死を日常から切り離さないことの安らかさ
伊沢 ところで亮之介さんは死に対する不安はありますか?
亮之介 それはありますよ。死にたくないと思う。けれど一方で、来年生きているかわからないと、どこかで思うようにはなったかな。必ず何かの段階を踏んで死が来るとは限らない。急に来るかもしれないということが1つわかった。
もう1つわかったのは、死を日常から切り離さないほうが、心が安らかでいられるということ。それまでの俺は、生は意識しても死は意識しなかったけれど、とても身近な人の死を看取って、今はいつもどこかで死を意識している気がする。
伊沢 意識というのは、どういうふうに?
亮之介 明日死ぬかもとか、来年はいないかもとか、折に触れて思う。庭で小さな畑を作っていても、来年は自分がいない可能性もあるんだよなあ、と。だから野菜が育った嬉しさを今日味わわないといけないなと思う。
常にではないよ、キレイごとを言ってますけど(笑)。砂上の楼閣という感じは染みついた感じがする。まあ61歳という年齢もあるかもしれないですけどね。
伊沢 そうは言っても、やはりこの2年はなかなか大変だったのではないかと思うんですが。
亮之介 俺は本当に、淳子の息がまどろんでくるまで、いや、死ぬわけがないと思っていた。だからある意味、今でも不思議なんですよ。どこかではまだ帰ってくるかもと思っているかもしれない。
亡くなった後はもちろんすごく泣いたよ。でも泣いた後、なんでいないのかな?っていう感じがつい最近まであった。正直、いない感じがあまりない。
この家はもともと彼女の実家で、俺がそこに住まわせてもらっているのもあるかもしれないし、彼女は毎年8月になると、教員の仕事が夏休みになるので妹が暮らす北海道に1ヶ月行っていた。そんなふうに、今も長い不在で俺がお留守番しているという感じかな。
忙しすぎて気がまぎれた
亮之介 でも今振り返ってみて思うのはね、親しい身内をなくした人間にとっては、暇で楽でいるよりも忙しいほうがいい。淳子の葬儀をお願いした葬儀会社の社長がユニークな考えの持ち主で、亡くなった翌日から毎日うちに通ってきて、俺の仲間たちも来て一緒に参加してくれて、毎日2〜3時間も葬儀の内容を相談したんです。
社長は俺がイラストレーターということを知って、それなら挨拶状も自分たちで作るほうがいいと。だから亡くなってから葬儀までの4日間は毎日めちゃくちゃ忙しかった。俺はご挨拶の文章を書き、絵を描き、レイアウトして印刷所に出して、刷りあがったら家で仲間と封入作業をして。
その他諸々の打ち合わせもあり、本当に泣いている暇がないまま葬儀を迎える感じでした。その延長で1年が過ぎていたみたいな感じで。いつも色々な友人がうちに来てくれて、一緒にご飯も食べるしお酒飲んで笑うし。淳子の死を日常の中で仲間が共有してくれたというか、それで俺は救われたんだと思うんです。
伊沢 淳子さんが亡くなる間際も来客が途絶えなかったそうですね。
亮之介 夜23時に亡くなったのですが、その日の18時までに20人以上がお見舞いに来ていたんです。亡くなる前の病気療養期の1年半ぐらいも、人が頻繁にうちに来て宴会してたの。その人たちが最後まで会いに来続けてくれて、彼女がだんだん衰弱していくのを見ていたのね。
俺としては、見せたくないなっていう気持ちも正直なくはなかったの。でもなんだろう、隠すのも嫌だという思いもあった。面会謝絶もしようと思えばできるけど、したくなくて。別に特別な方針や思想があったわけではないんですが。
伊沢 それって淳子さんの影響も大きいんじゃないですか?
亮之介 うーん。でも彼女がね、最後のほうはしゃべれない状態になっていたから、人が来ることに対してどう思っていたかはわからない。本当はそんな姿を見られたくなかったかもしれないじゃないですか。
伊沢 私は「生ききりたい」を読んだときに、淳子さんが死と向き合っている姿を知って、ぜひお話したいと思いました。でも、死の話を聞かせてほしいと本人にお願いするなんて、常識的にはとんでもないでしょう。だから淳子さんへ手紙を出すとき内心は不安だったんです。亮之介さんにも嫌われるかな、とか。
亮之介 あのときは俺もちょっとは思いましたよ。だって死って、できれば避けたいものだから。
伊沢 そうですよね。でも後で淳子さんに聞いたら「光栄でした」とおっしゃって。淳子さんのすごさを思いました。
亮之介 すごいですよね。あれはすごいわ。