知識より、自分の感覚を信じよ。

知識よりも感覚で判断せよ

伊沢 従来の土木工事に疑問を抱いてからは、どのように土中環境を整える方法を編み出していったのでしょうか?

高田 まずはとにかく謙虚に、「観察」に徹しました。たとえば、「虫が発生して困る」との依頼があった木。農薬を撒けば一旦虫は駆除できますが、虫がいなくなった後も、木はどんどん弱っていきました。従来の対処法は一旦忘れて、その木をつぶさに観察していくと、「根のこの部分は、道路に張り出して乾燥しているな」といった気づきが出てきました。

 そこで土に通気口を通し、空気と水の通り道を作るような施工をしてみると、枯れていた葉っぱがみるみる生き返ってきたのです。そういった経験を積み重ねて、土の呼吸を重視するこのアプローチに、確信を抱くようになっていきました。

伊沢 ご自身で実際に試しながら、手法を確立していったんですね。

高田 もちろん、試行錯誤だらけでしたよ。「この森ではうまく行ったのに、こちらの森ではてんでダメだ」ということも、ざらにありました。ですがそもそも、人間から見えている部分なんて、自然界のほんの一部にすぎません。自分の知っている知識だけで自然を見ては、良い選択にはたどり着けない。

 だから、表面上に現れている病気の症状を見て対処法を判断するなんて、うまくいかなくて当然なんです。

 ではどうすれば良いかというと、謙虚に観察を続けることに加えて、自分の感覚を育てることが重要ではないかと。先ほどお話ししたような、良い森にいるときの香りや音、風がヒゲにあたった感覚などを思い出して、目の前にある木をその森の状態に近づけるには、何ができるだろうかと考える。

「こんなにコンクリートで固められたら、息がしづらくて苦しいのでは」と、自分の感覚に置き換えてみる。もちろんそれだって、正しい答えが出せる保証はないのですが、ちっぽけな知識よりは感覚の方がよっぽど答えに近づけると思います。

人間は、「良い森」を本能的に感じ取れるという。

伊沢 人間の知識がちっぽけというのは、本当に共感します。ウンコに対する現代人の知識が、まさにそう。ウンコが他の生き物のご馳走だということを知ろうともせず、自分が知っている知識だけで「ウンコは汚い」と決めつけて、遠ざけてしまうんですよね。

 逆に既存の知識に頼らずに、自分の目で観察し、実際に経験し、知恵を働かせていく。私も実際に野糞をして土に埋めたウンコを掘り返し、手で触れて感触を確かめ、匂いを嗅ぎ、さらには味見まで、五感を駆使して観察・調査しました。

 その経験があったからこそ、自然の中ではどれほどウンコが素晴らしいものであるか、ようやく理解できたのです。これって本当に楽しいし、アカデミックな世界を驚かせるような発見もありますよね。

 一方でなぜ、学校ではそんな大切なことを教えてくれないのでしょうか? 造園や土木の世界でも、学校で教えるのは机上の知識が大半なんでしょうね。

高田 伊沢さんがおっしゃる「経験的に培ってきた知恵」は、今の科学が切り捨ててきたものだと思うのです。たとえば昔は、石積みの間に藁を入れていました。石積みの間の風通しを良くして、生き物が住みやすい環境にすることで、石積みが自然に受け入れられて安定するんです。結果的に、そういった石積みは1000年経っても崩れていません。昔の人はそういった知恵を、感覚として知っていたんですね。

高田造園設計事務所が施行した事例の一つ。石積みが自然に受け入れられ、しっとりと苔が生えている様子。

 いまではそういった“感覚的なもの”が、非科学的だと排除されてしまう。神様の力や神聖なものの存在もそうですよね。でも実際には、科学で説明がつかないことなんて、自然界にはごまんとあります。

伊沢 「科学こそが素晴らしい」という信奉が、いまの社会をおかしな方向に向かわせているんじゃないか。私もそう感じています。私たちが持つべき姿勢は、現代の方法を見直して、古人の知恵を取り戻していくということですよね。いまは嫌われ者のウンコだって、昔は肥料として重宝されていた時代がありました。まさに温故知新ならぬ、「ウンコ知新」と私は言っています(笑)。

高田 いいですね(笑)。自分のやり方を否定できる力って、本当に重要ですよね。完璧な人なんて所詮いないのだから、間違っていたと気づけば直したらいいんです。「やったー、いいことを知った!」ってね。