最期は獣に食べられたい(後編)

循環と共生は表裏一体

服部 結局、俺たちのように動く生き物は、葉緑素を持つ植物系とは違って、他の命を食べないと生きていけません。命というものは循環とか代謝とかが止まった瞬間から、命が宿った状態とは別の物体になり、腐敗や酸化が始まっていく。代謝が止まって長期間過ぎたものは、我々にとっては食べ物ではなくなってしまう。腐敗はまあ、腐敗したものを食べる生き物がいるからまだいいんだけど、穀物などがひどく酸化してしまうともう炭素化合物として利用できなくなる。

人間が今後もし、地球を離れて宇宙の他の星に行くとして、膨大な穀類や缶詰を持って行っても、生態系を出た瞬間から先細りなんですね。食料が生産されることはなく、消費され、最後にはなくなるしかない。食料というのは本来的な意味で同時代を一緒に生きている生き物だということです。

伊沢 だから循環が大切なんですよね。 

服部 そうです、ぐるぐる回っています。食べ物を腐らせない一番の方法は、生かしておくこと。健全な環境の中で繁殖を勝手に繰り返してもらうことが、ずっとずっと旨いものを食い続ける鍵なんです。鉄砲をやっていると思うのですが、放し飼いにしておいて、必要な時に屠るのが一番いい。

伊沢 生きていれば腐らないですもんね。

服部 生体として代謝をさせておけばいい。ぐるぐる回しておけばいいんです。それを生態系に当てはめると、生態系もぐるぐる回しておくことで常に安定するわけです。自分が鹿を殺したという行為は重いけれど、ぐるぐる回っている中で、俺が鹿を殺して食べたものがウンコになって出ていった時に、ぐるぐるのうちの一部だと考えれば、俺が鹿を殺してもそんなに悩む必要はないというのがまず一つの答えです。

伊沢 それが健全な自然の真理ですよね。人間は変な感情を入れておかしくしちゃっていますが。

服部 ぐるぐるから離れようとしていますよね。

伊沢 それが進歩だと思っている西洋文明が人間社会を広く覆っている。

服部 そうそう。俺はできるだけそのぐるぐるから離れず、最期にまたぐるぐるに入りたいと思っているわけです。

伊沢 私は生きているうちからノグソでぐるぐるに参加しようとしているんです。

服部 ノグソもそうですよね。ぐるぐると大きな川が流れていて、鹿はその中の一滴の水だし、俺も一滴の水。そういうふうに考えればまあいいか、みたいな。鹿は旨い。じゃあ、俺は美味しいのか?って。

伊沢 美味しいというのは大事です。美味いと感じることが感謝にもつながるし、イヤイヤ食べていたらだめですよね。

服部 それは続かないですね。 

伊沢 食べる相手に対する侮辱でもあると思う。

服部 だからできるだけ美味しい状態の獲物を獲り、美味しく処理する。

伊沢 循環があるからこそ、共生が成り立つと思います。循環と共生は分けられないし、それがあるから永遠に回り続ける。

軒下に置かれていたイノシシの骨。左は獣の脂

服部 さっきの人権じゃないけれど、人間だけを特別なものとか独立したものだと考えるのはおかしいと思います。でも今は個人主義が広く人間界の世界観に蔓延してしまいました。

伊沢 個人が自分自身で完結しているというね。

服部 ただ俺自身にもそういう個人主義的な考えはあるので、「ぐるぐる」と個人主義や自意識などの現代病のようなものを混ぜて共生させるのは難しいとも感じます。だから伊沢さんがやろうとしていることも、同じように難しいと思いますね。

伊沢 だからこそやり甲斐があるんですけどね。

服部 すごいよなあ。俺は今のところは諦めちゃったんですよね、人の気持ちを変えようとするって無理だろうなあって。

伊沢 そういうことを考えたこともあったんですか?

服部 うーん。若い時は、世界を自分なりに良くしたいと少し思っていたこともあったかもしれないけど、やっぱり50年も生きていると人の気持ちって変えられないなあと思ってしまう。

伊沢 変えられないかなあ。

服部 変えられるとしたら、もともと変わりたいと思っていた人とか、ぐるぐるの方を向いていてあと一歩踏み出せなかった人くらいじゃないですか。まったくその気がない人にこっち向けというのは無理ですね。

伊沢 確かに、その気がまったくない人は無理かもしれません。でも、このままではまずいと考えている人は結構いると思うし、講演会や本を出すことで変化した人を実際に見ているので、期待はむしろ膨らんでいますよ。