ウンコは汚物に生まれるのではない、汚物になるのだ。

ダブルスタンダードでOK

湯澤 感じて体験する重要性は、本当に共感します。私も実は、将来ウンコ研究者になるとは想像もつかない子ども時代を過ごしてきたんです。

 小さい頃はトイレは汚くて怖い場所だったし、そもそも潔癖症だったんですね。小学生のときに祖父を亡くしてから、死という存在が漠然と怖くなり、その死の概念を取り払いたくて、ひたすら手を洗い続けていました。家族にも言えないから、夜中にこっそり洗うんです。

 潔癖症から派生して人を信じられなくなり、答案用紙を自分で丸つけし直さないと納得できない時期もありました。周りからはあまりわからなかったと思いますが、当時はすごく辛かったですね。

 それが大学生の時に、ひょんなことから無人島キャンプに参加したんです。そこでは、その日知り合った人とテントを張って、自分たちで食料も調達。頭で考える暇もなく、一気にいろんなことを体験してしまったんです。こんな人生もあるんだなと、すごく気が楽になりました。

伊沢 それはすごい体験ですね!トイレは野糞ですか?

湯澤 もちろん、野糞です(笑)。キャンプで変われたのは、自分の「汚いところ」も受け入れられたからだと思うんです。人間誰しも、きれいな面も汚い面も持っていますよね。でも昔の私のように、その汚さを認められずに苦しんでいる人は、少なくないと思うんです。 

伊沢 私も「ダブルスタンダードでいいんだよ」と、常に言い続けています。

 ダブルスタンダードって、一般的には悪い意味で使われますよね。「自分がミスした時にはとがめないくせに、相手が同じミスをすると怒り出す」みたいな。

 でも人間なんて、完璧なわけがない。複数の基準を持っていたって、いいじゃないかと。

 たとえば、健康なバナナウンコが出たら嬉しいですよね。しっかり消化吸収ができて、自分に役立っているから。

 その一方で下痢便が出た日には、ちょっと落ち込んじゃう。でも糞土思想の観点から言うと、下痢便の方がむしろ栄養を吸収していないぶん、自然に命を返すための贈り物としてはより高級品なんです。そう考えたら、下痢便でもラッキー!という気分になれませんか(笑)。

 つまり、自分の側と相手の側の二つの基準を持つことで、どっちに転んでも良くなっちゃうんです。

子どもに野糞用の葉っぱ(もちろん使用前です)を触らせる伊沢さん。

 湯澤 なるほど、本当ですね。私もウンコって、世の中の一面的な価値観を覆せる力があると思うんですよ。

 たとえば学生たちによく聞かれる質問に、「10年後も世の中の役に立てるスキルって何ですか?」というものがあるんです。一見普通の質問のようにも聞こえますが、深掘りしていけばこの裏には、「スキルがなければ、自分は社会から必要とされないはずだ」という恐怖心がありますよね。

 みんな、ありのままの自分ではダメで、何かを提供できないと捨てられてしまうんじゃないかと怯えている。まさにウンコのように、世の中から排除されてしまうんじゃないかって。

 そんな学生たちに、そもそもウンコを排除しない生き方を伝えられれば、価値観に大きな揺らぎを起こせるかもしれません。気持ちがずっと軽くなる学生も、いるんじゃないかな。