動物の視点から世界を見る(前編)

宮崎学(自然界の報道写真家)×伊沢正名(糞土師)

「自然界の報道写真家」と呼ばれる宮崎学さんは、故郷の伊那谷を拠点に、半世紀にわたって野生動物の営みを見つめてきました。実は宮崎さんとは写真家時代からの長い付き合いです。今回は、宮崎さんの撮影現場を見せてもらいながら、動物の世界を見つめることで見えてくるものについて、お話を聞きました。

動物の内臓からものを見る

宮崎 俺の大好きな言葉は、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」。松尾芭蕉の「奥の細道」に出てくる一句だ。源義経と源頼朝が戦ったその戦跡で、松尾芭蕉が詠んだんだ。でも源氏平氏に限った話じゃなくてね、今は全国どこに行っても農村にはこういう風景がある。昔栄えたところが、離農したり空き家になって草がぼうぼう。俺はそれを見るのが好きでね。芭蕉の句の「兵(つわもの)」は、つまり我々よ。最後はみんな自然に帰っていく。そしてそれがごく自然なことなんだ。だからね、全て呑み込んでいく植物のあの力はすごいよね。

山ではツキノワグマもヒグマも、みんな植物の戦略に負けて「種まき爺さん」になっている。「ひっつき虫」とか「ヌスビトハギ」とかをウジャウジャつけて動物が歩いているわけ。俺は今それを撮っている。動物より植物がすごい存在に思えるよね。

伊沢 人間は自分で管理できないものはないと思ってるけど、それはとんでもないことで、本当は極々小さな菌類にだって人を支配するくらいの力があるし、それぞれの世界に生きているんですよね。

宮崎 いま日本では、クマやシカがめちゃくちゃ増えている。人間が全国で、融雪剤の塩化カルシウムを道路に大量に撒いてきたからだと思うよ。この30年で何千万トンだもん。それをシカが舐める。シカは消化液を貯める胆嚢がないから、外部からミネラル分を摂って消化液に変えるんだ。この人工の塩は精力剤で、これを舐めてシカはすごく増えた。

俺は写真家だけど、単なる生態の形だけじゃなく、奴らの宿している内臓まで撮っているよ。内臓からものを見ると、彼らの精神性、心理状態まで見えてくるんだ。そして、結果的に生き方…まで。

昔からマタギは、「山は半分のしてちょうどいい」って言うんだよね。「のす」は、殺すっていう字を充てるんだ。この辺だって、どれだけクマを捕まえてきたか。それでもまた翌年になると同じくらい出てくるんだよ。そのくらい自然界では補充されている。

俺は山にロボットカメラをセットして、「クマクール マタミール」(クマ来る、股見る)でクマの股間を撮る。ここに来るクマが、オスかメスかを調べるんだ。オッパイが荒れている奴は子育て中だとか、こいつは処女のメスだとかね。股間を写すことでみんな状況が見える。若いのがたくさん写っていると繁殖予備軍がいるということになる。でも学者たちはみんなそういうのを無視するんだよね。例えばクマを個体別に登録して、数を把握したらいいのに。人間の指紋と同じでクマの鼻紋もみんな違うんだから、やろうと思えばAIを使って登録だってできるはずなんだよ。

伊沢 へ~、鼻紋とはね! 宮崎さんの発想は凄いなぁ。

宮崎 これからの時代はもう学歴じゃないね。手に職をつけなきゃダメだ。昔は、とにかく学歴を積まないと社会に組み込まれないという時代だったし、学校の先生たちはみんな政府の手先だったしね。企業が使いやすい人間のロットを作っていたんだよ。長野県の阿智村に「満蒙開拓平和記念館」という施設があるんだけど、昔、伊那谷の村から農家の次男とか次女とかが、満州にたくさん渡ったんだ。「満州に行けば広い土地が手に入って腹一杯飯が食えて・・・」と先生たちが小学校で教えたんだよな。そう国から言わせられていたわけだ。それで子供たちはいいなあと思って家族にあこがれを語って、やがて行くわけ。それでみんな満州で大変なことになって、帰ってこられない人がいっぱいいたわけ。「満蒙開拓平和記念館」はその歴史を展示しているんだよ。あそこにいちど足を運んで見てみると良いよ。これまで教えられてこなかったことが、ほんとうによく分かる。

伊沢 私は高校中退だから言うわけじゃないけど、「学校に行くとバカになる」と思っているんです。おかしな事も教えられて、自分でまともに判断できないつまんない人になっちゃうんです。

宮崎 そうそう。伸びてゆく、せっかくのいい芽を摘まれちゃうんだよな。俺だって子供の頃、先生からはぶっ叩かれるは、授業中に鼻クソほじっているだけで怒られるわ。このあいだ死んじゃったけど、画家の原田泰治さんは俺の兄貴分なんだよ。俺は25歳からずっと彼と付き合ってきた。泰治さんも子供の頃から、先生に叱られまくってね。でも彼の絵の世界はまさに幼児体験があってこそだよ。あの頃この伊那谷の田舎では、東京なんて夢のまた夢よ。先生が「泰治また遊んでる〜」と彼の耳を持って持ち上げたんだって。「東京を見せてやる〜東京を〜!」ってね。当時勉強してない奴は、「東京見えるか〜」って先生に耳を持ち上げられて吊られたんだよ。

でも俺が小さい頃の教育は個性も重視してくれていて十人十色だったんだよ。今は十人一色だろ。教育も、十人同じ答えを出さなきゃいけないような教育している。それが良くない。昔は、あいつは勉強できなくても、水事(すいじ)を任せておけば、ちゃんと村中に水を流してくれるとか、イノシシが出てきて困ったら、あいつに任せとけば、ちゃんと農作物を荒らさないようにイノシシを捕まえてくれるとか、あいつは字がうまいから葬式の記帳係りをすればよいとか、それぞれに出番があったわけ。でも今は、十人一色教育をしているから、それぞれの出番がなくなっちゃって個性が排除されていくわけ。それが明白になって村がどんどん過疎化しているよね。

歌に詠まれたウンコ

宮崎 クマのウンコだけで生まれるハエがいてね、キバネクロバエっていうんだよ。1.3センチくらいあるらしい。いつか出会いたくてね。同じハエでもクマのウンコからだけに生まれたり、牛のウンコからだけで生まれたり、それぞれに特化した共生があるんだよね。

伊沢 キノコもそうです。草食動物のウンコに生えるキノコと肉食動物のウンコに生えるキノコでは全然種類が違うんですよ。ちなみに私のウンコには両方生えるんです。雑食ですからね。

それからね、俳句の世界では糞を「まり」と言うんだけど、松尾芭蕉は野糞の俳句も詠んでいるんです。「大徳(だいとこ)が 糞(まり)へりおわす 枯れ野かな」。大徳は偉いお坊さん。つまり冬の枯れ野で坊さんがウンコしているっていう歌なんですよ。昔は野糞なんて普通だったんですね。

また正岡子規も野糞の句を詠んでるんです。「春風や まりを投げたき 草の原」。子規は野球用語をたくさん作った人だから、「まり」はボールのことで、これは野球の句だと言う人もいます。でもそれならば、ボールという意味の「鞠」を使えば良いのに、わざわざひらがなで書いている。ということは、「ウンコのまり」と「鞠」をかけたんだと思います。春風の吹く中で草野球をしていたらウンコがしたくなった。草原で気持ち良くウンコをしたいなぁ、という歌なんですよ。

「シナントロープ」と自然攪拌

伊沢 10年以上前ですが、北海道全域の環境保護グループの集会に呼ばれて、札幌で講演会をしたときのことです。小樽湾で大規模風力発電の問題が起きていたので、50名ほどの参加者に賛否を聞いたところ、一人を除いてみんな大賛成なんです。これが環境保護をやっている連中の本質なのかとがっかりしました。

確かに風力は発電するときにはCO2は出さないけど、巨大風車を作って設置するのにどれだけの資源とエネルギーを消費し、膨大な量のCO2を排出しているか。さらに将来、とんでもない巨大なゴミを発生させるか、全体をきちんと見ずに上っ面だけで判断しているんですね。しかも環境団体がそう言うんだからと、一般の市民はそれに引っ張られて賛成してしまう。これはもう犯罪的ですよ。

宮崎 そうすると今度は、じゃあと言って原発を容認してくるだろ。それが一番恐ろしい。風力発電だって水力発電だってソーラーだって、それぞれの地域にあったものを慎ましくやっていけばいいんだ。あちこちにばら撒く原発じゃなく、地域で細々とやっていけるようなものをね。地産地消。

風力発電はよく、野鳥がプロペラに巻き込まれて死んでいると批判されるけど、俺が見に行った限りそんなことないんだよな。巻き込まれてない。もし本当だったら風力発電の下に累々と鳥が死んでるはずだけど、今まで見たこともないよ。

北海道の稚内には風力発電がたくさんあってそこをマガンが何万羽と渡っていくんだ。そこでコンバインで稲刈りしている最中に、あいつらはその場で落ち穂を食べている。そんな奴らが、プロペラに巻き込まれるなんてない、ない。

このマガンも、日本では天然記念物で厳重に保護され銃で撃つなと言っているから、どんどん数が増えている。それで日本で撃たれず肥え太ったのが、渡っていった先のロシアで撃たれ放題。あっちで喜ばれているわけだ(笑)。マガンやカモは、肉に弾力性があって食ってみるとうまいんだよ。あいつらは3月末から4月上旬になると、北海道東部あたりをワーッと移動していって、それからシベリアの方に行くんだ。春の渡りだ。そして途中で、牧草畑や春の麦畑とかで一番いい部位を食っていくわけだ。実は、表に出てこないけど、あいつらによる農業被害がすごいんだよな。それなのに風力発電に巻き込まれるから良くないって学者は言うわけ。このボタンの掛け違い。これは笑い話で見るべきだ。「保護、保護」と言っている連中の、この桁外れ誤解の面白さ。

ローマ時代から「シナントロープ」というギリシャ語の言葉がある。「シン」は共に、「アンテトロープ」は人間。つまり「ヒトと共にあること」がシナントロープなんだ。これを俺は、「自然撹乱」と解釈している。例えば人間は森を切り開いて水田や、コーヒーやみかんの畑を作る。こうして自然を撹乱している。しかしその撹乱を喜ぶ生物がいっぱいいるわけ。例えばツバメは、人間が水田を作ってきたからこそ、ああやって人間の近くで生きているし、ヒバリもキジも樹木の生い茂る森には住めなくて、畑を作ってもらったことでそこに住んで子育てをする。だから自然撹乱は、ある意味大事なんだ。もちろん、そのバランスが大切なので、キチンとした自然界の仕組みの読みがイマドキの人間に求められているけどね。

原発だけは反対、風力発電も反対と言うけれど、我々はひと昔前までずっと薪で生活していたんだよ。それが電気、ガス、石油にライフエネルギーが大きく変化して、日本中の山の木が薪として利用されなくなった。鉛筆みたいな苗木でも、70年経ったらものすごい太さになるよ。そうなったら、日本中大密林になる。これが自然撹乱なんだ。こういうことをわかってないのが、実は保護団体なんだ。

森林は日本列島の面積の8割もあるんだよ。これだけ多くを占めている森林が電気、ガス、石油の使用で70年間以上も放置されて密林状態になっていくと、面積は同じでも木が成長しているから密度は2倍以上になっている。木登りができるクマやサルなんかの動物たちは、森林を立体的に使うんだ。平地から木まで登っていける。衣食住足りて、動物たちはものすごく豊かになる。

伊沢 ただ、現在の日本の森林は山奥までスギヒノキの植林になっていて、そのマイナス面も合わせて考えないといけないですね。

宮崎 そうね。スギやヒノキはダメとの意見も多いから、ほんとうにダメなのかと人工林にカメラを設置して撮影しているけれど、とんでもなく新しい発見がつづいている。そのうちにどこかで発表するけれどね。

「見えない世界」をいかに見るか

伊沢 宮崎さんは、常に軸足を自然界に置いて物事を見ています。ある意味野生動物の代弁者ですよね。この「対談ふんだん」では以前、沖縄差別をされている方の「正しさという暴力」という記事がありました。世の中には、自分が正しいと思うことを人に強要するという暴力があるんです。宮崎さんが撮っている野生動物の世界でも、命は大事だから動物は無条件に保護すべきだ、と半ば強要するような人がいるんですね。

宮崎 そういう考えは、野生動物にとってはいらぬお世話なんだよな。あいつらははるかに自分の力で生きている。そして俺の仕事は、こういう見えない世界を撮ることなんだ。

人間が寝ている時間にも動物たちは動いている。本来は見えないこうした世界を、ロボットカメラを使えば見ることができる。ロボットカメラの仕組みは全部俺の手作りだよ。最初は野生動物が横切ると、動物の体に触れる木綿糸の反応でシャッターが切れるようにした。ところがすぐ糸が切れちゃうから、今度は丈夫な黒いミシン糸に交換した。さらにそれからもっと丈夫な釣り糸を使うようになったね。でも釣り糸はフラッシュにピカって光っちゃうから、今度は赤外線センサーで撮影できるようにしたんだ。動物を撮るための俺のこの微妙なさじ加減は、絶対誰にも真似できないと思うね。

(川べりに設置されたロボットカメラ。倒木をつたって川を渡る動物が撮影される)

写真をこれから撮っていくぞという17才の頃、ワシやタカは幻の鳥だから絶滅すると言われていた。それから一人でワシやタカを探し歩いて、15年かかって全種類、16種類を一人で撮ったんだ。巣を見ればあいつらの生活史がわかるから、巣探しが最大のポイントだった。あの頃、沖縄の西表島や石垣島にはカンムリワシがいてね、学者や野鳥を守ろうという保護団体はみんな、カンムリワシが台湾で子育てして、冬だけここに渡って来ているんだと主張していたんだよ。

でも台湾のカンムリワシは大きさが全然違ってもっと大きいわけ。台湾の島が大きいからね。与那国島とか西表島、石垣島は、台湾よりはるかに島が小さくて、体を小さくすることでエネルギーを小さくして生き残ってきた。二万年くらい前に東シナ海一帯に地殻変動が起きて、八重山諸島が中国大陸から離れた時に、カンムリワシも生き残って、今の姿に変わって来たと思うんだ。

それでとにかく現場に行かなきゃということで八重山諸島に行ってね。半年で、カンムリワシの巣を三つ見つけたんだ。すると、それまでここに住んでないって主張していた連中がみんな逃げていったな。彼らは恥かいちゃったわけよ。カンムリワシは小さな巣を密林の中に作るから、見つけるのは大変だ。でも俺の目は熟練していたからね。現場で、直感力をどれだけ働かせるかが大事だった。

その後、与那国島は、密林がない島になっちゃって、カンムリワシの絶滅宣言を出した。でも石垣島と西表島にはまだ残っている。こういうこともあって、俺は保護団体を一切信用しなくなったんだ。とにかく現場を歩いてきた自分の眼がどれだけ正しいか、あの当時に悟ったんだよね。

(作業場に若かりし頃の宮崎さんの写真が飾られていた。宮崎さんは半世紀近く、野生動物の世界を撮り続けてきた。撮影:木村恵一)

伊沢:私だって野糞して土に埋めたウンコを200くらい掘り返して調べたからこそ、野糞の実態が分かり、その素晴らしさを話しているんだけど、なんにも知らない奴らが偉そうに野糞批判をするんですよ。自分のウンコに向き合ってみろ!と言いたいよね。

宮崎 動物は、食うもの食われるもの、強いもの弱いもの等しく、同じ「けもの道」を歩くんだ。でもみんな、そんなはずはないって言う。しかも、ロボットカメラで写真を撮るのは、自分の指でシャッターを切らないから邪道だと、写真界からも随分叩かれた。でも見えない世界を見るために、俺はやり方を考えて機材の開発までしたんだ。そしてカメラをセットしたら、後はバンバン写る。見えない世界が完璧に見えてくるんだ。

それが今の撮影に続いているんだけど、その価値が社会に認識されるまで40年はかかった。熊だって、俺は20年前からどんどん増えているよと言っている。でも今でも熊は絶滅すると言っている人がいる。こんなに俺のカメラに写っているじゃないかって思うよ。

クマがこれだけ増えているのに、クマは守らなきゃいけない、少ないから調査しなければって学者や保護団体が言って、調査費用がどんどん国から出ている。こうやってなんでも金に換えているんだよ。でも俺なんか、全部身銭だ。だから安いカメラを自分で工夫して作って、作ったらもう「撮れた」って思える。機材さえあれば、もう完璧に撮れるんだ。その機材開発スキルは自分自身で育て獲得するしかないから、毎日が工夫の連続だった。
そして、こうしてイマの社会を見渡してみると「防犯カメラ」が街角にたくさん増えたことによって犯罪者があっというまに捕まる時代になった。これも、基本的発想は無人撮影ロボットカメラなんだよね。俺は、この発想を50年も前に野生動物で実行してきたワケ…。

(山中に設置したロボットカメラの記録画像を確認する)

(ロボットカメラには、至近距離までカメラに近づくクマの姿がとらえられていた)

伊沢 宮崎さんはワシでもクマでも全て自分の目と足で調べ上げ、その実態を明らかにしてきたからこそ、単なる理念だけで偉そうに言っていた人たちから妬まれて、それが批判という形で出てくるのかもしれないですね。

宮崎さんのロボットカメラの写真を初めて見たときは、私も驚きました。でも、こうしてそこに至るまでの経緯を聞いて、撮影に必要な機材から何から何までゼロから工夫して革命的な写真を撮ってしまい、写真界からもやっかまれて叩かれるのは、むしろパイオニアとしての勲章じゃないですか。

宮崎 それに俺は、自分がもてる範囲の原稿料で写真を撮っているんだ。どこに気兼ねすることもなく、確実な仕事が自分の技術の範囲内でできる。金はなくても技術を磨けば結果はついてくるしね。だから保護団体とか、何も動かずに保護だ、保護だと言ってるのは、保護の護の字が違う。「保誤」だと俺は思う。この情報の時代なのに、ほとんどの人がそこに気づいていないんだよ。

伊沢 しかも情報持っているとは言ってもね、他人の情報を借りているだけで、みんな自分で見つけた情報じゃないんだよね。私も糞土師として、自分で実践してデータを得る大切さをつくづく実感しています。例えば1日に出るウンコの量。200~300グラムという人もいれば、100から200グラムという人もいた。もちろん肉食系と菜食系では全然違うけど、どっちが正しいかは、自分のウンコを量ってみればすぐ分かるんですよ。

宮崎 そうそう。例えば山を歩いていたら、キツネのおしっこの匂いがプーンとしたら、どこから歩いてきたかがわかる。植物の匂いやケモノ臭、こういうのは五感を使う。でも、どんなに人に説明しても言葉では掴めない。やっぱり自分の体で感じて、感覚から得ることが大事なんだよね。

伊沢:宮崎さんは特に感覚が鋭いですよね。人間離れしている(笑)。

宮崎 でも野生動物は、みんなそれをやっているからね。逆に人間は感覚が一番退化しているよ。だからあえて、人間の側じゃなくて動物の側からものを見るんだ。そうすると、みんな見えてくるよ。

野糞にしてもキノコ類にしても、伊沢さんは俺の師匠で先輩だからね。俺も伊沢さんに感化されて動いているんだよ。フクロウの撮影では、16種類のフクロウの言葉を全部理解して、真っ暗闇の中で写真を撮った。山の中で10年間撮影したから、野糞をし続けたね。あの経験で、2メートル四方の土があれば、人間一人のウンコなんか一年分全部分解できることを知ったよ。

伊沢 私は人間一人の一年分のウンコ分解に必要な面積は10メートル四方と言っているんだけど、それは人間社会で野糞を広めるための数字です。それに「正しい野糞のしかた」では、必ず土に埋めるように言っているけど、それも人から批判されないためです。宮崎さんみたいに人間も野生動物なみに生きるのなら、宮崎さんのデータの方が正しいですよね。

宮崎 環境という言葉は、続けて読むからわかりにくいけど、環は「たまき」、境は「さかい」なんだ。環(たまき)と境(さかい)、ウンコと土の境。だから環(たまき)の境(さかい)ってとっても大切だよ。森羅万象はみんな、3次元で繋がっている。それを感じ取らなくちゃ。

俺は親が「学(まなぶ)」って名前をつけてくれた。子供の頃、「お前を学校に出す金はないけど、人生なんて一生勉強だぞ」ってお袋に言われたの。その言葉は今でも忘れないね。だから親たちには感謝しているよ。本当に死ぬまで、自分で勉強を続けることだと思うわ。

伊沢 本当にそうですね。私の糞土思想も、自分なりにだいぶ出来上がってきているとは思うけど、別分野の人から得るものがまだまだ沢山ある。今日の宮崎さんとのお話のように、違う世界の人と話すことで得るものが本当に沢山あるんです。

                              (取材・執筆・撮影:小松由佳)

             〜動物の視点から世界を見る(後編)へ続く〜