パンとウンコで画一化に抗う

渡邉格(タルマーリー店主)×伊沢正名(糞土師)

 天然酵母のみを使い、バターや卵、牛乳は使わない。年に一度、1ヶ月の長期休暇を取る。お店の場所は、「こんな所にお客さんは来るのかな…?」と心配になるほど、山の中。そんな不思議なパン屋を、ご存知でしょうか。

 そのパン屋とは、渡邉格さん、麻里子さん夫婦が営む「タルマーリー」。もはや“美味しさは目指さない”と豪語するお二人を訪ね、画一化への反抗や、辺境からの革命の起こし方まで、じっくり3時間語り合いました。

もう、美味しさは追求しない

伊沢 タルマーリーのパン、初めていただきました。美味しいですね。なんだかいくらでも食べられそうです。

渡邉 ありがとうございます。タルマーリーでは、空気中から採取した天然酵母を使って、パンを作っています。バターや卵、砂糖や牛乳は使っていないので、重たく感じないのかもしれないですね。

小麦粉と水、ビール酵母やレーズン酵母などの天然酵母から作られるタルマーリーのパン。

 ですが私たちはもう、美味しさを追求するのはやめたんですよ。そもそも僕は今、パンすら作っていません。パン作りは社員に任せて、僕はビール作りに転向したんです。

伊沢 え、そうだったんですか。なぜですか?

渡邉 まず、ビール作りを始めたのは、純粋にやってみたかったから。天然酵母でパンを作っているなかで、天然酵母でビールも作ってみたくなっちゃったんですよね。今となっては「パン作りに必要なビール酵母を仕込むため」という真っ当な回答ができるようになりましたが(笑)。

伊沢さん、ぜひビールも飲んでみてください。

伊沢 ありがとうございます。おお、何だか酸っぱい味ですね。

渡邉 そうですよね。それは、乳酸菌が持つ酸味です。

 実はビール作りの過程で乳酸菌を混入させることは、ビール製法からしたらかなり邪道なんです。西洋流のビール製法を見ると、「乳酸菌は滅菌すべし」と、もう悪の権化かのように書かれている。

伊沢 なぜ乳酸菌は、ビール作りで邪魔者扱いされるんですか?

渡邉 乳酸菌は酸を出し、発酵食品を酸っぱくします。特にビールは歴史的に、酸味が出るのをどう回避するかが課題だったので、乳酸菌は忌避されるものになりました。

 ですが、長年パン作りで菌と向き合ってきた身からすると、乳酸菌を完全に敵対する考え方に、なんだか違和感を感じて。殺菌・滅菌して必要な菌以外は殺すという発想ではなく、いわゆる東洋的な、存在するモノ全てを否定しない動的なものづくりを目指したいという気持ちが生まれてきました。

 そんな背景から、あえて乳酸菌は殺さずに、酸っぱいビールを作り始めたんです。お客さんには、「なんだこのまずいビールは」なんて言われちゃうこともあるんですけれど(笑)。

伊沢 確かにこれまでのビールの味とは違うけれど、私はまずいとは思いません。でもさすがに、まずいと言われたらショックではないですか?

渡邉 いや、でも王道でない味のビールを作ることにこそ、意味があるんじゃないかと。本来、「美味しいかどうか」は、自分で決めていいはずなんですよ。

 でも今の世の中って、「美味しい」の基準が画一化していると思う。「大手企業のビールの味が美味しいビールの味だよね」とか、「美味しい料理と言ったらフレンチだよね」とか。

 一方でタルマーリーのビールは、味は酸っぱいし、かっこいいラベルもついていない。それなのに、1本990円もする。山奥のパン屋まで来てそれじゃあ、文句の一つも言いたくなるでしょう(笑)。

 でもそこから、「なんでこいつ、こんな変なビールを作ったんだ?」という、今まで考えたこともなかった問いが生まれるかもしれない。ビールはこういう味、という常識を取っ払うことで、見えてくるものがあると思うんですよ。

 職人であり商売人である私たちの役目は、そこだと思っていて。消費者の世界観、価値観を広げていく。人に押し付けられた美味しさに感動するのではなく、自分で主体的に感動する。“まずい”ビールは、そこに貢献できると思っているんです。

自分の世界観を作る

伊沢 なるほど。確かにメーカーが消費者に媚びているからこそ、大衆に好まれる味を追求して、結局みんな似たり寄ったりの味になるんでしょうね。そして消費者側も自身の判断軸を持っていないから、“これが美味しいものだ”と刷り込まれたものを美味しいと感じてしまう。

渡邉 その通りだと思います。自分の世界観がないと、何が好きで、何を気持ちいいと感じるかを、判断できないんですよね。

伊沢 私も野糞くらい気持ちのいい排泄行為はないと思っているけど、世間一般の人はそう思わないですね。その世界観は、どうやって作られると思いますか?

渡邉 記憶の蓄積ではないでしょうか。感動して泣いたり、怒ったり、喜んだりすることで、心が動きますよね。その経験や感情が記憶されることで、自分はこれが好きなんだ、とかこれが気持ちいいんだ、という感覚がわかってくる。その結果、自分の世界観や判断軸が作られていくように思います。

伊沢 私も野糞を初めて47年ですが、いまだに毎日感動していますよ。この葉っぱの拭き心地最高だなあとか、お尻に当たる風が気持ちいいなあとか(笑)。

渡邉 いいですねえ! 伊沢さんの日々の野糞は、間違いなく伊沢さんの世界観を作っているんでしょうね。

興味津々で野糞用葉っぱを触る渡邉さん。

 特別なシチュエーションで感動するだけじゃなくて、日常での感動を積み上げていくのって、大切ですよね。私にとってはそれがパンやビールですが、伊沢さんにとってはウンコなんですね。

伊沢 本当にそうですね。食べることは日々の生活に欠かせない大切なことだけど、ウンコだって絶対に欠かせない、生きる上での基本ですからね。それもただ出して終わりではなく、自然全体との繋がりというか、命の循環という視点も持ちながら、毎日せっせとやっているわけです。

渡邉 パンを作るにも、パン作り以外の経験をして、世界観を広げる必要があると思っていて。だからタルマーリーは、しっかり休むことを大事にしています。営業日は週5日で、従業員は週休2日。さらに年に一度は一ヶ月の長期休暇を取っています。

 もちろん、パン作りはハードな仕事なので、体の休息が必要という面もあります。ですがそれ以上に、パンのことしか分からない人は、良いパンを作れないと思っているんです。

 パン以外の料理や工芸品、音楽に感動して、他の職人たちから刺激を受ける。その感動の記憶が蓄積することで自分の世界観を広げ、それがパン作りのアイデアに活かされる。そういった経験をする時間が、必要だと思うんです。

廃園になった保育園をリノベーションした、タルマーリーのお店。

伊沢 分かります。渡邉さんの『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』を読んで、ただのパン職人とはまるで違うものを感じたからこそ、是非とも渡邉さんのお話を伺いたいと、こんな山の中までやってきたんです(笑)。

渡邉 そもそも、今タルマーリーのパンを作っているパン職人の境くんも、全くパン作りの経験がない状態で入社してきたんですよ。一般的なパンの製法にとらわれないからこそ、彼は目の前のパンと向き合っている。目の前にある現実に、臨機応変に対応して造り方を調整しているんですね。正直言って、彼のパン作りはすでに、私を抜いています。

伊沢 その感覚は、すごくよくわかります。私も糞土師になる前は、キノコやコケの撮影を専門とした写真家だったんですが、誰かから写真の撮り方を教わったわけでも、写真の学校に通ったわけでもありません。

 でもむしろ、それが良かった。なぜなら数ミリ数センチの菌類やコケを撮影するには、例えば花を撮るような常識的な撮り方は通用しないんですよ。

 単に大きさとか生えている環境が違うという以上に、特に菌類は生き方がまるで違う。だから、その生きざまを表現するために、こういう写真を撮りたいという想いがまずあって、自分でああでもない、こうでもないと失敗を繰り返しながら撮っていく。そうすることで、だんだんと撮りたい写真に近づいていったんです。

 写真家になってから改めて、写真の撮り方のガイドブックを読んだことがあったんですが、自分のやり方と真逆のことばかり書いてあって、驚きましたよ(笑)。

 美味しさの画一化と同じで、写真の世界でも「これが良い写真の撮り方だ」という一つの定石みたいなものが決められてしまっている気がします。だからこそ、きちんと自分の求めるものを見定めて、自分のやり方を見つける必要があるのだと思います。

パンとウンコで革命を

伊沢 対談の前から思っていたのですが、渡邉さんと私には、共通項がたくさんありますよね。

渡邉 伊沢さんの著書『くう・ねる・のぐそ』を読みましたが、伊沢さんは大人の社会に辟易して、仙人になろうと高校を中退していますよね。私も高校時代はパンクバンドに明け暮れて道を踏み外していたので、親近感を覚えてしまいました(笑)。

 でも高校を中退して自然保護活動を始めた伊沢さんに対して、私は20代後半まで特に何も決まらないままプラプラしていたので。伊沢さんの方が、よっぽど腰が据わっているというか……。

伊沢 いやいや、私はもう後戻りができなかっただけですよ。家族や先生など周りの反対を全部押し切って、高校を中退しましたから。自分で背水の陣の状況を作り上げてしまったから、糞土師になるまで突き抜けられたのかもしれませんね(笑)。

渡邉 そうか、すごいなあ。でも社会が寛容だったこともあるかもしれないですね。最近は世知辛くて、自由に生きるのは難しいかもしれません。

 例えば娘が小学生の頃、学校にシャーペン持っていったら、鉛筆じゃなきゃダメだと言われたらしいのです。なぜかと聞いたら、「みんなと違うのがダメだから」。

 先生としては、いじめのきっかけにでもなったら可愛そうだ、と考えたのかもしれません。ですがこういった善意によって、画一化された息苦しい世の中になっているんじゃないか、と。

伊沢 そう、世の中を悪くしようなんて、本気で思っている人はほとんどいないですよね。まさに、「善をなさんとして悪をなす」ですよ。

渡邉 コロナ禍での自粛警察のように、自分だけの正義を押し付ける人が現れるのも、まさにそうですよね。「息苦しさを我慢する大勢」が、「我慢できない少数」を押さえつけることこそ、「いじめ」ではないかと感じてしまいます。

伊沢 それだけでなく、他人から批判されないことこそが良いことだ、それが良識だ、という考えが横行しているんじゃないかと思います。

 私は糞土師としてウンコや野糞の大切さを発言するようになり、この人こそ良識人と思っていた人たちから、批判するよりきつい無視を、何度も経験してきました。そして、自分は正しいと思っている人ほど強く、自分の価値観を押しつけてくるんですね。その最たるものが人権派だと考えています。

 もちろん良識も人権も、それが本物ならば素晴らしいと私も思っています。でもその多くは相手のことを考えない、独善的で傲慢な、押しつけの善意に感じるんですよ。

 だから人間中心主義がはびこり、自然が、多くの生き物が絶滅に追いやられ、環境問題がここまで酷くなってしまったんじゃないですか。もちろん先住民的な生きかたは良いんですよ。 だけど私自身はこの文明社会にどっぷりつかって生きている。

 とうとう人間であることに違和感を感じるようになり、最近ついに、「人でなし」宣言をしたくらいなんです(笑)。

渡邉 まさに、ここ数十年私たちは、完全に人間のエゴだけで社会を作り上げてしまったんですよね。

 特に象徴的なのは、昭和35年に池田勇人内閣が掲げた長期経済政策、所得倍増計画。社会資本の充実や産業構造の高度化を掲げて、暮らしや仕事の合理化を進め、人の暮らしを自然と完全に切り離してしまった。つまりそれは、田舎に住む次男、三男たちを土地から切り離したということ。

 その結果、お金を稼がなくてはならなくなった次男、三男たちは田舎を捨てて都会へと流れます。その結果生み出されたのが、東京に代表される都会ですよね。

 そうした変化の中で、「生きることは食べること」という態度が、「生きることはお金を稼ぐこと」という態度に変わってしまった。結果的に人は産業に縛り付けられ、お金を絶対視せざるを得なくなります。

 さらにお金はあらゆる関係性を分断する。そのため自然と暮らしも切り離され、だからこそ切り離された先の自然を破壊しているという自覚がないまま、自然破壊を続けてしまっているのかもしれません。私も東京の団地で育ったので、その感覚は痛いほどわかるのですが。

利潤を出さない

伊沢 自然と暮らしを切り離したことで、世の中がおかしくなってしまったのは事実ですね。気候変動は、いよいよ取り返しのつかない所まで来ています。

 だからこそ私は、人類の文明の道筋を、全く違う方向に変えなければいけないと思っているんです。今までの成長路線を続けながら、環境にも気を配りましょう、では間に合わない。

 これまで人間が信奉してきた経済成長や文明自体を、否定しなければいけない。それくらい深刻な状況にあると考えています。

 だからこそ、私はウンコを武器に闘っているんですよ。なぜなら、ウンコは最底・最悪の評価だから。例えば2004年の人名漢字見直しで、不適切な漢字として削除要望の一位は、「糞」です。三位が「呪」、二位が「屍」で、糞はそれよりも悪い。

 この最悪なウンコに最高の価値を見出す糞土思想こそ、世の中の価値観をひっくり返す最強の武器になるんじゃないかと思っています。

渡邉 では私の革命の武器は、菌ですね。そして菌が作り上げるパンとビールですね。

 今の消費って、完全に資本主義の下僕のようになっていて。「良いものを少しでも安く買いたい」という経済合理性に基づいて、商品は価格競争に陥り、大量生産ができる大手企業の製品が売れ、値下げのできない小商いは潰れてしまう。

 そんな状況では、持つ者はさらに富んでいくし、持たざる者はさらに貧しくなっていく。そして世の中には、大手企業の画一化された商品しかなくなってしまいます。そんな世の中、つまんないよねと。

 そこでタルマーリーは、「利潤を出さない」ことを掲げています。パンやビールを売って得た利益は、社員の給与と機械類への投資に当てています。

 機械に投資する理由は、理想のものづくりを追求しながら労働時間を減らすためというのはもちろん、パンやビールの原材料は極力自分で賄いたい思いもあります。今では、小麦粉の製粉も店舗内でやっているくらいです。

 パンや料理に使う原材料は、良いものづくりをする小商いの農家から仕入れています。良いものを仕入れて、良いものを作っているからこそ、価格は高く設定し、値下げはしません。

農家さんから仕入れた食材を使ったカフェメニューもある。

 儲け過ぎず、かといって赤字にもさせない。経営を続けられる分だけの収入を得られればいいと。どんどん儲けて資本が膨れ上がっていく「腐らない経済」に対して、私はこうした経済のあり方を「腐る経済」と呼んでいるんです。

伊沢 非常に共感します。腐って土に還ることで新たな命に蘇ることを、私は菌類から学びました。いつまでも腐らないと、それこそゴミだらけになってしまうんですよね。プラスチックみたいに。

 そもそも「利潤をどんどん増やすべきだ」という考えがあるからこそ、世の中おかしくなっているんです。利潤を増やすためなら、環境だけでなく労働者などの人間性まで平気で壊すわけです。

渡邉 本来は、あまりにも利潤を追求した結果生まれている格差は、政府による再分配によって埋めるべきだと思いますが、今の政治にはそれを頼れない。そう考えたら、企業としてやっていくしかないなと。

 そのためには圧倒的な経済力が必要です。しかし、私たちにそれはありません。だったら、循環する経済を皆で回すことで一人の圧倒的経済力に代替できるのではないかと。つまり、地域の中で、モノと経済と人の循環する仕組みを作るんです。

 ですから今は、タルマーリーを起点に、地域の共同体を作りたいと考えています。地域の人たちがタルマーリーのすぐ近くに、宿泊施設や銭湯を建設中で、私たちも新たに2号店を建設中です。そういった仕掛けから活動が広がり、最終的には地域の人や自然が循環するようなコミュニティにしていきたいのです。

伊沢 斎藤幸平さんが『人新世の資本論』の中で、行き過ぎた資本主義の軌道修正の仕方として挙げていた、「コモン」を体現した世界観ですね。

渡邉 そうかもしれません。資本主義から見れば、田舎は不便で非合理な場所ですが、小商いを営むことを考えたら、自然から宝を取り出す農業が営めて、地価も低い田舎は合理的。この辺境の地から、パンとビールで革命を起こしていきたいと思います。

伊沢 私も写真家だった頃は取材費や撮影機材など様々なモノが必要で、それなりに稼ぐことを考えていました。でも、糞土師になったら経費がかからないし、私も田舎暮らしだからそれほどお金はいらない。おまけに子どもはすでに独立しているし、数年前に母親が亡くなって面倒を見る必要もなくなった。

 だから今の私の望みは、「破産して野垂れ死に」なんです。もうお金なんていらないし、死んで土に還れば最後の自然へのお返しが完了する。そう考えるようになって、すごく楽になったんですけどね。

 さっき話した「人でなし」宣言とこれはセットで、これからは偉そうな人間としての尊厳なんて捨て去って、一生物として生き、そして死ぬということです。でも渡邉さんは経営者としてもまだまだやることがあるし、また、教育が必要なお子さんもいますから私とは全然立場が違うんですけど、こんな考え方、渡邉さんはどう思われますか?

渡邉 面白い。糞土師として、土の微生物が行う分解の真意を見出したのですね。経験と観察から生まれた重い言葉、達観の域ですね。

 確かに死ということを生前に認識すると、もっと濃い人生を送れるように思います。またお金も追い求めなければもっと豊かに暮らせるのでしょう。ただお金については、少し言いたいことがあります。

 お金について、私も若い頃は、世の中を悪くするものと否定し、お金から逃げていたこともありました。ですがそれは、良い結果をもたらさなかった。結局どこまでいってもお金からは逃げられなかったのです。

 お金から逃げるとは、必要なお金を稼ぎ、稼いだお金から使える分だけ消費すること。そうして低価格で価値の低いモノばかりを買う。そうしていると、結果的にその消費行動はゴミを生むだけになってしまうのです。

 だから私は、結局はお金と向き合うしかないと思うのです。きちんとお金を使って、時間を経るほど味が出てくるような、良いモノを見る目を育てる。それが、価値あるモノを作る人たちを支えることにもつながる。これが日本で忘れ去られてしまった消費行動だと思います。

 ですが資本主義社会では、価値あるモノはどんどん消えていきます。競争社会の中で作り手は、安さを求める人に見合った価値に下げて、低価格で販売しますから。

 では、価値あるモノを作るには、どうしたらいいのか。私は最も大事なことは、自然環境と労働環境を整えることだと思います。そして、最後は運。人間の非力をあざ笑うような自然の偉大さを前に、人間中心の思考は解体されます。

 正直、先人たちが積み上げてきた技術は、非合理的であることが多いのです。しかしそれは、経済合理性という一側面から見たら非合理、というだけの話。実は環境コストを含めると、前近代的な技術こそ合理的なのだと思うようになりました。それらを環境に負荷を与えない現代の新技術と融合すると、私たちはもっと楽に、もっと良いモノを手に入れることができるのかもしれません。

 パンやビール作りの過程で野生の菌と触れあっていると、彼らは価値あるモノだけを発酵と熟成に導いていることがわかります。一方で腐敗菌は、生命力の弱いモノを自然へと分解し、再生への道を開く。こうやって豊かな自然が作られていきます。だからこそ私は今、菌の声を聴くときではないかと考えているんです。

伊沢 そうですね。私はあまりにも自然の方に軸足を移し過ぎているかもしれません。でも渡邉さんは菌や自然に向き合いながら、先人たちが作り上げた価値あるものをしっかり守り、活かしていこうとしているんですね。渡邉さんの生き方・考え方を伺えてよかったです。ありがとうございました。

 そして今日は、本当に美味しいパンとビールもごちそうさまでした。

<了>

(取材・執筆・撮影:金井明日香)