新たなコスモロジーが世界を救う(前編)

高世仁(ジャーナリスト)× 伊沢正名(糞土師)

ジャーナリストの高世仁さんは長年、世界中の現場から人間が生きる姿を見つめてきました。そんな高世さんは今、新たなコスモロジーを提唱しています。今回、高世さんがお住まいの東京都国分寺市にてお話を伺いました。

人はなぜ生きるのか、に直結するコスモロジーを

伊沢 最近の気候変動による大災害は、まさに世界の滅亡を予感させます。それを防ぐために必要なのが、人と自然の共生を目指す糞土思想だとずっと考えてきました。しかしつい最近高世さんに出会い、新たに知ったコスモロジーというものに、そのための大きな力があると直感しました。今日は高世さんからコスモロジーについてしっかりお話を伺いたいので、よろしくお願いいたします。

高世 私はもともとマルクス主義者で、社会を良くすれば、全ての問題を解決できると思っていました。でもだんだん、人の考え方をまずは変えなければと考えるようになったんです。結局は、人の「こころ」の問題が解決できないと世の中は良くならない。そんな時、ちょうどダライ・ラマにインタビューする機会があって衝撃を受けたんです。人間は覚れるんだと。それで「覚り」に興味を持つようになり、そこから新しいコスモロジーに出会ったんです。この新しいコスモロジーなら、個人も成長できるし、社会も自然もうまくいく。それでコスモロジーの勉強を始めました。そしてこの世界の3つの大きな問題を解決したいと思っています。

一つ目は、環境問題など、人間と自然との関係です。二つ目は人間と人間との関係。これには、戦争やヘイトスピーチも含まれます。三つ目が、人生の意味が分からなくなっている「生きづらさ」です。今の日本人はニヒリズムに陥っていて、人間が何のために生きているのか、よく分からなくなっている。特に、子どもたちが生きる意味を見失っていることがすごく気になっています。最近は子供の自殺が多いですよね。先進国で10代の死因に自殺が圧倒的に多いのは、日本だけです。この自己肯定感の低さは本当に気になります。コスモロジーへの入り口はここからだったんです。

 

伊沢 私は少し前までは糞土思想と仏教に親和性を感じていました。そこに答えがあると思っていたんです。でも、仏教だけでなくさまざまな宗教が広まっても、世の中は良くなっていないわけです。だから、信じるだけじゃだめだと思ったんです。信じるって、結局心の問題ですよね。そこで終わっちゃう。実践しなかったら意味がないと思うんです。どうやったら実践につなげられるか。そこで、これは糞土思想の出番だと思ったわけです。実際に野糞して命を返すという糞土思想は、単なる理論ではなく実践哲学です。宗教は、こうした実践が欠けているんじゃないかと思うんですよ。

高世 ただ、宗教の実践ということでは、例えばイスラム教徒の家に泊まったら、彼らが一日5回も本当にお祈りしているのを目にするわけですよ。日本人みたいに神社に行って手を叩いてパチパチ、はいおしまい、じゃなくて本当に長い時間をかけて真剣に祈っているわけです。

伊沢 私のいう実践というのは、祈ることの実践というより、実際に相手を生かすことをしているか、ということです。私はそれを自然との関係でやっています。自分のウンコを与えることで、実際に自然が元気になるという実践。そういう意味での実践です。それが今まで宗教では欠けていたんじゃないかと思うんです。だからお供えをしても、そのお供えが本当に神様の栄養になっているのか、と。単なる自己満足で終わっていないかと思うんです。野糞なら、それが他の生き物の食べ物になって、自然が豊かになるという事実があるわけです。

高世 それはきっと、科学的な真理と宗教が乖離しているからなんですよね。でも私の構想する新しいコスモロジーは、宗教ではなく、現代科学に基づいているんです。それもただの理屈として終わるんではなく、実際に心に染み込ませないと生き方を支えるコスモロジーにはなりません。

例えばイスラム教の5回のお祈りは、毎日毎日それを習慣化して体に叩き込んでるんですよ。周りからも祈るよう言われるし、子どもの頃からコーランを何度も何度も読みます。

仏教でいうと、薫習(くんじゅう)っていうんですけど、香りが衣に染み込むように、学びを染み込ませる。深層心理までそれを染み込ませる。こうして宗教的コスモロジーが心の中に築かれ、人が生きて死んでいく意味がはっきりしていく。

伊沢 あぁ、それで分かりました。なぜイスラム教徒が自爆テロで自らの命を投げ出せるのか。あれはジハード(聖戦)で、その事で神のもとへ行けるからなんですね。命の惜しい上層部が自分だけは楽をして、若者を死地に追いやる日本軍国主義の「神風特攻隊」とは真逆のものだったんですね。もちろん軍国主義も、子どもの時から教育の形を取ってそれをたたき込んでいますから、ある意味薫習を悪用したのかもしれませんが。そう考えると、教育も怖い面がありますね。

高世 コスモロジーは実存的な問題です。人がどう生きるべきか、という。だからいきなりは入りにくいんです。そこにもし伊沢さんのやっているような野糞という、かなりインパクトのある具体的な入口があれば、入りやすいですよね。私は今、どうしたらコスモロジーを体や心に叩き込むための実践ができるか、それを考えているところなんです。

伊沢 その入り口として、糞土思想の野糞のようなものがあればいいわけですね。

高世 そうですね。人の心や体にどう思想を染み付かせるのか、そのための具体的な入口があるのはいいですよね。これまでの人類のコスモロジーは、全部宗教的コスモロジーでした。この世の中はどうなっていて、その中で人間はどういう位置にあるのか。だから私たちはこう生きるべきだ、という。それは言わば、世界観と人生観が全部合わさったような、生き方の最もベースになるものです。これは無意識的に、みんな持っているはずです。

それがないと人間は統一的な行動をとれないはずです。今日、お花見に行こうとか、そういう判断さえ、最終的にはコスモロジーがベースになっています。

人類はずっと宗教としてのコスモロジーに支えられて生きてきました。人間が何故生きるのか、人はどこから来てどこに行くのか。そういう問いに、宗教は完璧に答えられます。

例えば、キリスト教なら、人はどこから来たのか、と問われれば、それは、神さまが自分の姿に似せて作ったんだよ、と答える。じゃあ、私たちは何のために生きているの、と問われれば、神の王国をこの世に作るためだよ、と答える。一人ひとりがみんな神の子なんだよ。だから協力して生きなきゃいけないよ。人を殺したりしちゃいけないよ、と。死んだらどうなるの、と問われれば、最後の審判のときに全員が甦り、生きているときの行いによって永遠の命の国に行くか、地獄に落とされるか決まるんだよ、と答える。つまり「ビッグクエスチョンズ」といわれる人間の実存的な問いに対して、答えは完璧なんですよ。何をやっていいか、悪いかの倫理もはっきりするし、安心して生きて死ぬことができる。これを信じられれば怖いものはないんですね。だから宗教的コスモロジーのもとでは、死も今ほど怖くはなかったでしょう。

ところが科学がそれをぶち壊します。航海術が発達して、地球が丸いことが分かってくる。どうやら地球の方が太陽を回っているらしい。教会で教えていることと違うことがどんどん増えてくる。結局、「神は死んだ」(ニーチェ)となって、神様が否定される。神様が退場したら、もう最高の存在は人間、ヒューマンしかないということで、そこからヒューマニズムが起こります。

でも、このヒューマニズムは、安心して生きて死ねるコスモロジーを提供できない。人間が最高の存在になると、倫理とは、その時々の人間が勝手に作ったものでしょ、という話になり、絶対的な規準はなくなる。なぜ人を殺しちゃいけないのかさえ、分からない時代になっているわけです。Amazonで検索したら、『なぜ人を殺してはいけないか』という同じ題名の本が9冊もありました。分からなくなっているんですよ。何故人を殺したらいけないか。倫理の基準がない。

次の新しいコスモロジーは、宗教的コスモロジーの構造は受け継ぎます。つまり、大いなるものがまずあって、それによって人間は生かされているという構造です。その大いなるものから倫理もちゃんと出てくる。それは宇宙の摂理で、つまり伊沢さんがいう自然の摂理と同じなんだけれど、宇宙の一部として人間があるのだから、宇宙の摂理に従って生きるべきだとなります。

そこに「絶対」があるんですよ。大いなるものがあって、その恵みによって人が存在し、摂理によって人が生かされているんだから、それが倫理になる。この構造自体は、宗教によらない新しいコスモロジーでも同じです。大いなるものが前提にあってはじめて、人は安心して生きて死ぬことができます。

伊沢 なるほど。その宗教や神にあたるものが「自然」であると、私は位置づけています。

高世 そういうことです。私はそれを「宇宙」と捉えています。

近代のバラバラコスモロジー

伊沢 今回高世さんから頂いた『サングラハ』という冊子で、高世さんの書かれた「私がここにいるわけ―高校生に語るコスモロジー」を読みました。その中で、ビッグバンから始まって今現在の自分自身にまでたどり着けるんだと、その思考の広さと深さに非常に大きなものを感じたんです。

高世 近代以降、宗教的コスモロジーの崩壊は世界全体で進んでいます。でも、その崩壊の突出した最先端にいるのが日本なんです。そして一番その病理がひどく現れているのが子どもたちだと思っています。

今の日本人のコスモロジーは何かと言えば、全てのものはバラバラの物質からできていて、私たちはそのたまたまできた物質の複雑な組み合わせの集合体にすぎない、という近代科学にもとづく考え方です。私たちをどんどん分解していくと、分子、原子になっちゃうし、結局物質でしょ、と。だから人間の心というのも、結局は脳細胞であり、物質でしょ、となります。

だから死んだら、バラバラに物質が分解されておしまい。そうなると、体も心も結局物質なんだから、生きる意味ってどこにあるの、ということになっちゃうんです。というのは物質自体には意味も善悪も価値もないからです。

固い石と柔らかい石がぶつかって、柔らかい石がボロボロと割れたとき、そこに善悪はありますか。どっちがいい石で、どっちが悪い石だ、その行為は良いか悪いか、という善悪は出てこないですよね。一方の石が割れたのは、より柔らかいから、より弱いから割れただけ。人が物質なら、強い者が勝って、弱い者が脱落するのが当然でしょ、となる。倫理がない世界になっていくのが当たり前なんですよ。これはニュートンの近代科学の考え方です。

宇宙は永遠に存在していて、そこに物質がバラバラにある。物質は力を加えないと静止状態で、死んだようになっているんですが、そこに神の一撃がバーンとあれば動き出して、永遠に運動し続けるという考え方です。この近代物理学の考え方だと、あらゆるものがバラバラに存在し、たまたま出会って何かが起こる。そこからは人間の生きる意味が出てこなくなってしまう。

絶対的なものがなくても、とりあえず私はありありとここにいる。すると、大事なものはまず自分であって、そして痛いとか美味しいとかいう自分の感覚はありありと感じられるから、自分の快楽を求めることが一番になっちゃう。これを近代のバラバラコスモロジーと呼んでおきます。

伊沢 近代科学とはそういうものだったんですか。知りませんでした。

高世 今の日本人にとって、一番大事なのは「私」、自分でしょう。人生の目的は自分が幸せになること。そして幸せとは、楽しいこと。だから楽しくなければ人生じゃないと、こうなるんです。苦しくても生きなきゃいけないという考えが、もう出てこないんですよ。そうすると、楽しくなければどうなるか。じゃあ自殺するしかなくなっちゃう。だからこの近代科学をベースにしたコスモロジーは人の生き方としてすごく弱いし、安心して生きて死ぬことはできません。

近代科学に対して、同じ科学でも現代科学は全く違います。アインシュタイン以降、実は宇宙は永遠ではなく、始まりがあり、すべては物質からできているわけではないことが分かったんです。

伊沢 えっ?どういうことですか?

高世 宇宙は、138億年前に「無」からポンと生まれ、極小の一点から爆発的に拡大したとされますが、極小の点のときには当然ながら物質はありません。「ゆらいだ無が膨大なエネルギーになった」と表現されますが、はじめは物質ではなく、エネルギーしかなかった。アインシュタインやビッグバン理論のガモフ(理論物理学者)が唱えるこの宇宙像が、今では標準仮説として認められています。

この宇宙エネルギーが拡大するときに、エネルギーに濃い薄いができて、濃いところが物質に、薄いところが空間に、広がり方が時間になりました。まず生まれた物質は、素粒子です。その素粒子が、原子を作ります。プラスの原子核とマイナスの電子による原子というひとつのシステムができました。これがビッグバンから38万年後で、もっとも単純な水素原子ができました。さらに多様化した原子が集まって分子、分子が集まって高分子になる。高分子が更に進化して、生命が生まれてくる。宇宙が自らどんどん複雑なシステムを生んでいく。その生命が、さらに進化をつづけて人間の登場となっていくわけです。138億年かけて、宇宙が自己組織化して、自己複雑化して、自己高度化していった。それは何のためか。

伊沢 何のためなんでしょうか? アタマの中がハテナマークで一杯になってきました。

高世 私が構想するコスモロジーでは、人間が存在する意味は、宇宙が自己認識し、自己感動するためだと考えています。

私は宇宙の一部ですよね。私が桜を見て、花が咲いているなと思う。その桜も宇宙の一部です。つまり、宇宙の一部が宇宙の一部を認識している。それは宇宙が自己認識しているということになる。さらに私が桜の花が美しくて見とれているとする。そのとき宇宙の一部が、宇宙の一部に感動している。つまり自己感動です。宇宙は、宇宙自身を自己認識し、自己感動するために人間を作り出したのではないか。戯画化して言うと、宇宙が138億年も壮大な営みをし続けているのを「すごいな」と言ってくれるものがいないとつまらないじゃないですか。宇宙の自己肯定の欲求といってもいいかな。

宇宙はすごく大きくて多様なもので出来ていますが、もともと一点の極小のエネルギーが拡大したものです。ということは宇宙は一つですよね。小さなゴム風散をいくら大きく膨らませても一つに変わりないのと同じ。私と何億光年も向こうにある銀河たちも一つ、つながって一体なんです。仏教でいう「一如(いちにょ)」という考え方に通じます。

私たちは星空を見上げたときに、どう考えるでしょうか。宇宙は、私の前に広がる真っ暗な空間で、「大きな宇宙に比べて自分はなんてちっぽけなんだ」と思うのは、「私と宇宙」というふうに両者を別々に対立的に考えるから。つまり、宇宙は私ではない存在として捉えているわけです。でもよく考えれば、私たちは一つの宇宙の自己組織化によって生み出された宇宙の一部で、母なる宇宙に包まれている。

そう考えると、宇宙を見上げて「この宇宙はどこまで広がっても私とつながって一つ、宇宙と私は一体なんだ」と力が湧いてくるような気持ちがするのではないでしょうか。バラバラコスモロジーだとうつになるけど、一如コスモロジーだと元気になる。

伊沢 実は私もこれまでは、宇宙に対する自分の存在感があまりにも小さくて、自分の存在など無意味だと思っていました。だから宇宙のことは余り考えたくなかったんです。でも今、ビッグバンから始まる高世さんの提唱する新しいコスモロジーを知って、一気に考えがプラス方向に広がりました。

高世 例えばこの土壌は、5億年前はなかったものですよね。惑星の中で土壌を持っているのは地球しかないのですが、生物と無生物が一体化した豊かな土壌は、微生物や様々な生き物が岩石を砕きながら作ったものです。ビッグバンのときには、水素しかなかったのが、今、地球上には90種類以上の元素がある。だからこそ生命が生まれ、生き物が地球を覆っているのですね。

その多様な元素を作ったのは星です。星は内部の核融合のエネルギーで輝くのですが、核融合が水素原子から始まって化学の時間に暗記した「水兵リーベ・・」と次第に複雑な元素を生み出している。宇宙をより複雑に、より高度に組織するためにそうしている。星は宇宙を豊かにする工場なんです。宇宙は自己組織化、自己複雑化を138億年もつづけて、ついに人間まで作ったとなると、何が言えるでしょう。

近代科学のコスモロジーでは、ものはバラバラだと考えられていたんです。バラバラのものがたまたま集まって、化合物ができたり。自分も、たまたま両親が知り合って、たまたまここにいて、というぐあいに。でも、本当はそうじゃないわけです。

さっき、宇宙は一つでつながり合っていると言いましたが、生物界もそうです。ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックという科学者がいるのですが、彼らは遺伝子の二重らせん構造を発見しました。そこで分かったのは、DNAが左巻きであること、DNAを形作る核酸塩基は4種類であること、それが全ての生物に共通していることでした。さらにDNAの研究を進めると、地球の生命の一番最初の先祖は、たった一匹の単細胞生物だとわかったんです。

今までは海の中で、あっちでもぽこっ、こっちでもぽこっと多発的に生命ができたのだとされていましたが、そうではなく、最初にできたのはたった一匹だったことがわかりました。これを知った時、私は感動しましたね。コスモロジー的に言えば、私も含めて生き物は全てつながって親戚だということです。

ただ、科学とコスモロジーが違うのは、科学は客観的に事実はこうなんですよ、というだけですが、コスモロジーはその事実を全て生きる指針として「自分ごと」にしちゃうところです。自分にとってそれは何なのか、どういう意味があるのかということです。結局そうなると、キーワードは「ひとつ」ということなんです。宇宙もひとつ、生き物もひとつ。地球の生態系もひとつ、そして人類もみなアフリカから生まれたひとつ。つまり、マトリョーシカみたいに「ひとつ」が入れ子状になっているのが全宇宙の構造。ひとつの中で繋がって繋がって、繋がり合って、その関係性の中でしか何ものも存在できず、また人間も生きられない。この気付きが、むしろ人間を強くする。「オレは誰の世話にもならずに、自分だけで生きてる」なんていうのは、かっこよくて強そうですが、それは事実と違うし、思想として弱い。大いなるものに生かされているという考え方のほうが、本当は強いんです。

伊沢 私はその大いなるものが「自然」である、という認識で止まっていたんですよ。でも高世さんと出会って、その先が見えてきました。

高世 まあ、ビッグバンと宇宙の進化も自然と言えますけどね。

伊沢 その自然の捉え方を、「地上の自然」、つまり現在の地球レベルまでしか認識できていなかったです。もちろんビッグバンまで時間を遡るとか、宇宙全体まではいっていなかったんですよ。

高世 認識は地球から離れていかなくてもいいと思いますよ。地球も宇宙のひとつですから。

伊沢 とにかく高世さんに出会ったことで、糞土思想の次の扉が開いたように感じます。自分だけではとても到達できない境地ですよね。

138億年の進化の奇跡

高世 私も今、どうしたら現代科学をベースにした新しいコスモロジーをもっとみんなに理解してもらい、広げていけるのか、考えているんです。コスモロジーを共有できそうな人たちを探し、接点を持ちたい、と。だから私も、今回はその良い機会をいただいています。

私たちは当たり前のように今、生命として生きていますけれど、宇宙が138億年かけて生命が生まれるところまでくるのは、ものすごい稀な確率なんですよね。だって最初は物質がなかったんですから。それがこれだけ豊かなものになったわけです。

木村資生(きむらもとお)さんという遺伝学者がいます。ダーウィン・メダルという、遺伝学会のノーベル賞とされる賞を日本人で唯一受賞した人です。この人は、ダーウィンの学説に批判を加えて、世界中で議論になった学説を唱えた人なんです。

ダーウィンは、「サバイバル・オブ・ザ・フィッテスト」、つまり環境にフィットする適者が生存していくという考え方だったんですが、木村資生さんは「サバイバル・オブ・ザ・ラッキエスト」、ラッキーな個体が生き残ると主張しました。

伊沢 なるほど、そういう説なんですね。私もむしろ、そっちの感じがします。私自身も今現在の人間社会にはほとんど適応していないけど、いろいろな幸運に出会い助けられながら、こうして今ここに存在し、そしてガンガン活動しています。……んっ?これもまた自分事にしてますね!

高世 これは当時、世界中で議論になったんです。でも今は、遺伝学会でも認められる学説になっています。木村資生さんが、この宇宙で単細胞生物でも、とにかく生命が生まれる確率は、宝くじを100万回連続して当たるよりも少ないと言っているんです。ジャンボ宝くじ100万回、連続して1等賞になるよりも確率が低いんだよ、と。

というのも、138億年のこの進化の中で、ほんの一ケ所でも違った形になっていたら、もう、私たちは存在しないんです。そうすると、本来はあり得ないことが起こっているといってもいい。ここでね、2つの考え方が出てくるわけです。これは偶然なのか、それとも必然なのか。

もし偶然だとすると、あり得ないことが起こっていることを日本語で何と言うか。「奇跡」ですよね。では必然だったら。つまり宇宙は、私や伊沢さんを作るために138億年がんばってきたと。これなら、もっとすごいですよね。

伊沢 どっちにしてもすごいことです。でも私は、どっちかというと必然のほうを信じたいですね。

高世さんに出会った日のことです。昼に歯が欠けて前歯が全部ダメになり、もう噛み切れなくなって食べるのが困難になった時に、治療はせずにこのまま徐々に喰えなくなって死に向かおうと腹をくくったんです。ところがその数時間後に、凄いタイミングで高世さんに出会いました。その縁があって今ここにこうしているわけです。私の人生にはそういう絶妙なタイミングで、次々に素晴らしいチャンスが訪れるんです。こんなにちょくちょくあったら、奇跡なんかじゃないですよね。これは絶対に必然です。

高世 私もそうです。私たちが元気づけられるほうを信じたほうが得ですよね。今の若い人は、簡単に「死にたい」って言うじゃないですか。だからそういう人には、138億年をかけて君ができたということは、宇宙が君を認めているんだよ、と言ってあげたい。だって認めていなきゃ、君はここにいないじゃない、と。もしも人間社会で誰からも認められなくても、ばかにされても、いじめを受けていても、宇宙からは認められているんだよ、と。

              〜新たなコスモロジーが世界を救う(中編)へ続く〜

             ( 写真構成:伊沢正名 /  撮影・編集:小松由佳 )