合わせをしているときでした。私自身は実は葬式拒否派なんだけど、母が寝たきりになって施設に入っているときにきちんと話し合って、母が納得する葬式の出し方を決めておきました。

ところが通夜の予定時間に私の講演会が入っていたんです。親が亡くなれば中止か延期が当たり前かもしれないけど、私にとって講演会は葬式よりもずっと重要な、未来に向けた最優先課題なんです。たとえ「人でなし」と後ろ指を指されても講演会を強行し、おまけに「友引」にぶつかったりして、結局葬式は2日も延びてしまいました。こんな身勝手な親には付き合っていられないという娘の憤りも分かるので、反論もせずに今に至っています。 

そして次女からは、私が二度目の離婚をしたときに、なぜとことん話し合わないんだと非難されました。元カミさんはすごく人間的で責任感も強く、今でも好きです。そして彼女も、私のことを悪い人じゃないし田舎の生活は良かったと言うので、「じゃあ戻ってきたら?」と提案したら、「糞土師をやめれば考えてもいい」と言われてしまいました。糞土思想の中の良識や人権批判が、彼女にはどうしても認められないんですね。価値基準がまるで違う二人が議論しても決して一致できないことを、次女にはなかなか理解してもらえなかったんです。でも、そろそろ冷静になって話ができるかもしれませんね。

小松 時間をかけて伝えていけばいいのではないでしょうか。

伊沢 はい、今度やってみます。だから小松さんはきっと、相手を理解するための上手い方法を見つけたのかなと思ったのですが、そうではなく距離のとり方の問題なんでしょうか。

小松 理解できないこともあるということを理解したうえで、それでも相手への共感の姿勢を持つことは大切だと思います。また、おっしゃられるように、距離感も大事ですよね。

伊沢 最近私も少し丸くなってきたのか、言葉で理解されようとするよりも、新たに始める糞土塾とプープランドの活動の中で、次女や孫達が喜べるような以前とは違った姿を見せたいと考えています。

小松 そうですね。必ずしも理解していなくても、それより一緒にいられることの方を大事にしています。共生とは、いかに理解し合うかよりも、互いに適度な距離感をつかむことであるように感じています。

 

幸せな生き方を貫く

伊沢 では、それをウンコや糞土思想にあてはめたらどうなりますか? ウンコなんか!って思っている人が、どうしたらノグソしている私みたいな人間と一緒に仲良くやっていけるでしょう。

小松 それは伊沢さんが糞土師として、幸せな生き方を貫くことじゃないでしょうか。

伊沢 幸せかぁ。はははは。でも私は、どうしても人にウンコのことを理解して欲しいし、できればノグソして欲しいっていうのがあるんですよ。「こうして欲しい」というのを取っ払うということですか?

小松 いえ、もちろんアピールや知って欲しいというのは大事だと思うのですが。

伊沢 それから、年寄りと子供で全然違う。年寄りは既成事実に縛られて、なかなか変わらないですよね。でも子供はどんどん吸収するから、そちらに注力して年寄りは諦めるというのはどうですか?  

小松 人間ってストレートな表現を嫌う傾向があると私は思うんです。ストレートにこれが正しいんだと伝えられるより、ユーモアを通してそれを知ったり、自分で考え、感じられるように伝えられたほうが響くと思うんですよ。伊沢さんがご自身の活動を信じて幸せな生き方を貫くことで、それが文化になっていくと思うんです。そしてそれを知った人達がそれぞれに感じて、新しいムーブメントを作っていけばいいのではないかと思いました。

伊沢 良さそうだから真似したいと思わせるような、ね。私ってストレート過ぎるんですね。

小松 また、皆が理解することを求めなくてもいいのではと思いました。理解する人もいれば理解しない人もいますので。

 

ウンチと土地との関係性

小松 ウンチの話ですが、伊沢さんの『葉っぱのぐそをはじめよう』を読んですごく感動しました。確かに意識してこなかったなと思ったんです。今、私が写真を撮っている中で一つテーマにしているのが人間と自然との関わりです。ウンチが象徴する今の時代と重なるところがあると思って。

実は私もノグソについて、山を登っている時から考え続けてきました。ウンチは物質的には自然界で分解されますよね? でもウンチをその土地でしたということが人間自身の中で分解されないと、ウンチが精神的に分解されることにはならないのではないかと思ったんです。

自分が生きている土地がどういう土地なのかという理解が、現代社会では希薄になってきています。私は東北の田舎で生まれて、当たり前のように両親も祖父母も土の上で働いてノグソをしていたし、土と人間の暮らしの絆があった。人が死ねば魂が山に帰るという思想があったり、先祖代々のお墓があったり。

自分達がそこに生きている土地があって、死んだらそこの土地の土になるからノグソしても違和感がないんです。自分の存在がそこに帰っていくという考えが自然にあるからです。伊沢さんの本を読んで考えたのは、ノグソ文化っていいなと思った一方で、自分が生きている土地への精神文化が伴わないと人間の頭の中でウンコが分解されない気がしたんです。

伊沢 頭の中でウンコが分解されないというのは、具体的にどういう意味ですか? 実は「バケツノグソ」といって、林から土と落ち葉をバケツに取ってきて、屋内でその中にウンコをすることを始めた女性がいるのですが、バケツに脱糞しただけではまだスッキリせず、林に埋め戻してやっと「出た!」と晴れ晴れできると言っていました。そんな感覚なんでしょうか?

小松 日本人は農耕民族で土地とともに生きてきた歴史があって、宗教的にも死ねば土地に帰るという概念がある。海に魂を船に乗せて流したり、死ねば魂は山に帰ると考えたり、土地に祖先は眠ってきたし。私は祖父母から「田んぼには祖先の汗と涙が沁みている」と言われてきました。そういう土地とのつながりが、現代の日本人にはなくなってきた気がするんです。

伊沢 私も田舎生まれなので、子どもの頃は野山で遊ぶだけでなく、木の実やキノコを採って食べたり、田んぼでドジョウを捕まえたりと、日常の多くの場面で土と繋がっていました。それが根底にあるからこそ、ノグソが快適なのかもしれません。それにしても現代の子供達は、自然の中で遊ぶ機会がどんどん減っていますよね。

小松 そうですね。土地とのつながりがあればノグソも自然にできるのかなと思うんですが。自分が生きている土地がどういう土地で、自分とどういう絆があるのかという思想があれば、もっとできるのかなって。

伊沢 私は今、「糞土塾」の開設準備で、古民家の母屋を改修しています。それに合わせて近所に入手した林を整備して、子供達が遊んだり自然観察したり、もちろんノグソもし放題だしその掘り返し調査もできる「プープランド=Poop Land」を造っている最中なんです。元々そこにあった枯れ木を使って階段やベンチ、シーソーなどを作ったり、お尻を拭くのに最適な葉っぱをつけるギンドロ(ウラジロハコヤナギ)の苗も植えました。「正しい野糞」の習得の場としても活用したいと考えています。  

小松 ノグソを楽しく体験できる場があるのはとても素敵ですね。そしてもしできたら、そこを訪れた人たちが、その土地とつながるための試みもあればなお良いと思います。伊沢さんは江戸時代から代々ご先祖が今の家に住んでこられて、土地とのつながりがありますよね。つまり伊沢さんにはプープランドの土地との絆がありますが、外から来た子供にとってはそれがないと思うんです。

伊沢 確かにこれまではつながりがないですが、ここで遊んだりノグソをすることで、プープランドの林がその子にとっての「つながる土地」になってゆくと思うのですが……。

小松 その土地に生きている人の暮らしを見せるというのはどうでしょうか?                     

伊沢 ただね、うちの田舎も農業人口が減ったり高齢化しているんです。すでに林業はほぼゼロだし、田んぼも少なくなっていて。だから糞土塾では、子供達にいろんな体験をさせたいと考えています。畑地も少しあるので自然農もやるつもりですが、イノシシの被害がひどいので、その対策をしないと始められません。

でも、プープランドでは道や階段などの整備をしたり、ナイフでいろんなものを作ったり、ルーペで微小な世界を覗いて自然の奥深い素晴らしさに触れさせたいんです。私自身林に道を造ったりして作業を進めているのですが、とにかく楽しいんですよ。前に対談した造園家の高田宏臣さんからも、「子供には知識ではなくワクワクで伝えると良い」って言われています。そうすれば子供は自分から進んでやるからって。プープランドの整備が楽しくてしょうがないというこのワクワク感を、子供達にも伝えていきたいです。

<後編に続く>

(取材・構成・写真/大西夏奈子)