植物は動くことができないため、動物より下等なものとされてきました。ところが近年の研究では、植物にも「心の働き」があるのではといった議論がされ始めています。そんな問いを研究する哲学者の染谷昌義さんと伊沢正名さんが、哲学とは何かという前提から、人間中心主義の根っこまで語り合いました。
哲学は思想を学ぶだけではない
伊沢 染谷さんと初めてお会いしたのは昨年の5月でしたね。しかも直後の8月には映画『うんこと死体の復権』の上映と講演会を、染谷さんが住む北海道江別市で企画してくれて。単に話を聞くだけではなく、すぐ行動に移してくれるところがありがたかったです。
染谷 あれは道内を12日間で9カ所廻るという、すごくハードスケジュールな講演会ツアーでしたよね(笑)。おつかれさまでした。
私は元々東京の大学に勤めていたのですが、コロナ禍を機に北海道に移住したんです。今は北海道大学の研究センターに所属しながら、哲学の研究を続けています。

染谷昌義(北海道大学 人間知・脳・AI研究教育センター 博士研究員)
伊沢 正直言うと多くの人にとって、染谷さんが研究している「哲学」とは何か、よくわかっていないと思うんです。どうしても難解でとっつきにくい印象が強くて。哲学とはそもそも、どんな学問なんでしょうか。
染谷 確かに哲学というと、ソクラテスやデカルトのような過去の偉大な哲学者の思想を、書物を通して学ぶ学問で、理屈っぽくて難しいというイメージが強いかもしれません。もちろん過去の哲学者の主張を基礎的な知識として理解することは思考を訓練することになるので、思想の歴史を学ぶことはとても重要です。
ですが私は、哲学はそれよりもはるかに射程の広い学問だと考えています。
私たちは、日常生活の中で多くのことを疑うことなく受け入れています。たとえば、一定の年齢になれば小学校にいきます。仕事をしてお金を得て、そのお金で食べ物をはじめ生活物資を買います。税金を払います。交通ルールを守って車を運転します。私たちはこうしたことをするのが当然だと思ってやっています。こんなふうに習慣になってしまった思考や行動はスムーズな生活を支えてくれます。ですが、当然のように受け入れているものの見方や考え方、そして行動は、これまで受けてきた教育や慣習に強く縛られているものでもあります。
「哲学する」というのは、こうした縛られた状態から思考を解放する練習です。哲学を用いると、常識や当たり前になってしまった見方に対して「本当にそうなのか」「別の見方はないのか」と問い直すわけです。
自分がいま直面している問題を、当たり前だと思っている前提から問い直すことで、問題を今までとは違った方向から考え直すことができる。うまくいけば、これまで考えてもみなかったことを考えることができるようになる。だからこのプロセスは、社会課題の解決から日常の悩みの解決にまで、広く応用可能です。
哲学は机上の空論ではなく、現実をどう生きるかを考えるための実践なんです。過去の哲学者の主張や考えを辿り直すのは、思考の自由を取り戻すためのトレーニングだと思ってもらってかまいません。
伊沢 なるほど、哲学は現実に向き合うための学問であり、実践なんですね。しかも常識を問い直すために。となると、私が追及し、広めようとしているうんこと野糞の糞土思想も、じつは哲学そのものだったということになりますね。
植物に「心」はあるか
伊沢 昨年夏に北海道へ行ったとき、染谷さんと話をする中で私が特に面白いと感じたのが、染谷さんが哲学を用いて自然科学の領域に踏み込んでいることです。これは自然を理解する上で、これまでとは違った新しい視点を得られるぞ、と閃きました。そして対談ふんだんでも、染谷さんにご登場願いたいと思ったんです。

プープランドに新たに設置した丸太のテーブルと椅子。早速それを活用し、最高の気分で対談が進行した
染谷 ええ。私が今一番力を入れているのは、植物や菌類、原生生物といった、脳や神経のない生き物たちに「心のはたらき」があるのではないか、という問いです。心のはたらきは、脳や神経がないとあり得ないという考えは根強いのですが、そうではないという見方が出始めたのです。たとえば植物はこれまで、自らの意志で動くことができないなど、動物よりも知的に劣る生物として扱われてきました。
ですが2010年代に入ってから、植物の「感覚」や「記憶」、「行動」や「意思決定」など、植物の心のはたらきを研究する論文が急に増え始めた。「これはいったい何が起きているんだ」と驚いたのが、興味を持った入り口でした。
伊沢 植物に「心のはたらき」があるとは、どういうことでしょうか。
染谷 たとえば植物は、周りの木や虫とコミュニケーションを取っていることが、近年の研究で明らかになってきています。
植物は場所を移動することができない分、周囲の変化に対する感受性が非常に高い。光や温度、湿度、さらには音にまで反応することが分かってきました。
実際に虫が葉を食べる音を聞き分けて、シグナルを出して周りの葉や木に危険を伝える、といったことも観察されているんです。
こうした振る舞いを見ると、植物も動物のように周囲の状況を感じ取り、自分の振る舞い方を「選び」、「意思決定」している存在だと考えることができるのではないでしょうか。
伊沢 すごく面白いですね。私も植物に感覚や意志があるんじゃないかと、2007~08年に野糞跡掘り返し調査をやったときから感じていました。
うんこは菌類に分解されると無機塩類になり、それは植物にとって無くてはならない養分です。だから植物はそれを食べようと、栄養たっぷりの野糞跡に向かって根っこを真っ直ぐ伸して来るんです。

割り箸が刺さっているところにウンコが埋まっていた。先端の白い部分が、新しく伸びてきた根っこ。
今も木を見上げてみると、光合成を効率よく行うために、葉っぱが光のある方向に、しかも均等にうまく広がっていますね。
隣の木のことも考えながら、隙間を埋めるように葉を出している。ちゃんと「分かって」いるんですよ。この思いは前から持っていましたが、うまく言葉で説明できていませんでした。
染谷 ええ。こういうことが分かってくると、植物の行動を語るのに、「記憶」「学習」「意思決定」といった、本来人間を扱う心理学の語彙を使う研究者が出てきます。それが今、大きな論争になっているんです。
伊沢 論争ということは、批判もあるということですか。
染谷 ものすごい勢いで(笑)。従来の植物生理学者の中には、「心理学の語彙を植物に使うのはロマン主義だ、研究資金を稼ぐための誇張だ」と猛烈に批判する人もいます。
しかも興味深いのは、学界だけでなく、社会的な反応も大きいことです。植物の感覚やコミュニケーションを扱ったあるテレビ番組があり、内容自体は非常に評価が高かったのですが、なぜか再放送されない。
ある筋から理由を聞いてみたところ、放送後に多くのクレームが寄せられ、その発信源のひとつがベジタリアンのコミュニティだったそうなのです。
植物にも動物と似たような感覚があったり、コミュニケーション能力があるとなると、動物と同じように植物も食べることができなくなってしまう。つまり、動物を食べることにともなう罪悪感が植物にも当てはまる。だから困って批判するわけですよ。
伊沢 なるほど、それは興味深い。私はずっと、この世の中を悪くしているのは悪人じゃなくて、自分は正しいと思っている「エセ良識人」だと言ってきました。エセ良識は真理を追及しようとするんじゃなくて、自分を正当化するために、都合の良い知識やデータなんかを使ってそれを潰そうとするんです。
まさにその構図が、今伺ったベジタリアンからの批判に現れていますね。
命を奪っているという点では、動物だけじゃなく植物を食べていても同じです。だとすれば大切なのは、「食べない」ことではなく、食べて奪った命をどう自然に返していくかを考えることが大切ではないですか。それなのに番組を批判したベジタリアンときたら、真逆のことをしているんです。
じつは私の知人にもビーガンがいるんですが、彼から聞いたベジタリアンの意味はまるっきり違うものでした。つまり、ベジタリアンの語源はベジタブルではない、と。そして彼は魚を、つまり動物を食べています。彼は食べることは命の遣り取りだと考え、自分の食べるものは自分の手で命を奪わなければいけない。獣を捌くことは自分には出来ないから肉は食べない。でも魚は捌けるから、食べる。そして自分は、最後は熊に喰われて死にたい、と言うんです。
染谷さんは、「食べる」ことについてどうお考えですか。
染谷 動物性のものを食べず植物性のもの食べる理由はいろいろあると思いますが、動物の福祉を著しく損なうやり方で牛や豚やニワトリを肥育する、工業型畜産への反対が大きな理由の一つです。たしかに動物福祉の議論が指摘するような畜産動物への虐待は見過ごすことはできません。そうまでしなければ対応できない食料消費や市場のあり方は問題です。それは農業にだって当てはまります。
ただその一方で、人間も含めたすべての生物が、命を食べることで自分の命を続けるという動かしようのない事実があります。植物も命であり、植物を食べることで動物は生きることができるし、当の植物でさえ、間接的だけれど、菌類が分解した無機塩類を生きるための糧とします。クレームをつけた人たちが、植物に心のはたらきや知的行動があると、動物と植物とを差別化することができなくなり、植物を食べることが正当化できなくなってしまうから不都合だ――。そんなふうに考えているとしたら、それは命が命を食べるという事実を無視した、とても狭く短絡的な考えです。
命は命を喰らうことで維持されるんだという事実は揺るがない。悲しい事実です。この事実は植物を食べることでも同じです。伊沢さんの話のなかに出てきたビーガンの方は、自分が直接触って喰らう命は食べるが、そうでない命は食べないという見方をしています。これは、命が命を喰らうという「命のつながり」を隠し、命を商品として扱うことへの強烈な批判だと感じました。
命を喰らうのだから自分で責任をもって命を奪うことができなければならないし、自分の命だっていずれ誰かに喰われる存在でいなければいけない、というわけです。とても共感しますね。
伊沢さんの糞土思想の核にも、つながりあった命の責任を果たすことがありますよね。命が命を喰らうというつながりの責任の果たし方が、さっきのビーガンの方のやり方です。
残念ながら私はこの責任が気になり始めたばかりできちんと果たせておらず、偉そうなことはまったく言えません。ただそれでも糞土思想への関心と、植物や無神経生物の心への関心は、今の私の実践のなかでつながっています。
「心」は人間だけのものか
染谷 そもそも、なぜ植物に「心がある」と言うと批判されるのか。それを考えると、「心は人間だけのもの」という深い思い込みが見えてきます。
話をさかのぼると、17世紀の哲学者デカルトの影響がとても大きい。デカルトは「考えること」と「体が成長すること」や「体を動かすこと」をはっきり切り分けました。精神のはたらきと肉体のはたらきは別物だ、と。これが今でも私たちの考え方の根っこに残っています。大学で教えられている現代の心理学は、デカルト流の心の見方の典型です。
でも実は、デカルトよりずっと前のアリストテレスの時代には、「アニマ」という考え方があって、植物が栄養をとって成長することも、動物が移動することや感覚することも、そして人間が思考することも、全部ひとつながりの「生きるはたらき」として捉えていた。心と生きること、心のはたらきと体のはたらきは、もともと切り離されていなかったんです。
伊沢 そんな重要なことを、デカルトが変えてしまったんですね。
染谷 ええ。でも今、植物や菌類の知的な行動がどんどん明らかになってきて、「心」というものを問い直す時代が来ている。私が提案しているのは、心の概念を「人間的なものだけ」という狭い枠から広げていこうということです。
記憶のあり方も、意思決定のあり方も、生き物によってまるで違っていてもいい。人間の心が「唯一の正解」ではなくて、生き物それぞれに固有の心のはたらき方がある。いわば、「心のダイバーシティ」ですね。
伊沢 それは糞土思想ともすごく近い考え方ですね。人間は自然の中の一部で、特別でもなんでもない。私は以前、先住民のような生き方をしたいと考えて、「先住民宣言」をしました。でも最近の酷い環境破壊を思うと、そんなことではとても間に合わないと考えるようになり、とうとう「人でなし宣言」をしてしまいました。要するに、人間だけが特別だという思い込みを一度手放さなくてはだめじゃないか、という提案なんです。
こんなふうに私が言うと極端な主張に聞こえてしまうんですが、哲学の言葉で語ってもらえると、説得力がかなり違ってくるのではないかと思います。
染谷 今の話に加えて、最近面白い研究を知ったんですよ。アフリカはカメルーンで農耕と狩猟採集を組み合わせた生活をしている人たちに、GPSを持ってもらって、ジャングルで1ヶ月以上の長期にわたって移動しながらキャンプ生活をするときの行動を記録したところ、キャンプを張る場所と、主な食料であるイモが多く採れる場所が一致していたそうなんです。
伊沢 それは面白い研究成果ですね。でも分かります。キャンプ地で食べて、うんこをして、食べカスも出る。その中には植物の種などもあるだろうし、その栄養で植物が育って、また採れるようになる。
染谷 そうなんです。意図して畑を作っているわけじゃないのに、移動しながら自然とイモを「栽培している」。人間が自然の循環の中に組み込まれているからこそ起きていることです。

プープランドの土葬予定地に設置された、鴻池朋子さんの作品「土に還る」を観る二人
伊沢 先住民の焼き畑なんかも、現代人は自然破壊だと批判するけど、あれは間違っているわけではありません。焼くことでその灰が肥料になり、作物を育てる。そして土地が痩せてくると別の場所に移動して、そこにはまた林が新たに育っていく。それは健全な新陳代謝でもあり、自然と共生しながら、むしろ自然を元気にしていた。それを知らない人間が上から目線で批判しているだけなんですよね。
その自然と人間の本来のつながりを断ち切ってきたのが、現代の人間中心主義なんです。
染谷 花粉を運ばせるために虫を「利用する」花があり、種子を運ばせるために果実を作って動物を「利用する」植物があるように、人間を「利用して」繁栄してきた植物がある、という見方もできます。こういうやりとりからは、植物と人間とでどちらが主でどちらが従かなんて、本来決められないんですよね。
伊沢 そう。だから私がプープランドでうんこをし続け、最後にここで私の遺体も土に還すということは、自分を生かしてくれたこの土地への「恩返し」でもあるんです。高田宏臣さん(土中環境の専門家)に言わせると、「うんこだけじゃなく、やっと本人が来た」って微生物たちが喜ぶだろう、と(笑)。
染谷 そうかもしれませんね(笑)。

プープランドで伊沢さんが土に還るための、横穴墓を掘る予定地を説明する
伊沢 今日染谷さんと話して、哲学という学問を身近に感じられるようになりました。
私はどちらかというと、直感で「これだ」と先に答を出して、後から理屈を探す方なんですが、染谷さんは哲学的にじっくり考えながら、同じ場所に辿り着く。やり方は違うけれど、向いている方向は一緒なのだと感じました。
染谷 そうですね。伊沢さんが実践によって切り拓いてきたことを、哲学の言葉でちゃんと語れるようにできれば、もっと多くの人に届けられるかもしれません。
伊沢 本当にそうですね。今日は新たな視点をたくさん得ることができました。ありがとうございました。

糞土庵にて
〈了〉
(執筆・撮影:金井明日香)
