この社会から「お金」だけすっぽりと姿を消したら――?そんな実験的小説『お金のいらない国』の著者である長島龍人さんと伊沢正名さんが対談。お金とウンコを切り口に、金銭経済と資本主義でがんじがらめになったこの社会を変えたいと、将来の理想社会について考えます。
お金がなくても社会は成り立つ
伊沢 映画『うんこと死体の復権』の自主上映会で、知り合いからこの『お金のいらない国』を頂いたことで,長島さんの存在を知りました。そして、20年以上も前にこんな面白い本が出ていたんだ、と驚いたんです。
私も以前から、「お金が世の中をおかしくしている」という感覚は強く持っていたのですが、この本を読んで初めて、そのおかしさの構造が具体的に見えてきました。だから読んでいる最中から、「次の対談相手は長島さんだ」と考えていたんですよ(笑)。
長島 そう言っていただけて嬉しいです。
伊沢 改めて、長島さんはどうして『お金のいらない国』を書こうと思い立ったんですか。
長島 私は1980年に広告代理店に入って、アートディレクターとして新聞広告やポスターのデザインをしていました。広告を作ることは好きでしたが、ある時気づいたのは、仕事の半分くらいは「お金の計算」をしていたということ。見積もりを何度も書き直したり、請求金額の調整をしたり……。

長島龍人(ながしま・りゅうじん)1958年、東京生まれ。武蔵野美術大学卒業後、広告代理店入社。2003年、『お金のいらない国』出版。以後、寸劇に仕立てたものを自ら演じたり、自作の歌を歌ったりと、理想社会のイメージを伝えるため、さまざまな活動を続けている
そうするうちに、「なぜお金はこんなにも重視されているのか」と不思議に思い始めました。お金はただの紙切れで、食べられるわけでもない。ただ「お金を回す」という目的のために、こんなにも多くの余計な仕事が発生しているのです。これはなんだか変だぞ、と。
そこで「もしお金が存在しなかったら、社会はどうなるんだろう」と妄想し始め、書き上げたのがこの『お金のいらない国』シリーズです。
まあ率直に言えば、お金周りの仕事が面倒で嫌いだったんです。その“腹いせ”に、書き始めた部分はあったかもしれません(笑)。
伊沢 そういう経緯だったんですね。それにしても、“腹いせ”と言うのがいいですね!
私自身は実は10代の頃から、「お金は生きる足しにならない」という実感を持っていました。
私は人間不信に陥って高校を中退したんですが、仙人みたいな生き方を夢見て山を一人で歩き回り、誰にも会いたくないから、テントや避難小屋に泊まっていたんです。そこには人も店もないので、お金を持っていても全く役に立たない。
何日も山の中にいて、ジュースが飲みたくなってももちろん自販機なんてないし、またある時はお尻を拭く紙が無くなって、財布の中の千円札がティッシュペーパーだったら良かったのに、と思ったほどでした(笑)。
長島さんの『お金のいらない国』シリーズを読んで特に面白いと感じたのは、長島さんが描く社会は、「お金」が存在していないだけで、あとは今とほとんど変わらない暮らしが営まれていることです。
「お金がない社会」と聞くと、「自給自足の時代に戻らなければ」と思う人がいますが、必ずしもそうではないんですよね。
私が野糞について話すときも同様の指摘を受けることがありますが、文明の恩恵は得ながら、野糞だけを取り入れることだってできますからね。
長島 そうなんです。私が理想とするのは、現在の多様で豊かな社会はそのまま残り、「お金だけがなくなる」という世界です。
私が思い描く「お金のいらない国」にも、もちろん仕事はあります。ただし、その世界での仕事は、多くの人が現実社会で抱くような「お金を稼ぐための行為」ではありません。
たとえば誰かがパンを焼き、電気をつくり、道を整える。人々はそれぞれの得意分野で力を発揮し、互いに貢献し合うことで生活を支え合います。こうした働きの循環が、社会全体を回し、そしてまわり回って自分の暮らしを支えていく。この構造自体は、実は今の社会もまったく同じです。
つまり、仕事とは「そもそも社会に必要だから生まれている営み」であり、お金があるかどうかとは本質的に関係がないはずなんです。だからたとえお金がなくなったとしても、当たり前のように仕事は回るはず。
逆に「お金を回すためだけに存在していた仕事」はなくなるでしょう。結果として、本当の意味で社会に貢献する仕事だけが、残っていくんです。

長島さんの著書『お金のいらない国』全1〜5巻
伊沢 そうした社会を成り立たせるには、人と人との信頼が欠かせませんよね。「自分は一生懸命働いているのに、他の人は働いていないのでは」と疑心暗鬼になっては、社会は成り立ちません。これまでは、その信頼関係の一部をお金が担保していた側面もあると思うのですが、この点はどう見ていますか。
長島 鶏が先か卵が先か、という話かもしれませんが、私は「お金を目的に動くこと」を手放せば、むしろ自然と信頼関係は育まれると考えているんです。究極、お金を稼ぐために誰かを騙したり、奪ったりする必要がなくなるわけですから。
「急にすべてがタダになったら、奪い合いが起きるのでは」と心配する人もいるでしょう。確かに移行期は混乱するでしょうが、やがて人は「自分に必要なだけで十分だ」と思うようになるはずです。どれも自由に手に入るなら、無理して独占する理由がそもそもなくなります。

(長島さん提供)
伊沢 確かにその通りですね。むしろ大切な信頼関係を、お金が壊していたのかもしれません。
ところで私は、皆が臭い汚いと嫌がるウンコと野糞が大切なことを多くの人に伝えるために、出来るだけ楽しく話すようにしています。長島さんもその重要性を、面白おかしく表現していますよね。小説には、思わずクスッと笑ってしまう箇所もありました。
長島 ええ。私は小説に加えて、「お金のいらない国」の落語もつくり、さまざまな場所で披露しています。自分が落語好きというのもありますが、やはり笑いがあるとすっと心に入りますからね。

『お金のいらない国』の落語を披露する長島さん(長島さん提供)
お金とウンコは、どちらも溜めるとダメになる
伊沢 お金がなくても社会が回る構造が、よくわかりました。つまり「お金のいらない国」では、お金の代わりに信頼が循環していくということですね。
長島 ええ、まさにこの循環が大事だと思っています。誤解してほしくないのは、私は「お金=悪」とは思っていないということです。今の社会のおかしさの要因は、お金そのものではなく、お金が循環せずに一部に溜まり続けてしまう点にあると考えています。
お金という道具を使うのであれば、本来は世の中のためにどんどん使い、社会の隅々まで届くようにすべきです。
しかし現実には、莫大なお金を自分の元に溜め込む人がいる。その結果、本来行き渡るはずのサービスやものが滞り、至るところで不都合が生じている。
伊沢 実はウンコも全く同じ構造なんですよ。今の社会では、水洗トイレにしたウンコは水で流され、処理場で膨大な電気と重油を使って処理され焼却され、その灰は最終的にはコンクリートに固められてしまう。
本来は土に還って生き物の栄養になり、新たな命になって循環していくはずのものなのに、その流れが断ち切られている。これが問題の根本です。
だからこそ私は、ウンコを自然の循環へ戻す野糞をし続けているし、それを講演会などで多くの人に広めようとしているわけです。
こうして話してみると、改めてお金とウンコの共通点がより明確になりますね。
長島 実は私の友人に、「腐るお金」を実践している人がいます。これは3ヶ月経つと、価値がなくなるお金。だから溜め込まず、早く使ったり、人に渡したりして循環させざるを得ない仕組みなんですね。
私にとってはお金のない世界が理想ではありますが、こうした「強制的に循環させるお金」は、その手前のステップとして有用なんじゃないか、と。
伊沢 そうですね。私が今最も大切だと考えているのが、その金銭経済の仕組みを変えることと共に、環境問題です。環境破壊が進み、とんでもない豪雨や猛暑などを引き起こす気候危機がこれ以上酷くならないようにするには、環境再生しかありません。
そこで一番重要なのが、人間社会の価値観で物事の善し悪しを決めてしまう「人間中心主義」を改めて、「自然の摂理」に沿った生き方に変えることです。その自然の摂理こそ、「循環」なんですね。
だからお金でもウンコでも、さらには死体だって土に還るように土葬すれば、循環して高い価値を生み出すんですよ。
みんな「バラバラ」でいい
伊沢 実は私は、「お金のために働いたことがない」数少ない人間かもしれません。というのも、誰かの下で働いたことってないんです。
父親が歯医者だったので、入れ歯など技工の仕事を手伝ってお金をもらったことはありますが、それだけです。あとは糞土師になるまでは、完全にフリーランスの写真家としてキノコやコケや変形菌の写真を撮って、それを出版社などに貸し出すことで生活してきました。
長島 そうだったんですね。
伊沢 写真家になった最初の頃、「写真家としてやっていきたいならキノコは1/3にして、2/3は花の写真を撮れ」とフィルムプロダクションの社長から言われたものでした。花の写真は、キノコやコケよりもはるかに売れるからです。
ですが私が写真で目指したのは、キノコをはじめとした菌類の素晴らしさを伝えたかったから。だから売れ筋ではなく、自分が本当に撮りたいものを撮り続けてきたんです。
このように、お金のために働いたことはほとんどなかったわけですが、それでも十分生きてこられたし、その自由さがむしろ心地よかったんですよね。
長島 わかります。私が『お金のいらない国』を通して伝えたいメッセージの一つは、「もっと自分の好きに生きようよ」ということなんです。
人は本来、得意な領域も、生きる目的もバラバラです。だからこそ、「お金のために働く」と同じ方向に全員が揃ってしまう今の社会は、すごく違和感がある。
「本当は畑仕事をしてみたいけど、お金を稼ぐために会社に行っている」みたいな人、おそらくたくさんいますよね。もう、今すぐ畑を始めてほしいですよ。
「みんな同じ価値観で生きなければならない」という考え方こそ、社会を窮屈にしてしまっていると思います。決まりごとをつくり「これに従え」と縛ろうとする発想を、根本から壊したいと思っています。
伊沢 長島さんは今現在のこの社会では当たり前になっている事柄を次々に取り上げていて、たとえば「お金のいらない国」には結婚制度もない、と書かれていましたよね。あれはとても興味深かったです。
長島 考えてみると、結婚もなかなか不自然な制度です。だって紙切れ一枚で「一生その異性以外見向きもしてはいけない」という強烈な縛りができてしまう。もちろん同じ相手と添い遂げたい人はそうすればいい。でもそう思わない人は、そこに縛られる必要はありません。それだけのことです。
ここ十数年で随分価値観が多様になり、生きやすくなったと感じています。30年前は、結婚していないだけで白い目で見られましたが、いまはだいぶ当たり前になりましたから。

プープランドのブランコで遊ぶ長島さん
伊沢 ちなみに、再稼働するかどうかで大きな問題になっている原発は、「お金のいらない国」ではどうなると思いますか?
長島 私は、なくなると思います。あれだけ取り返しのつかない事故を経験しておきながら、いまだに続けていること自体が不自然ですよね。原発にしろ戦争にしろ、背後にはどうしても「お金が儲かるから」という要素が入り込んでいると思うんです。
お金が存在しない世界になれば、人間の手に負えないものだとわかっているものは、自然と「やめよう」と判断できるはずですよ。
伊沢 本当にその通りですね。長島さんのお話を聞いて、お金という基準がなくなることで、改めて「本質を見る目」を取り戻すことの重要性を感じました。
こういう話は、理屈で説明するより、笑いや物語のほうがずっと届く気がします。今度はぜひ、糞土庵で「お金のいらない国」の楽しい落語の会をやりましょうよ。今日は夢の膨らむお話をタップリ聞かせていただき、ありがとうございました。
〈了〉
(執筆・撮影:金井明日香)
