関根摩耶(アイヌ文化発信者)×伊沢正名(糞土師)
北海道の先住民であるアイヌ民族。「侵略された」「差別されてきた」というイメージを持つ人が多いかもしれませんが、唯一無二の奥深い文化を持ち、自然と共に生きてきた民族です。
そのアイヌの世界をもっと知ってほしいと活動するのが、YouTubeやラジオでアイヌ文化の魅力を発信する関根摩耶さん。アイヌの自然の捉え方だけでなく、先人から受け継がれた知恵、死生観まで、伊沢さんのアイヌのイメージを根本からひっくり返してしまう、衝撃的な時間になりました。
アイヌには「自然」という言葉がない
伊沢 人と自然が共生して、安定した循環する社会を目指すのが糞土思想です。つまり先住民的な暮らしが理想で、この日本の歴史を辿れば、狩猟採集をしていた縄文人に行き着きます。
その縄文文化を色濃く受け継いでいるのがアイヌですよね。だから以前から、是非ともアイヌの人に直接いろいろなことを聞きたいと思っていました。
実は4年前の2018年秋に、北海道の平取町二風谷(びらとりちょうにぶたに)のアイヌの長老のおばあさん、アシリレラさんと会って、お話ができることになっていたんです。ところがその直前に、北海道胆振東部地震が起きて二風谷も大変なことになり、せっかくのチャンスがダメになってしまいました。
だから今回、こうしてアイヌの関根摩耶さんと対談できるのは、長年の夢が叶ってすごく嬉しいんです。今日はよろしくお願いします。
関根 ありがとうございます。伊沢さんとの縁は、鳥取大学で伊沢さんが糞土思想の講義をした次の週に、私がアイヌ民族についての講義をしていたこと。不思議な繋がりですよね。
伊沢 そうですね。鳥取大学の地域学部というのは面白いところで、「西洋科学を疑ってみろ」ということで、私みたいなウンコと野糞の糞土師に講義を依頼してくるんですから。そこで次の週に関根さんの講義があることを知り、担当の教授にお願いして関根さんを紹介してもらったんですよね。
関根 ええ。そもそも私は、先ほど伊沢さんがおっしゃっていた、二風谷というアイヌにルーツを持つ人たちが暮らす集落出身です。アイヌ文化の中で育ってきたことから、その面白さを伝えたいと、高校3年生の頃からラジオやYouTubeでアイヌ文化を発信する活動を続けてきました。
といっても、アイヌ文化の独自性や豊かさに気づいたのは、高校や大学進学でアイヌの集落から離れてから。札幌や東京に出てはじめて、相対的にアイヌの暮らしを見ることで、「私たちの当たり前って、こんなに当たり前じゃなかったのか!」と驚きました。
顕著なのは、自然観。たとえばアイヌには、私たちが想像するいわゆる「ゴミ」を表す言葉が存在しません。すべてのものは循環する前提なので、ゴミという概念がそもそもないんですよね。
たとえば二風谷では、子どもたちに立ちションの練習をさせていたり、それが肥料になっていると笑っていたりする環境があります。全てを自然に還すという前提の中で、不要なものを出さないという習慣が今も根付いているのだと思います。
さらに、アイヌには「自然」を直訳できる言葉すらないんですよ。
伊沢 え、そうなんですか? それは驚きです。では、アイヌにとって、自然とは何なんですか?
関根 自然の中に人間が存在していると考えているからこそ、あえて「自然」という言葉を独立させていないのだと思います。「アイヌは自然と共生してきた民族」なんてよく語られますけど、実は「共生」という言葉も持っていないですしね。
もしかしたら自然に一番近いのは、「カムイ」という言葉かもしれません。神様と訳されることが多いですが、一般的に思い浮かべる神様の考え方とは少し違います。アイヌにとって意味のあるもの全ての中にカムイがいて、魂を持っていると考えられているんです。
だから人間も、人間以外の存在も、全てが対等。対等だからこそ、過剰に尊重するわけではありません。それらが人間に与えてくれること、してくれることに対して、感謝するんです。たとえば、川は貴重な水を与えてくれるので大事にする一方で、村の子どもが川で溺れたら、「おい川、何してんだ!」と怒る。
伊沢 なるほど、一方的に敬うというわけではないんですね。
関根 そうなんです。だから自分たちが自然から食べ物をもらう時も、必要な分はもらうけれど、必要以上には奪わない。たとえば山にキノコ狩りに行くときに、ビニール袋を持っていったらすごく怒られます。ビニール袋にキノコを入れてしまっては、キノコの胞子を森に返せない。だから小さな穴が空いている網みたいなものに、キノコを入れて運びます。
魚をとる時も小魚は逃すし、山菜を採る時も全部は採りつくさない。自然から与えられているからこそ、私たちも奪いすぎないという感覚が染み付いていると感じます。
ただアイヌの考え方にも、自分勝手なところはあって。たとえば私の母は、虫が嫌いなんです。だから、自分のテリトリーに虫が出てきたら殺すんですが、母はその理由を「その虫は自分に送り返されるためにここに現れたんだから、殺していいんだ」と説明します。まあ、自己中心的な言い分ではありますよね(笑)。
ただ大事なのは、自分の行動に対して、その行動を取るに至った理由を説明できるということ。自然に存在するものの役割を自分なりに解釈することを通して、自然と関わりを持とうとしているのだと思います。
伊沢 私にもそれと似たようなところがあります。たとえば、血を吸いに来たカやアブは、私だって殺します。それは私を襲ってきた敵だから、生き物同士の生存競争としてね。だけど自分だけ有利に闘うのはずるいと思うので、殺虫剤なんかは使わずに素手で叩き潰します。
実は先日、いきなりハチに刺されちゃってね。これは素手では危ないから、厚紙を使ってやっつけたけど。でも自分に害が及ばなければ、たとえハチが周りを飛び回っていても、刺激しないように注意して放っておきます。それは同じ生き物として、対等な関係でいたいからなんです。
自然の生き物を自分本位に支配するのではなく、自分がやっていい範囲をきちんと見定めて行動する。その心得が大切なのではないかと思います。
関根 自然と共生するというのは、他の生き物とベッタリくっついて生きることとも違うと考えています。たとえばアイヌの人たちは、飼い犬を家の中にはあげません。人間と同じようには扱わず、ある程度の距離をとる。
最近では、クマが人里に降りてくる、なんてニュースもよく聞きますよね。私の祖母はその理由を、人間が動物の世界との境界線をきちんと引かなくなったからではないか、と話していました。たとえば人里に近い山で人間が野糞をしていれば、ここからは人間の世界だぞ、と我々のテリトリーを示せる。ですが人間がその線引きをしなくなったから、クマが人間のテリトリーを識別できずに、人里に降りてきてしまうのではないかと。
ただ、川などの大切な場所では野糞やオシッコをしてはいけないというルールもあるのですけれどね。
伊沢 そうか、野糞もテリトリー宣言になるんだ!
でも数年前のことだけど、何十年も前から野糞をし続けているプープランドの林で野糞をしている最中に、数メートル脇の斜面をイノシシが駆け上がっていったんですよ。私一人だけのウンコでは、まだテリトリーとしては弱いのかな?
そういえば以前、栃木県日光の山の中で、うっかり猿のテリトリーに入り込んで野糞をしていたら、大勢の猿が木の上から石を投げてきて、大慌てで逃げたこともありました。やっぱり自然の中ではテリトリーをしっかり意識して、お互いの距離をとることも大切なんですね。
アイヌは「可哀想な民族」か?
関根 多くの人が持っているアイヌの印象って、「本州の和人に一方的に侵略された可哀想な民族」というものだと思うんです。アイヌについて私に聞く時に、小学生ですら「こんなこと聞いていいのかわからないんですけど……」と、すごく申し訳なさそうに聞いてくるくらい。
伊沢 そうですね。私も今日関根さんにお会いするまでは、正直に言って「アイヌは侵略された」「差別されてきた」という印象が強かったです。
関根 ですが、少なくとも初期の侵略は、世間で言われているような悲惨な侵略だったのか、私は懐疑的です。
というのもアイヌが住んでいたのは、暮らしの知恵がないと生きられない厳しい土地です。寒いなかで狩りや採集をして生き延びるために、和人はアイヌの人たちを頼って生きていたとされています。
たとえば動物を狩る時、アイヌは毒を使うんですね。矢の先にトリカブトの毒を塗って、動物を殺す。ですが毒を一つ取っても、たくさんの知恵が必要になります。「あの山のトリカブトの毒が強いから、何山超えてでも取りに行こう」とか。
さらに、寒い土地で暮らす術として、落ち葉で床暖房を作る技術や、芋を発酵させて10年以上保存する方法なんかも知っている。和人はそういった生活の知恵に、頼らざるを得なかったはずです。
そしてアイヌは、土地の所有権という意識が強くないと私は思います。だから和人が侵略しに来ても、どこかから知らない人が来たというだけのことなんです。
そういう背景もあり、アイヌ民族はすごくお人好しで、知らない人を受け入れる土壌がある。今の時代でも、知らない人が家で食卓を囲んでいるなんてことも日常茶飯事です(笑)。
こういったアイヌ民族の性質もあって、和人によるアイヌの侵略は、一方的に進んでいっただけではないと感じています。もちろん地域差によるものも大きいと思いますが、そこには必ず各々の優しさがあったはず。
確かに大きな戦争は2度起きました。ですが一般に言われている侵略のイメージとは大きく異なっていると感じるのです。
伊沢 なるほど。確かに漁業権を盾に禁止されている鮭漁を、アイヌの伝統文化を守るために認めさせる闘いなどもありますが、侵略や差別という側面は、アイヌ民族を語る時のほんの一部でしかないのですね。
私は糞土師になる前は、写真家として取材活動をするために全国を歩いてきましたが、実は北海道が一番居心地が良かったんです。それは、よそ者的な排除感がなく、すんなり受け入れられたからなんです。その理由として、北海道には全国各地から人が移り住んできて、古いしきたりに捕らわれたりする地元意識があまりないからだろうと、ずっと思っていました。
でも今、関根さんからアイヌの話を聞いて、北海道の人たちって実はアイヌに同化されて、知らない人にも優しく接するようになったんじゃないかと思うようになりました。
関根 ただ、明治時代に日本に戸籍法ができて、それが北海道にも入ってきた時は、アイヌからも大きな反発がありました。土地や苗字が割り当てられて、農業をするよう言われたことで、アイヌの生活が大きく変わってしまったからです。
それまでのアイヌは、労働社会ではありませんでした。狩りや採集で生活が成り立っていたので、わざわざ農業をする必要がなかったんです。農業をしていなくても、各家庭に2年分の蓄えがあったと言われているほど、豊かな生活をしていたと言われています。労働に縛られないからこそ、アートも発展してきました。
いってしまえばアイヌ民族は、生粋の自由人なのかもしれません。今も地元では、待ち合わせを日付単位で変えてしまうことを指す、私たちの中で「アイヌタイム」と呼んでいる言葉もあるくらいですから(笑)。
全てが逆転する死後の世界
関根 ちなみに、アイヌの死生観もすごく面白いですよ。
伊沢 それはすごく気になります。死を前向きなものと捉える「しあわせな死」をどうまとめ上げたら良いのかが、ここ数年の大きな関心ごとなんです。ここまで関根さんからアイヌのことを聞いてきて、きっと予想もしなかった、とんでもない死生観が出てくるんじゃないかとワクワクしてきました。
関根 そもそもアイヌの人にとって、世界はたくさんあります。私たち人間の世界や、亡くなった人たちが行く世界、カムイの世界など。アイヌにとっては、この人間の世界が一番素敵な場所。カムイは、この美しい人間の世界に遊びに来るために、いろいろなものに姿を宿して降りてきていると考えられています。
また面白いのが、亡くなった人が行く世界。その世界は、人間の世界と全てが真逆なんです。こちらが夜ならあちらは昼だし、こちらが夏ならあちらは冬。感情さえ逆になると考える人もいて、生きている時は大好きだった人のことを、亡くなった後は嫌いになっていると考えます。だから、誰かが亡くなった後にメソメソし続けていたら「気持ち悪がられるからやめなさい」と言われてしまう(笑)。
また、死者と通信する必要がある時は、その死者が夢に出てくると言われています。アイヌの人たちは、夢の中で起きたことを、当たり前のように信じている。夢の中で起きたことと、現実で起きたことを、そこまで明確に区別はしていないんです。
たとえば夢の中で、死んだ家族が「寒い」と言っていれば、お墓にセーターを持って行きます。でも、死者の世界では逆になってしまうから、わざと切り刻んで供えるんです。でも、そういう時以外はお墓参りも行かないですね。夢の中で言われたら、「仕方がない、行ってやるか」みたいな感覚(笑)。
伊沢 いやあ、驚いた。やっぱり、まるで想像も出来なかったです。それにしても、現世を最上のものとして楽しんで生きながら、死後の世界に救いを求めることもなく、人の死を辛く悲しいものともしない。本当に素晴らしいですね。
アイヌの死後の世界観というのは、人々の苦悩を天国や浄土で救済しようとする宗教を遙かに超えていると思います。「しあわせな死」を深める上で、大きなヒントをいただきました。ありがとうございます。
それからもう一つ、私は「人でなし宣言」をして、生きている間は思いっきり自分を主張しながら生きて、死ぬときは野垂れ死んで土に還りたいと思っています。
関根 人でなし宣言! どういうことですか?
伊沢 もういっそのこと、人間であることをやめようということです。
誰でもみんな「人間性が大切だ」と言うでしょう。その人間性って、常識や良識、人権などをわきまえて、正しく生きることですよね。確かにそれを守っていれば「良い人」かもしれないけど、それは人間社会の中だけでのこと。だから私は糞土思想の中で、それらを全部批判しているんです。「常識は思考停止、良識は八方美人の自己保身、人権は人間中心主義の傲慢の塊」というように。
だってそうでしょう。これまでずっと人間の夢や希望を実現するためにやってきたことが、結局は環境を破壊したり、多くの生き物や他民族を滅ぼしたりして、とうとう地球全体が危機的状況に陥ってしまったわけですよ。だから人間性なんて、幻想なんじゃないか。もう人間性などという縛りから離れて、自由に生きたほうがいいと思うようになったんです。
「人でなし」は、人間社会では「思いやりや人情がない冷たい人」という意味かもしれないけど、糞土思想では「傲慢な人間ではない、自然の中の単なる一生物」というような意味なんです。さっき関根さんは「アイヌ民族は生粋の自由人かもしれない」と言っていたけど、今の私は和人ではなく、アイヌに近いのかもしれませんよ。
関根 世の中の常識と括られるものに、違和感を抱かずに生活している人、生活できている気になってしまう人も多くいると思います。生活できてしまうからこそ、考えなくてもいいこともあるのかもしれません。
ただそんな生活の中に少しのアクセントを加えて、改めてそれぞれが自分なりの正義を見つけていくきっかけがたくさんできたらいいなと思い生活しています。そのアクセントが、「アイヌ」が築いてきた価値観や、伊沢さんの活動なのかもしれないなと感じます。私自身もまだまだ勉強です!
<後編へ続く>
取材・撮影・執筆:金井明日香