あたり前を問い直す

平居高志(哲学者)×伊沢正名(糞土師)

哲学者であり、「国語の先生」として30年以上教壇に立つ平居高志さん。携帯電話を持たず、車を嫌うふたりの対談は、深い共鳴によって進んでいきました。「野糞」という強烈な実践をもつ伊沢さんと、教育・哲学・歴史の視点から文明そのものを問い直す平居さんは、「自然の摂理」を軸に現代社会の前提を根底から揺さぶっていきます。

「これも哲学なんだ」——暮らしの中にある思想

伊沢 平居さんの著書『実用「哲学する」入門』を拝読して、自分と通じるものをすごく感じました。偉大な哲学者や専門用語を学ぶのではなく、いかに自分の頭で「あたり前」を疑うか、暮らしに軸足を置いて書かれていますね。

平居 哲学というものを、机上の空論から脱して生きたものにしようと思えば、この書き方しかないと思ったんです。

 

平居高志(ひらい・たかし) 1962年大阪府生まれ。1986年東北大学文学部哲学科中国哲学専攻卒業。1988年東北大学大学院文学研究科中国学専攻博士課程前期修了。1989年より宮城県高等学校国語科教諭。女川、石巻、仙台第一、水産、塩釜、石巻工業高校の各校を経て、2026年宮城県職員を辞し、私立・東北学院高校常勤講師。2017年博士(東北大学・文学)
著書『「高村光太郎」という生き方』(三一書房、2007年)、『それゆけ、水産高校!』(成山堂書店、2012年)、『中国で最初の交響曲作曲家 冼星海とその時代』(アルファベータブックス、2019年)、『アリストテレスもヘーゲルもサルトルも出てこない実用「哲学する」入門』(花伝社、2024年)

伊沢 私も「これも哲学なんだ!」とハッとしました。哲学と聞くと少し難しく、自分と距離を感じてしまいそうですが、日常の中にこそ哲学があるんだと気づかせてくれる一冊ですね。

平居 哲学の定義の仕方にもいろいろありますよね。私も伊沢さんの本を読んで共感するところがたくさんありましたが、例えば「正しさ」や「良識」に対する反感は私の中にもあります。日頃、あたり前のように使われていて、「よいもの」とされている言葉も、一度疑ってみることが大切だと思います。

伊沢 私は結局、人間社会のあたり前ではなく、「自然の摂理」を基準にして見ているんですよね。自然の摂理とは、うんこでも何でもすべてが循環して、無限に続くことだと私は考えています。だから、その循環を滞らせないような生き方をしようということです。

平居 私もそうです。自然を基準に見ているというか、人間は自然の一部でしかなくて、自然から離れることが果たしてどこまで許されるのかということをずっと考えてきました。

「教育」とは、自ら伸びること

伊沢 最近、「褒めて伸ばす」ことがよいと言われますよね。平居さんは学校の先生ということで、この風潮について、どう感じていますか? 私は嫌いなんですけど(笑)。

平居 「伸ばす」という発想そのものが、よくないと思います。人間は自分で伸びるものであって、人が伸ばすものではない。内側から出てくるもので動かなければ、本当の成長にはつながらないと考えています。

私がよく引用する『論語』の一説に、「これをいかんせんこれをいかんせんと言わざる者は、我これをいかんともすることなきのみ」という一文があります。「どうしたらいいだろう」と悩んでいない人間を指導することはできないという意味ですが、やはりまず自分が悩んで伸びようとしていなければ、他の人間が伸ばそうとしてもダメだと私は思っています。

こんなことを言うと、「自分が生徒を伸ばせないことの言い訳にして、責任回避しているのではないか」なんて言われそうですが(笑)。真面目に勉強したことのある人間だったら、これがどれだけあたり前のことか分かりますよね。

伊沢 当事者性の問題ですよね。私も当事者になることが非常に大切だと言い続けています。 他人事では絶対にダメなんです。 自分が当事者になって、初めて本質的なことがわかる。

それでいうと、うんこをしない人はいないんだから、これほど強烈に当事者性を持つものはないんですよね。死ぬこともそうです。この二つから逃れられる人はひとりもいないからこそ、すべての人に私の考えを伝えるには、「うんこと死」だと考えたんです。

災害伝承・復興への疑い

平居 伊沢さんが私と違うのは、考え方の違いというよりは、野糞というひとつの行動を軸にして、世の中にインパクトを与えようとしてる「実践家」だという点ですよね。

私は頭でっかちだから机上の空論を語ってるだけみたいなところがあります。もちろん問題を提起することにも意味があると思ってやっていますが、生徒たちにとっても「変わった先生」くらいの存在でしょうね。

伊沢 確かに私は実践主義ですが、それは私自身にとってのことです。やはり社会を変えたいと思ったら、まずは問題提起ですよね。そして私は主張や行動が極端だから、反発もされるわけです。いかに反発されないように広めるかというのが、一番の課題です。

平居 でも伊沢さんは、自分では野糞をしますが、人には強制しないですよね。私も、例えばペットボトルなどの使い捨て容器には拒否反応を示しますし、車もほとんど使いません。でも、自分では実践していても、人に「お前もそうすべきだ」とは言わないようにしています。反発されるのがオチですし、疑いをもつきっかけは、その人自身のものですからね。

伊沢 疑いというところで言うと、平居さんは東日本大震災の被災地に住んでいますけど、著書を読むと、震災後の動向についてかなり批判的な意見を持っているようですね。

平居 ええ、私は被災地に住んでいながら、被災地にとても冷たい人間です。特に復興の巨大土木工事や伝承活動に対してはかなり批判的な姿勢をとっています。

伊沢 どういうことですか?

平居 伝承活動について言うと、津波の教訓というのは「津波は怖いから高いところに逃げろ」ではなくて、「自分はなぜ過去の津波から学ばなかったのか」ということのはずなんですよ。昔、津波に襲われたような土地に家を建てていたわけですから。

ところが伝承活動をしている人は、とにかく自分の体験を伝えることに熱心な人ばかり。自分が歴史から何を学ぶべきか、何を間違っていたのかということについては全く無頓着な人が多いんですよね。

伊沢 昔からの言い伝えで、「ここは危ない」ということが地名や石碑に表れていると言いますよね。

平居 そうなんです。先人の教えをおろそかにしてしまい、間違った選択をしてしまったことこそ一番の学びなのに、そこを伝えるのではなく自分の体験を話すだけでは、承認欲求を満たすだけになってしまいます。

津波だけでなく、戦争だって何だって、過去の歴史的教訓が山のようにあります。昔の人が痛い目に遭ったことを後世の人に伝えたいという思いから、石碑をつくったり、記録や言い伝えを残したりしているわけですから、伝承を一生懸命にやるのであれば、そういう歴史全体に対しての問題意識を持つべきだと思います。

プープランドを歩きながら、伊沢さんの野跡や土葬予定地を案内する。

伊沢 私は自然環境に強い関心があるから特に感じるんですが、復旧や防災のための土木工事もひどいものですよね。

平居 復興という名のもとで道路を高盛り化し、新しい橋を建設し、巨大防潮堤をつくってきましたが、結局はお金をつかって経済を活性化させることだけが目的だったんじゃないですかね。

被災地の人から「まだ復興は終わっていない」という言葉を聞くことがありますが、まるで東日本大震災さえなければ自分たちにはバラ色の未来があったかのような幻想を抱いてると感じることがあります。でも、東北地域の過疎化や高齢化の問題は、震災があってもなくても存在していた問題なんですよね。むしろ、震災のおかげで手厚い支援を受け、地域の衰退にブレーキがかかった部分もあります。

伊沢 上っ面の復興ですよね。ここにも現代人の「正しさ」や「良識」が何を示しているのか表れていますね。だから私は、「世の中を悪くしている三悪は、良識と人権と法律だ」と主張しているんです。

平居 良識というより、良識だと思ってる人たちですね。

伊沢 そうそう。本物の良識だったらいいんですが、上っ面だけのエセ良識なんです。伝承の話もそうですよね。

「いかに生きるか」から「いかに減らすか」へ

伊沢 少子化もまた、あたりまえのように「解決すべき問題」とされますが、現在の環境破壊による大問題は、人口が増えすぎたのが根本原因だと思います。

だから私は今、人口を減らして、自然から奪う食糧や資源エネルギーを大幅に減少させることが欠かせないと考えています。さらに自然環境を豊かに再生するための養分として、人類という膨大な肉の塊を土に還す目的で、土葬の復活を目指しています。つまりいかに納得して死ぬかという、「しあわせな死」の探究です。

平居 エネルギー自給率がほぼゼロ、食糧自給率も40%未満なんていう状況で、少子化が大変だなんて言うのはおかしいですよね。 

伊沢 そう。こんなに都合のいいことはないですよ。昔は限られた食糧しかない中で生きていくために、食い扶持を減らそうと「姥捨て山」なんていう話もあったくらいですからね。

平居 うんこや死体処理の問題も、人口が多すぎるから出てきてると思うんですよ。人口密度が高くなると、うんこや死体を自然の力で処理しきれなくなってしまう。だから、「汚いもの」になってしまうんです。 

伊沢 疫病だって、都ができて人が大勢集まったから自然の中でのウンコ分解が間に合わなくなって、発生したんですよね。それまではなかったんじゃないですか。だから私は、「正しい野糞」を広めることが必要だと考えたんです。

富谷観音の展望台から臨む茨城県桜川市。

平居 でもさすがに、日本人がみんな野糞をしたら大変なことになるんじゃないですか?

伊沢 よく聞かれる質問なので、日本人全員が野糞をするのにどれだけの面積が必要かを計算しました。1回につき50センチ四方あれば十分なので、1メートル四方で4日できます。つまり1年で400回と大目に見ても、10メートル四方あれば一人分の野糞は楽にできます。そして1年すれば、分解されて土を豊かにした養分も植物に吸収され、土壌は元の状態に戻るので、またその土地は使用できます。ということで計算すると、日本人全員でも110キロ四方程度の林があれば理論上可能です。

日本にはその何十倍もの森林があるので大丈夫なはずなのですが、東京なんかに集中して住んでるからできないんです。地方に行けば野糞し放題ですからね(笑)。

それをもとに考えると、多くの人が墓地が足りないから無理だと考えている土葬も、ある程度の墓地が認定されれば大丈夫です。昔ながらの土葬の方法をとれば、十年もすればもう遺体は全部朽ちて土になって、どんどん同じ場所で埋められるんですよ。

だから私は今、いかに死ぬかっていうことだけでなく、土葬を復活させることが一番の目標になっています。現在の危機的環境を改善して豊かな自然を取り戻し、安心して暮らせる社会にするには、野糞と土葬ぐらい大事なものはないんだって。

便利と楽は、人間と自然をダメにする

平居 古典の授業をしていると、生徒から「古い文章を勉強してどうするんだ」と言われることがあるのですが、私は「世の中、いいものしか古くなれない」という言葉で説明しています。古いからダメではなくて、逆に、いいものだから古くても残っているわけです。

昔からの技術もそうですよね。法隆寺を建てたときの職人は、簡素な道具でヒノキを伐り出して加工し、木の性質を活かしながら組み上げて、1300年以上維持できる寺を建立したわけです。もう想像を絶する技ですよ。

伊沢 今は科学でなんでもできると思っている人が大勢いるけど、じつは職人技ってそれ以上にすごいんですよね。現代人はもうちょっと謙虚になる必要があります。

プープランドがある富谷山の中腹には、天平時代に行基菩薩が開山した「施無畏山小山寺」通称「富谷観音」がある。その三重の塔は重要文化財で、糞土師の誇り。

平居 そのとおりです。昔のような技がどんどん消えていますからね。今、石油燃料を奪われてしまったら何にもできなくなります。

伊沢 衣食住、本当に何もできなくなるんですから、それを認識しないとダメですよね。

平居 これもまた私がよく言うのですが、「便利と楽は、人間か自然のどちらかを必ずダメにします」。自然を破壊するだけではなくて、人間もダメにするんです。

伊沢 私と平居さんの共通点のひとつとして、携帯電話をもっていませんが、同じことですよね。

平居 はい。携帯電話がなくて、どうやって連絡を取るのか?とよく生徒に聞かれますが、逆なんですよね。連絡を取る必要があるから携帯電話を持つんじゃなくて、携帯電話があるから、連絡を取る必要が生まれるんです。計画を立て、人と約束をして生活していればいいものを、それをせずに、行き当たりばったりで生活しようとすると、携帯電話で連絡を取り合う必要が出てくる。

自家用車にしろ、スマホ、エアコン、カーナビにしろ、日常のあらゆるところに便利なものや、楽なことが氾濫していますが、文明の力によってどんどんどんどん体が弱くなり、自分の頭で物事を考えられなくなってしまっています。考えられないから、判断軸が「規則を守り、お金を払える範囲でできるか、できないか」というところに単純化されてしまいます。

伊沢 このままではまずいところまで来ていますよね。行きつく先は滅亡なのかもしませんが、平居さんはどこかに希望を見出していますか?

平居 難しいですね。それでも、希望は持たないといけないと思っていますよ。かなり近い将来に絶望的な社会が待っているのではないかと思っている一方で、目の前にいる生徒のみならず、社会全体に対して、どうすればそれを回避できるのかという方向でアプローチし、なんとか希望を見つけ出していかなければと考えています。

だからこそ哲学を新しいかたちで提起して、それを日常の中に応用していけば、世の中の見え方が変わってくると思って活動しています。とはいえ、「あれ?このままじゃまずいんじゃないの?」という、最初の疑いを持たせることはすごく難しいんですよね。

伊沢 いまの便利さ、衛生、教育、正しさなど、ほとんど全部を疑い直すことから始めたいですね。

平居 人間自身も自然の一部として捉えなおし、どこまで自然に近いところに戻れるのかも考えないといけませんね。

伊沢 結局ね、自然に還るしかないんですよ。

自己と自然――王陽明、夏目漱石、高村光太郎と糞土思想

平居さんと伊沢さん、それぞれの著書。

平居 私は大学時代に王陽明を研究していたのですが、その後、よく似た考え方をする高村光太郎や夏目漱石を知るなかで、3人の共通点を見つけたんです。

伊沢 おもしろそうですね。

平居 まず中国・明代の儒学者で陽明学を提唱した王陽明には、「良知を致す」という有名な言葉があります。これは、人間にはもともと心の中に善悪を正しく判断する力——良知——が備わっていて、それを十分に発揮すれば、誰もがよりよく生きられるという考え方です。

つまり、特別な知識人だけではなく、誰もが自分の内側にある判断力を磨くことで真理に近づける、という非常に主体性と簡便性を重んじた思想なんですね。

ところが、それだけだと「自分が正しいと思えば何をしてもいい」という独り善がりになりかねない。ですから王陽明は一方で、「万物一体の仁」という考え方を強調します。

これは、人間も自然も、本来すべてつながっていて、自分の行為は必ず周囲に影響を与える、という考え方です。その全体とのつながりを無視した良知は本物ではない、という発想ですね。

伊沢 なるほど。私は糞土思想の中で、単に野糞をするだけじゃなくて、自分のうんこの責任にも向き合うことの大切さを強調していますが、それと通じるところがありますね。

平居 夏目漱石もよく似ています。漱石はロンドン留学中、西洋で高く評価されている芸術や価値観に、自分自身はどうしても心から共感できなかった。そこで彼は、「みんなが良いと言うから良いのではなく、自分が本当に良いと思うものこそ大事だ」という「自己本位」という考えに至りました。

ただ、漱石もまた、それが単なる利己主義ではないことを明確にすべきだと思うようになります。晩年の「則天去私」——天に則り、私を去る——という言葉が象徴的です。つまり、自分自身を大切にしながらも、それはより大きな自然や道理、普遍的な秩序に従うことで初めて成立する、という境地に至るわけです。

高村光太郎もまた、「自己」を強く打ち出しながら、同時に「自然」を絶対的に尊重しようとします。

つまり三者に共通しているのは、「自己に重きを置く」ことと、「広く大きな理法に従う」ことを両立させるという構造なんです。

伊沢 まさに糞土思想もそうです。自分勝手、自分本位な野糞の実践ではなくて、自然の摂理を大切にすることと同義なんですよね。野糞も土葬も、一見すると極端な個人の思想に見えるけど、根本には命の循環や自然の法則がある。だからこそ、単なる変人思想じゃなくて、人間社会そのものを問い直す思想になるわけです。 

平居 これって、現代の多数決民主主義にも通じる問題なんですよ。民主主義ではしばしば「多数意見=正しい」とされがちですが、それは単なる時代の空気や社会的同調圧力に過ぎない場合もあります。

本当の意味での正しさは、外側の多数意見ではなく、自己の内面と自然の理法との関係から問われるべきなんです。

伊沢 だから私は、人間性とかヒューマニズムまで疑い始めたわけです。人間社会の欲望や都合でつくられた価値観を一度捨てて、むしろ自然を基準に考えなくてはいけないと気づいたんです。そこで、人間中心主義から離れ、自然の側に立つ、という意味で「人でなし宣言」をしました。

私は糞土思想を通して自分の訴えを広めていますが、その基準はあくまで自然の摂理であって、それこそが、多くの人に納得されながら社会へ広がっていくための根本なのだと思います。結局、自己を突き詰めた先に自然があり、自然に従うことで初めて本当の自己に辿り着く。そこが、糞土思想の核心でもあるんですよ。

平居 なるほど。やはりつながりましたね。

夜は近所で採取した野草の天ぷらと、平居さんの地元・宮城県石巻市のお酒で一献。

〈了〉

(執筆・撮影:廣畑七絵)