伊沢正名(糞土師)×多多納直美(料理研究家)
前編に続き、食の専門家である多多納直美さんと「命と循環」をテーマに対談を行いました。
しあわせな死へ
多多納 食への関心や食べ方の実践は、本当に多様になってきました。例えばベジタリアンやビーガンなどがいますよね。ベジタリアンはチーズを食べたり食べなかったり、個人によって様々ですが、ビーガンとなると毛皮も着ないし、蜂蜜も卵も食べません。こうした食に気をつけている人に糞土思想の話をすると、もっともだね、でも、食べているものの質が悪い人のウンコは土に返したくないよね、という話も出るわけです。
そこで思ったのは、食べるものの質が良い悪いという、まだそこの考え方かと。食べたものの質を言う前に、まず自分が出したものの処理についての発想のほうが先じゃないのかと。
伊沢 それに対する私の答えは、菌類はそんなにヤワじゃないぞ!というものです。結局その人たちは、菌類や自然のことを何も分かってないんです。それでいて、自分は良識人だとふんぞり返っている。ちょっと嫌らしいよね。
多多納 自然界にはいろんなものがあって、きっと良い、悪いではないんだろうなと思うんです。〝食べているものの質が悪い〟というのは、つまり人間の健康にとっての良い悪いであって、自然界の良い悪いではないはずです。だったら、〝食べているものの質が悪い〟ウンコはトイレに流したほうがいいのかという話で、話がもとに戻ってしまいますよね。
伊沢 実はこのところ急激に歯が悪くなり、次々に欠けて、この2年間で10本も無くなっちゃったんです。しかも少し前に前歯が全滅して、とうとう噛み切ることが出来なくなり・・・でも、治療は一切せずにこのまま食べられなくなって、徐々に「しあわせな死」に向かおうと腹をくくったんです。
多多納 「しあわせな死」・・・ですか?
伊沢 しあわせな死というのを考え始めたきっかけは、命の循環をダメにする根本問題に気付いたからなんです。
命の循環は、まず初めに植物が光合成で有機物を作って自分の身体を作り、それを草食動物が食べ、更にそれを肉食動物が食べるという、順々に食べていく食物連鎖で成り立っているわけです。そして食べる者よりも食べられる者が多くなければ、下位の者は食べ尽くされてこの循環は止まってしまうわけですよね。ところがその最上位にいる人類は、現在80億人にもなり、このバランスは完全に崩れています。だから命の循環をきちんと成り立たせるには、人口を大幅に減らすこと。つまり多くの人が死ぬことが、問題解決の根本的な条件になるわけです。
でも、辛く苦しい死なんて、誰だって嫌です。だからこそ納得して死ねる、できれば幸せな気持ちで死ぬにはどうしたらいいかと考えたんです。
また、食べて生きるということは、その生き物を殺して命を奪うことです。逆に言えば、食われた者は死ぬことで相手を生かします。死の裏には生があるんですね。つまり火葬場で焼かれて灰になるんじゃなくて、自然の中で死ねば、他の動物に食べられたり土に還ったりして、死は終わりではなく新たな命に生まれ変われるんです。このように、自分は死んでも他に命を引き継いでもらえると思えば、そんなに辛くないですよね。だから私の最期は、山の中で野垂れ死ぬのが夢なんですけどね。
そしてもう一つ。誰でも必ず死ぬし、死ねば何も出来なくなります。だから死に向き合うことで、生きている今を大切にしようという自覚が芽生えれば、日々の暮らしがより充実するし、人生をより輝かせることになるとは思いませんか。これが糞土思想の到達点とも言える、「しあわせな死」なんです。
そして糞土思想は実践哲学なわけですから、死のことをあれこれ言うなら、やっぱり死んで見せないといけないわけです(笑)。さあ、オレの死に様はどうだ!と。最近では、それが楽しみになってきてるんです。
多多納 その死は、みんなで共有する経験になるだろうなと思いますし、伊沢さんがどういう最期の姿を見せてくださるか、楽しみです。
命と循環をベースに考える
多多納 今の私たちの暮らしは、簡単、便利なものに流されてしまっています。そうした自分たちを、そうじゃなかった自分たちに戻すならば、それを上回る快感があったら戻れる可能性があると思っています。確かに便利だけど、こっちのほうが気持ちいいと思ったら、みんな悩むわけです。そして悩んだら、もうこっちのものです。そこからどのようにもう一歩進んでもらうか。私はそんなきっかけ作りができたらと思っています。糞土思想をお伝えした10人のうち1人でも変われば、ちょっとずつ社会が変わっていくのではないでしょうか。私もそう思いながら料理教室で糞土思想の話をしているうちに、5、6人のメンバーが糞土思想に共感していつも一緒に来てくれるようになりました。
伊沢 多多納さんには、一緒に行動を共にするメンバーがいて羨ましいです。私には残念ながら、そうした仲間がいないんですよ。
多多納 最後にどうありたいか、という姿が共有できているメンバーだからこそ、一緒にいられますよね。
みんなで、生活ひとつひとつをもう一度見直せるような機会、仕掛けを、これからやっていきたいなと。自分自身がこうありたいというのを、一緒にやってみたい人、と募ると、意外と遠くからいらしてくださる方がいたり、人が集まります。そういう方々と価値観の共有をしながら、野糞体験をしてみるでもいいし、一年経ったら、ここは君たちの野糞が入った畑だよ、そこでスイカを作ろうか、などとやっていけたら楽しいなぁと。
そんなふうに考えられるきっかけになったのは、もうかなり前ですが、イギリス留学をした経験からなんです。当時の日本はバブルでモノが溢れ、みんなどんどん消費に走っていました。なんでもどんどん作って、少し使ったらまだ使えるのに次から次へと交換して。みんながそんな意識でした。そんな時期に、イギリスに一年間の留学に行ったんです。
そうしたら、ホームステイをした先の家では日本のバブルの雰囲気とは真逆で、わずかなものを大切に食べていたり、休日の朝食にコーンフレークとジュースを食べるのを、テーブルを小さな庭にズルズル出して、サングラスをして太陽の光を浴びながら食べたり。午後になると、サングラスをしたまま、そこで本を読んで過ごしたり。日常って、こんなふうに工夫次第で幸せに送ることができるんだ、という大きな気づきがあったんです。そして日本の、作っては取り替えて捨てて、という当時のあり方よりも、イギリスでのあり方のほうが居心地が良く感じられたんです。
日本は今でも建物をどんどん建てるから、街の風景がどんどん変わります。でもイギリスでは新しい建物をあまり建てず、古い建物を大事に使っている。だから何十年経っても街並みがあまり変わりません。それをむしろ誇りに思っているイギリス人の感覚。大事に生きるって良いなあと、私は思うんです。そこでの気づきが、今に繋がっていますね。イギリスでは心の豊かさが時間の流れと共にゆっくり流れていて、私もこういう生きた方をしたい、こうなりたいと思いました。お金に変えられない豊かな生き方です。
その後日本に帰ってから、玄米食を続けていた私は、こういう自然なものをみんなで楽しく美味しく食べられる場所はないのかな、と探し続けていました。そんななかで東條百合子先生の講演会に行って、そこで出てきたお食事を食べて感動し、東條先生のもとで勉強をさせていただくことになったんです。そこで学んだベースのもとに、私なりのアレンジをしたのが今の形です。
「食とは命を感じ、自然の大きな恵みに生かされてしか生きられないことを思い、感謝することから始まります。テクニックや、食べて良い悪いではありません。全てに通じる生き方、考え方、心の持ち方が、食とイコールです。玄米自然食のパワーはそこから発揮されます」
これが、私が信条とする料理への想いです。命と循環をベースにしていくと、食べるということがイコール、生き方、考え方に繋がっていきます。ベースは東條先生に教えてもらったものですが、それを私なりにアレンジしました。「私の物真似はやめなさい」と先生はよくおっしゃっていました。「あなたの言葉で、あなたが感じたものを、あなたなりの方法で、生きていきなさい」と言ってくださったんです。それで、みんなが集まって楽しく食べられる場所を作ろうと、それも、どんな職種の人にも美味しいねと言ってもらえるような食事を作ろうと思って、お店を始めました。
こういうものは受け入れられるのかな、と心配でしたが、結構楽しく皆さんが来てくださって、美味しいねって言ってくださったんです。そのうち、教えてくださいと言われるようになって、自分の料理の作り方も教室として教えるようになっていきました。ただ、食べた後に、それを出すということの責任が欠けていることを、YouTubeの「街録チャンネル」を見て、伊沢さんの言葉にハッとさせられたんですよね。生きていた命を食べることと、出して返すということは繋がっているんだと改めて感じました。毎日の生活でそれをどう生かしていったら良いのか、これからも追求していきたい課題です。
みんなが循環の中で幸せになることを目指して
多多納 料理は、教えていくうちにだんだん調理がシンプルでも美味しくなることがわかってきました。最終的には、塩をうまいあんばいで調節するだけで素材が生きて、美味しい料理ができるんです。それだと料理教室にならなくなるんじゃないですか!?、というくらい。実は以前から料理の世界では、いかに難しく、いかに簡単に作れないように教えるのがプロだと言われてきたんです。でもそれだったら、私はプロにならなくてもいいと思うようになりました。みんなが当たり前のことに気づいて、シンプルに、最高に美味しいものが作れて、笑顔でそれを食べられたら、それでいいなと思ったんです。
それから料理のすごいところは、それを持って帰って家で作ったら、家の人がみんな食べて喜んでくれることです。私の知らないところで、笑顔が増殖しているんです。そうやって、「家族が喜んでくれました」と連絡をいただくと、私の知らない誰かが喜んでいると感じ、本当に大きな喜びが生まれるんです。
伊沢 まさに愛ですね。素晴らしいです。
多多納 食事を作るときは、いかに自分を無にするか、ということだと思うんです。料理をすると、つい自分を出したくなるんです。でも本来は、雨や太陽の働きがあって、それを作った人、届けた人がいて、そこに私がいる必要はないわけです。料理に私という要素を入れると、実は味がおかしくなるんです。私を入れずに無心で食材と向き合えば、そこにもう少し塩を入れれば良いのかなど、感覚でわかるんですよ。素材がすでに味わいを持っているのを、最後に私が少しお助けした、という感じ。そこで美味しいものを作ろうと思うと、かえって味がいやらしくなって、おかしくなるんです。だから私が料理を作るときは、いかに一瞬にして無になるかを一番に考えます。じゃないと、美味しいものを作れないんです。
伊沢 やっぱり無の思想が出てくるんですよね。私も写真が撮れなくなった時期があって、そのときに、頭の中が空っぽになればいいんだと気付きました。そうすると、向こうから写真を撮ってくれって、キノコが言っているのが感じられるんです。その感じたままをカメラで写し撮れば、それだけでいい写真が出来ちゃうんですよ。
多多納 メニューを考えるときも、だいたい食材を目にしてから考えるか、来てくださるお客様の笑顔から逆算して何がいいか考えて作ります。だからいつも、自分が何を作るか分かって作っているというより、その雰囲気に合わせて考えているんです。食材って、みんな味が違うんですよ。カボチャでも甘いのとそうでないものがあって、それによって使う調味料も変わってきますし。だから同じものは二度とできないんですよね。
伊沢 そういう意味では、お尻を拭く葉っぱも同じですよね。実は葉っぱも全部、一枚一枚違うんです。それに応じて、拭き方をその都度変えるわけです。成長段階、陽の当たり具合、天気の影響によっても違いますし、そもそも葉っぱだって生き物なんだから、一枚ごとにそれぞれ個性もあるんですよ。いかにそれを引き出すかは、自分の感覚ですよね。図鑑なんかで学ぶような知識は、ほとんど役に立ちません。
私はウンコの世界しかやってこなかったので、食に関する知識がほとんどないんです。でも理想は循環ですから、多多納さんみたいな人が糞土思想を完成させるための救世主だと思っています。これから多多納さんに手伝ってもらうことで、いや、手伝ってもらうというよりも、糞土思想を作り上げるパートナーになってもらえませんか!? 本当に、出すだけじゃ循環しないんですよね。
多多納 人はみんな、自分が生きるうえで、何がどこまで関係するのかを自分ごととして考えられるようになったら、排泄についても理解が深まると思うんです。排泄だけだと後回しにされがちですが、生きるうえで関係する全部を繋げていくことで、初めて理解が深まるのではないかと思います。
伊沢 だからこれから糞土思想を完成させるためには、私の力は3で、多多納さんは7なんです。これからよろしくお願いします(笑)
それに多多納さんは、「俺が俺が」じゃないんですよね。むしろ料理の素材を引き立たせるために、相手の素材の立場で考えているし、みんなが循環の中で幸せになることを目指している。それこそまさに、糞土思想が目指している方向性なんです。こんなすごい人、なかなかいませんよ。
多多納 人は、誰かの考え方で簡単に変わるということもあまりないんじゃないかなと思っています。その人が生きる何かを自分の中で見出したときに、初めて人は繋がっていくし、変わっていく。そのきっかけを、いろんな形で作れたらいいかなと思っています。最終的には、その方たち自身が作り上げる世界になっていくと信じています。
伊沢 食べて、出して、死ぬ。その三つを繋げるのが、命の循環だと思っています。生き物は必ず死ぬ。でも死んでもちゃんと循環できる、というのがやっと見えてきました。
最後は、いかに死んで自然に還るか、それを今、意識しています。最近は宗教というものにも懐疑的になってきました。宗教は信じることが重要ですね。でも信じるだけで本当にいいのか。宗教はそれでいいかもしれないけど、実践がない。それに時代が変われば求められるものも違ってきます。だから糞土思想も、時代が変われば変わっていいと思うし、むしろそうあってほしいと考えています。
<完>
(取材・執筆・撮影:小松由佳)