宮崎学(自然界の報道写真家)×伊沢正名(糞土師)
前回に引き続き、宮崎学さんとの対談を続けました。
微妙な自然の摂理を読み解く面白さ
宮崎 今日、一緒に山で見たクマの生皮(駆除されたクマの生皮をもらい、山の木にくくりつけておいた)だけど、あれだけハエが来ていた。秋のこの時期だけ、大量にミヤマクロバエが湧いて卵を産むんだ。このハエは大陸から、冬の季節風に乗って行ったり来たりしているという説もある。それがインフルエンザとかコロナとか、ウィルスまで運んでいるかもしれない。自然って、本当に微妙なバランスで成り立っているんだよな。
それから動物にも加齢臭があるんだ、人間だけじゃない。例えばシカも子育てが終わったら体質が変わって、加齢臭のサインが出る。そういうのはどんどんクマに襲われて、昔は狼もいて、次々に食べられてきた。こういう摂理が自然界にはあるんだ。だから山に設置した俺のカメラに写るのは、みんな若いか壮齢な個体だ。爺さん婆さんのシカなんて写ってもすぐにいなくなる。年寄りはみんな喰われている。だって、毎年子供が産まれて世代交代の新陳代謝がある。ピカピカの一年生が毎年出てくる。そうすると65歳定年はもう、さらっていってもらわなきゃいけない世界なんだよ。そうしないと自然界全てが活性化しないんだ。
今日見たクマ棚にしても、クマが木の枝を折ることで、ホルモンが木の中で変わって、来年もまた実をつけようとするんだ。ただクマは、枝を折っていい木とそうじゃない木をちゃんと分かっている。クロモジのように、手繰り寄せても手を離すと元に戻る木は絶対折らないしね。そのための植物戦略、そのためのクマという存在。そういう環(たまき)と境(さかい)。こういう摂理を見ていく面白さがあるんだよなあ。人間は「桜切るバカ、梅切らぬバカ」といって、こういうことから学んで果樹栽培で枝を適度に切る「剪定」ということをしている。
伊沢 いや〜、宮崎さんは本当に深い。学者もかなわないですよ。葉っぱだって、ウンコをしてお尻を拭くという観点から見ると、植物の見え方が全然ちがう。植物学ではド素人の私が植物の専門家に解説できちゃうんだよね。
宮崎 植物の学者は昆虫に興味がないし、昆虫の学者は植物に興味がない。本当はみんな繋がっているのに、分野をまたぐことができないんだ。この植物がいっぱい増えてきたけど、これはなんのためだろうとそっちばっかり見ているわけだ。
北海道に撮影に行くと、毎年6月に、道端のアキタブキをとって身欠ニシンと一緒に醤油と砂糖で煮て食うんだ。これがまた、美味いんだ。アキタブキには赤い茎と緑の茎があって、赤い茎はうまくない。緑の茎のほうが柔らかくて美味しい。地元の人もそう言うんだよ。ところが今年行ってみたら、緑の茎が減って赤い茎がどんどん増えている。恐らく、融雪剤として塩化カルシウムが道路に撒かれ続けた影響で、赤い茎のアキタブキが増えてきたんだと思う。シカも、赤い茎のフキを好んで食っている。つまり、塩化カルシウムが染み込んだ赤いフキを食べることで、夏の間も塩化カルシウムを摂っているんだと思う。
だから10年くらいその辺りを見て、いや〜緑の茎が少なくなったな〜、と感じるわけ。車社会、融雪剤、客土によるアキタブキの分布拡大に加えて茎の色の変化、そういう観察の視点が大切なんだよ。ひとつのところを10年くらい見続けること。まあ今は、2年やれば大体見当がつくけどね。
伊沢 私は今、探検家の関野吉晴さんの「うんこと死体の復権」という映画の撮影で、野糞の掘り返し調査をやっています。それが、2007年のウンコ掘り返し調査のデータと今を比べると、倍くらい分解のスピードが早いんですよ。糞土師になる前、私は写真家として全国を回っていたから、ときどきしかプープランドの林でウンコしてなかったんです。ところが糞土師になってからはずっとそこでウンコしている。そうすると、地力が上がるというか、15、6年で土地の分解力がはるかに上がっちゃったんです。前は一ヶ月くらいウンコの分解にかかっていたのが、今は二週間で完全に終わる。野糞をしょっちゅうしたことで、土壌生物のウンコ分解力が格段に上がったんですね。
それから関野さんは、添加物をたくさん摂った人のウンコとそうじゃないウンコとでは分解速度が全然違うのではと、両方埋めて調査したんです。そうしたら、どちらも完全に二週間くらいで分解が終わっていた。つまり分解にかかる時間は変わらなかったんです。
宮崎 常識が通用しないんだよな。土壌にしても何にしても、自然界は時間とともに動いている。鉛筆くらいのこの木だって、70年すると電柱以上のあんなに大きくなるんだ。その時間軸を読まなきゃいけない。自然はダイナミックに日々動いていることを、ね。
伊沢 確かに半世紀あれば森ができますよね。昔、北海道で森を皆伐して売りに出す原野商法というのがあって、その後売れ残った土地を買った人がいました。あるときそこに招いてもらったんです。そうしたら、森林伐採から50年で、こんな大きいミズナラの密林になっていたんです。
宮崎 それだけ森が戻ってきているんだ。日本は今、フィンランドに次いで世界第2位の森林大国だからな。それも、森林面積はそんなに減らなくても樹木が巨大になっているから森林密度は2倍以上になっているハズ…。
伊沢 最近見たオランダの映画は、一度干拓したけど利用しない土地を20年放っておいたら、完全に自然が復活したという内容でした。人間が手を触れなければ、20、30年で自然は戻るんですよね。
宮崎 それが俺の言うところの「自然撹乱」だ。干拓したのも撹乱、自然が戻ってくるのも撹乱。長い時間軸で見たシナントロープだよね。
動物は、「気」を読む
宮崎 俺はもし東京にいたら、注文に応じて売れる写真ばっかり撮っていたと思う。でも田舎にいるから、注文なんてそうそう来ない。だから注文以外の仕事、つまり自分の一品料理をどんどん作っていこうと、人がやれないことをやってきた。15年かけてワシやタカの写真集を作ったり、10年かけてフクロウの写真集を作ったり。それが結果的に自分の写真哲学になって、思想的な背景を培うことができた。俺の写真の原点はそこだし、今でもそれをやっている。
伊沢 自分が見たい世界を見るために、ああいう特殊な道具も自分で作ったんですもんね。
宮崎 必要なものは全部自分で作らなきゃ。機材を買うのは簡単だけど、買ってきたものを使うと、例えば二台同じものがあれば、二人ライバルがいることになる。同じ機材を日本中に一万台売れば、一万人ライバルがいるということだ。
望遠レンズというと、みんな150万円くらいの、400ミリのf2.8のレンズを買って使っている。だったら、500ミリレンズで、例えばペットボトルを画面いっぱいに写すとするじゃない。そうすると被写体まで10メートル。それを50ミリレンズだったら、1メートルまで近づけば同じような写真が撮れる。だから、その9メートルを詰めるために、どれだけ自分が工夫して、技術を自分のものにするか。そこなんだ。10メートルで撮るのは簡単、1メートルで撮るのは難しい。この9メートルを突き詰めたのが俺の原点だ。それでロボットカメラも開発した。
伊沢 人間としては近づけないけど、ワシでもタカでもクマでも、人間じゃなければどんどん寄ってくるよ、という考え方ですね。
宮崎 そうそう。動物は相手の精神的なオーラ、「気」を読むんだ。動物はみんな瞬間的にわかるよ。相手が何を考えているとか、あいつはいけすかない奴だなとか。だから今日も、昨日泊まった宿の犬「ガンちゃん」に、子犬の頃から一生懸命エサやって手なづけてきたわけ。いつも吠えられたくないからね。だからその被写体との心理状態、10メートルと1メートルの違いの9メートルを、俺はいつも考えている。でも今は、ロボットカメラを使えば、もう距離は1メートル以下だよ。ワイドレンズ、魚眼レンズなんかも使ってね。楽しいよ。人の撮れない仕事を、自分で考え抜いた技術力でカバーする。あの面白さはないよね。そのために機材はどんどん作っちゃうね。
なかにはパパッとカメラのシャッターを切って、短時間で撮って帰ってきちゃう人もいる。でも俺はこういう絵コンテを撮りたいって最初から決めているから、一週間も、一カ月も山の中にカメラを置かなきゃいけない。そうすると雨は降る、直射日光は当たる。それをクリアするところから始まる。それが解決したら、一週間でも一カ月でもカメラを置ける。自分が思っていた通りの写真が必ず撮れるんだ。だから時間との勝負だ。普通の人は短時間でパッと勝負する。でも俺は、長時間で勝負するんだ。ハッハッハ。
伊沢 じつは私も宮崎さんみたいな待ち時間じゃないけど、長時間で勝負でした。薄暗い日陰の自然光で超接写、レンズは目一杯絞るから、シャッタースピードは常に何秒、何十秒です。何分の1秒なんて、ほとんど経験ないですよ。その分ブレ防止では、三脚どころか四脚撮影なんていう技術開発もしましたね。
宮崎 日本全国を回って「カラスのお宅拝見」の企画の撮影をしたことがある。カラスの巣を訪ねて日本を北上していくわけだ。今日みたいなこんないい天気の日には、木に登って撮ると影がいっぱいできちゃう。それで布団の白いシーツを持って行って、頭からすっぽりかぶって撮る。そうすると下から見ると目立つわけ。さすがにお巡りさんは来なかったけど、木から降りてきたら、お前何やってるんだ、と言われたこともあったな(笑)。
あの頃は、撮影のとき布団のシーツを持ち歩いたね。そういう工夫も技術のうちだ。最低限の技術はやっぱり自分で考えていかないと。人が教えてくれるわけじゃない。
伊沢 私も写真家時代、シーツじゃないけど、チラチラした木漏れ日が最大の敵なので、白い折り畳み傘が七つ道具の一つでした。そして、メインで使っていたのは35ミリ判なら50ミリマクロと24ミリ広角マクロレンズ、その2本だけです。私の写真の特徴の一つは、キノコでも何でもしっかりアップで写し、背景の生息環境も捉えるために広角でf22まで目一杯絞り込む。微妙な画質よりも、いかにしっかり写し込むかなんです。その広角レンズは二流レンズメーカーのもので、新品を買ったんだけど、たったの14800円ですよ。あとは技術でカバーして、それでいくらでも仕事できました。だからアマチュアカメラマンの前を通るのは恥ずかしかったですね。あっちのほうが機材がずっといいんですもん。
宮崎 俺も機材は安いのばっかりよ。大体、アマチュアが下取りに出したカメラを買うんだよ。俺にも何十年とこれを使って、この機種が一番いい、というのがある。それだけを10台くらい買う。レンズも中古で4500円とかね。きちんとf8くらいに絞りさえすれば、古いレンズだってきちっとシャープに撮れるんだよ。
ストロボだって全部俺の手作り。これが最高だよ、デジタル化にしているし。これで感度を上げてバッと撮っちゃうんだ。ストロボの乾電池は一本、1.5ボルト。じゃあ単一を並列にして3本つければ一カ月持つじゃないか、とか計算してね。電池を百均タッパーに入れて電池ケースにして、そこからコードを出してストロボに繋ぐとかね。そうやって絶えず研究するんだ。現場で考え続ければ、わかるんだよ。
伊沢 何を撮りたいかという終着点が見えているからこそ、できるんですよね。宮崎さんが開発したロボットカメラは、動物との距離を10メートルから1メートルに近づけるために、つまり人の気配を消すためだったんですね。
宮崎 そうそう。人がいたんじゃ「気」が出るんだもん。だから山にロボットカメラを置いておく。そうすれば動物も、そこに「気」がないことがわかって自由に動いてくれる。写真も撮れる。
空き缶とかペットボトルがよく道に落ちてるじゃない。動物は最初は警戒するけど、すぐ慣れるんだ。空き缶は別に動かないし、「気」がないからね。ところが「気」を感じ取ると、あいつらはとたんに警戒するわけよ。だから「一寸の虫にも五分の魂」じゃないけど、動物ってそれだけわかってるんだよ。ミミズだって、土の上に出てきて、誰かに見られると「あっ!見つかった」とフッと止まるじゃんか。本当に「気」というのはあるね、ある。それに植物にも、ある。
伊沢 私もそれを感じてきました。植物や菌類には「気」というか、「意識」なんてないと思っていたら、いや違う。あるんですよ。それを感じなきゃいけないんですよね。私も写真家になろうとした初めの頃は、芸術的に撮ろうと思っていたんです。そして芸術というのは、自分自身の内側から湧き出るアイディアだと思っていたんです。アイディアがあるときには、それなりに写真が撮れるんです。でもそれが枯れると、写真が撮れなくなっちゃった。どうしたらいいんだろうと思って気がついたのは、それまではこういう写真を撮りたいんだと、それに合った被写体を必死に見つけていたけど、そうじゃなくて、自分が空っぽになればいいんだと。向こうから撮ってくれと発信しているものを感じとればいいんだと悟ったんです。私が一番尊敬しているアーティストは山下清です。彼は自分の頭の中を完全に空っぽにできるんです。自我があると、はじき返しちゃうんだけど、空っぽだとスッと入ってくる。「長岡の花火」というすごい作品があるけど、ああいう状況をパッと見て、一瞬で頭に焼き付けられるんです。私も出来るだけ空っぽになることを心がけました。そうしたらまた写真を撮れるようになってきたんです。つまり、向こうから「撮ってくれ」というのをビシビシ感じられればいいんですよ。
宮崎 本当にそうだな。俺も向こうから来たものをそのまま撮っているよ。これはぴたりと意見が一致した。
現代人は、どう自然と向き合っていくべきか
宮崎 我々はもっと自然の中に飛び込むべきでしょう。そこでハチに刺されるのも良し、マムシに出会うのも良し。
伊沢 まずやってみることですよね。糞土思想の入り口も、まず野糞してみることです。それにしても宮崎さんの話を聞いていると、いかに人間が自然を知らないか考えさせられます。なぜ知らないかというと、自然に触れていないから。自然を見ていない。それでいて自然を語る人間の傲慢さを感じます。
宮崎 本当に人間は傲慢だよね。地球は大家さん。我々は地球に住まわせてもらっている店子(たなこ)よ。だからカモシカもクマも人間も、みんな同じ。それなのに人間は上から目線で、自分が特別だと思っている。それは大間違いだね。店子として平等なんだ。そうすると地球は大家さんだから、これだけ人間がのさばってたまらんぞ、ということで排除しようとするわけ。だから戦争も起きる。コロナも起きるわけよ。
今、世界遺産に登録されて喜んでいる自治体もあるけど、世界遺産に指定されれば立ち入り禁止になって、マタギさえも入れなくなる。こういうのは日本的な文化じゃないんだな。「山は半分のしてちょうどいい」というマタギの言葉があるように、人間だって怪我をして若干血を流すと、増血作用が起きてまた元気になる。それと同じことが自然界でも必要だ。だから人間の視点から、ただ動物を保護するというのは間違ってるよ。
伊沢 大体ね、「守る」っていう価値観がもう違うんです。だってそれは上から目線で、偉そうじゃないですか。人間が守ってやるんだ、という傲慢です。
宮崎 そうそう。人間が守れるはずがないんだもん。地球の、平等な立場にいる同じ店子なのに、それが一人だけ他を守ってやろうなんていう考え方は、もう捨てたほうがいい。
伊沢 私も現代人のそうした傲慢な考え方に気がついたんです。でもそれが「人間性」だと思うんです。だから私は人間性を捨てることにしたんです。自分はもう、人間じゃなくていいよ、と(笑)。人間くらいおかしな生き物はいないですよね。私の理想は現代文明人じゃなくて、先住民なんです。
宮崎 自然をちゃんと見ていたという意味で、一番新しいのはアイヌの思想までじゃないかな。縄文時代なんて争いも少なくて、魚は獲れるわ貝は獲れるわ、クルミや栗を拾ってさ。1日に2時間ばかり栗拾いしたり魚を獲ったりしたら生きていけたんだもん。あんな幸せな暮らしはなかったと思うよ。
伊沢 まったくその通りですね。実はつい先日、縄文文化を色濃く引き継いでいると言われるアイヌの、関根摩耶さんと対談したばかりなんですよ。そこで、人間はこうあるべきというのがハッキリ見えてきたんですが、さらに今日宮崎さんに野生動物からの視点を聞いて、これから我々が目指すべき生き方がより明確になりました。素晴らしいお話をタップリ聞かせていただき、ありがとうございました。
<了>
(取材・執筆・撮影:小松由佳)