前回に引き続き、環境再生の専門家である高田宏臣さん、そして土葬を実現するために出家して僧侶となった山田善杜さんと、土葬社会の実現に向けて鼎談を続けました。
恐怖心は克服できるのか
伊沢 前編では、環境再生や弔いのあり方という観点から、土葬が持つ価値を改めて見てきました。後編で掘り下げたいのは、どのように土葬を“当たり前の選択肢”として社会に浸透させられるか、という点です。
そのとき、どうしても立ちはだかるのが、土葬に対する恐怖心や嫌悪感です。
特に現代人の多くが懸念するのが、死体は不衛生で、生活に欠かせない大切な水が土葬によって汚染される、という短絡的な衛生観念からの拒否感ですね。しかしそれは、遺体がきちんと分解する“正しい土葬”をすれば問題ないことが、前編で確認できました。
とはいえ、土葬は言ってみれば、自分の身体が虫や微生物に食べられること。そこに抵抗を覚える人がいるのは、無理もないと思います。
では、その恐怖心をどう乗り越えられるのか。まずそこから話していきたいと思います。
高田 恐怖心は、多くの場合“知らない”ことから生まれるのではないでしょうか。確かに「土葬=腐敗」と捉え、自分や大切な人の身体がドロドロに腐っていく姿を想像すれば、誰だって怖くなるでしょう。
だからこそ、分解と腐敗の違いをしっかり理解することが大切です。その一番の方法は、観察すること。もちろん、いきなり人間の死を観察しろという話ではなく、たとえば動物の死をじっくり観察してみるんです。

環境再生の専門家の高田宏臣さん
私たちが運営しているダーチャフィールドの周辺では、タヌキなどの野生動物が車に轢かれて死んでいる場面に出会うことがあります。そうしたとき、私たちはその死体を土に埋めます。前編でも触れたように、分解がよく進むよう、掘った穴に枝葉を敷いた上、微生物の活動が最も活発な浅い場所に埋め、その上にまた枝葉をかぶせて、土を盛ります。
すると数カ月後、あれだけ盛り上がっていた土が、いつの間にか平らになっていることに気づくんです。それはつまり、分解が終わったということ。その過程は、驚くほど穏やかで、静かなものです。その光景を目の当たりにすると、“死体が虫や微生物に食い荒らされる”というイメージは、きっと180度変わると思います。
ちなみに私の経験上、土の中で分解しやすいような土葬をしていれば、カラスなどが死体を掘り返すこともほとんどありません。動物たちも、循環の在り方を理解しているのかもしれませんね。

プープランドにはハクビシンやアライグマなど、野糞だけでなく動物の死体も埋められている。
善杜 本当にそうですね。私も実は、自分の寺で土葬ができるようになった暁には、まずはペットの土葬から始めようと考えています。大切なペットとの別れにきちんと時間をかけて、土葬の過程を見届けることができれば、土に還るとはどういうことか、頭ではなく身体で理解できる。そうした積み重ねが、社会の死生観を少しずつ変えていく力になると思うんです。
観察に加えて、実際に“遺体に触れること”もとても大事だと感じています。多くの人は、遺体を怖いもの、触れてはいけないものだと思っている。でもそれは、死を遠ざけてきた社会の中で刷り込まれた感覚なんじゃないでしょうか。
人は誰でも、死ぬときに虚しさや寂しさを抱えるものだと思います。それが、誰にも触れられないまま、孤独に焼かれていくとしたら、本当に納得して旅立てるのだろうか、と感じてしまうんです。
だからこそ、最後はきちんと遺体に触れてあげてほしい。そうした“人の温もり”を感じた上で、土や生き物に包まれて分解されていく。そうした連なりがあれば、土葬や死に対する捉え方も変わっていくのではないかと思います。
伊沢 お二人のお話、とても共感します。実はプープランドには、自然の中に還る感覚を体験できる場所もあるんです。
プープランドには元々そこにあった枯木を活用して作った、数々の手作りのベンチやベッド、シーソー、丸太道などがありますが、特に自慢の傑作が“鳥の巣テラス”です。そしてその下には、木に包まれて寝転べるスポットもつくりました。
ここで寝そべってみれば、自然に包まれていく感覚を味わえる。そういう擬似体験をしておくのも、土葬に向けた心構えをつくる一つの手かもしれませんね。

プープランドの鳥の巣テラスの下には、木に包まれて寝転べるスポットも。土に還る感覚を擬似的に味わえそうだ。
葬式は、悲しむだけじゃなくていい
伊沢 私自身、野糞の思想や方法論がある程度かたちになってから、ここ数年は、どうすれば死の恐怖を克服できるのか、つまり「しあわせな死」の実現をずっと考えてきました。最近は歯もボロボロになって、満足に噛んで食事をすることができなくなり、いよいよ自分の死が現実味を帯びてきたというのもあります。
私が「しあわせな死」という言葉を思い立ったのは、「ウンコはご馳走」と対になる言葉としてです。今の社会では死があまりにも否定的に扱われていて、死は避けるべきもの、考えたくないもの、すべての終わりとして語られがちです。
しかし長年の野糞の探究で、ウンコは食べカスとして終わるのではなく、自分のウンコは他の生き物の食べ物になり、新たな命を育むことを知りました。そしてウンコも死体も、死んだ有機物としては同じようなものです。だったら死んでも土に還れば、新たな命になって永遠に循環していくのではないかと考えたんです。
自然界を見れば、生まれたものは必ず死に、死んだものは土に還り、また次の命を育てていく。死は終わりではなく、他の命を支える循環の一部。その意味がわかれば、死は怖いものではなく、納得して受け入れられるものになるはずです。
善杜 その感覚、よくわかります。私も葬式のあり方を見直すことで、死への向き合い方を変えたいと思ってきました。
たとえば、葬式に出たことがある人は誰しも、一度は思ったことがあると思うんです。「お経、長いなあ」って。
伊沢 正直、いつも思っていました(笑)。
善杜 そうですよね。今の葬儀は、「こうあるべきだ」という形だけが残ってしまっているように感じます。
本来、「大切な人を見送る」という行為は、人生の中でもとても大切な時間のはずです。それがいつの間にか、流れに沿って進めることが優先され、形式をこなすだけで終わっている。それは、あまりにもったいないことではないでしょうか。
出家する前の私にとっても、お経は長くて意味もよくわからず、正直苦痛に感じるものでした。けれど僧侶となり、自分の声でお唱えするようになって、感じ方が変わってきました。
ただ聞くよりも、声に出したときのほうが、心がよろこび、身体が整っていく。お経は「音楽なのかもしれない」と思い始めたのです。
私はこれまで、お経は亡くなった人の供養のためのもの、と思っていました。けれど本来お経とは、人が生きるなかで出会う苦しみをどう乗り越えるのかを、お釈迦さまが命をかけて探求し、ようやく辿り着いて説かれた教えです。それが多くの人に守られ、受け継がれ、時代の中で形を変えながら、今のお経となりました。
そう考えると、お経は亡き人のためだけのものではなく、残された人が悲しみを抱えながらも、再び生きていくための支えでもあるのではと思うのです。
これほど長い間大切に守られてきたお経の文化が、形だけになってしまう前に、今を生きる私たち自身が、よろこびを感じられる新たな響きへと育て直してもいいのではないか。そう考え、お経がどんなリズムやメロディに変われば今の人の心をほぐせるのか、私は今探求しているのです。
また、葬儀とは、故人が生前どんな人と出会い、どのように生きてきたのかを知る、とても貴重な機会でもあります。
ゆかりの深い人たちが、それぞれの思い出や感謝を言葉にし、その想いを遺族へと手渡していく。それこそが、本当の弔いなのではないかと、私は感じています。
そうして語られた一人ひとりの生き様は、次の世代へと受け継がれ、生きる力となっていく。私は、そんなふうにイノチを、つないでいきたいのです。
高田 すごく大事なことですね。うちも父親が亡くなる前、死ぬ時やその後のことをもっと話しておけばよかった、と心残りで。「父親が死んだら」なんて仮定をするのは縁起でも無いと思って、その話題から目を逸らしてしまっていたんです。
善杜 いまの社会では、「死について話すこと」自体がタブー視されていますからね。これからは、死についてもっと前向きに、そしてオープンに話せる空気をつくっていきたいですね。
高田 前編でもお話ししましたが、中世までさかのぼると、日本の土葬墓地は集落の水源のさらに上につくられている例が多い。当時の人たちは、遺体は土に還り、その養分で木が育ち、森ができ、その森が水を蓄え、麓の集落の暮らしを支えるという循環を、経験として知っていました。
同時に、『人の魂は木に宿る』と考えられていて、墓地のまわりの木は亡くなった人そのもののような存在でした。だから、その木を切ることは、お墓を暴くのと同じほどの事件とされていたことがわかる記録もあるのです。
つまり土葬は、単に遺体を埋める行為ではないのです。亡くなった人は、木となり、森となり、水となって、死後も集落を見守り続ける存在になる。
本来の土葬は、環境を再生しながら、亡くなった人と生きている人の関係をつなぎ続ける、とても豊かな死生観に支えられていたのだと思います。
伊沢 そうだったんですね。それこそまさに、私がこの10年間必至に追い求めてきた「しあわせな死」を実現するための、答えそのものです。
土葬社会への近道は、市長になること?
伊沢 私が子どもの頃の田舎ではまだ当たり前だった土葬が、なぜこれ程までに廃れてしまったのか。41歳の時に実際に土葬を体験している私には、その理由の一端は分かります。
1991年のことでした。近所の組内で亡くなったおばあちゃんの遺言で久々の土葬が復活したのですが、以前からの風習に則った土葬は多くの人手もいるし、時間も労力もとにかく必要な、結構厳しいものでした。
葬式の様々な準備から葬儀、そして土葬までの作業に、組内の各家庭から二人ずつ出て、2~3日はそれに拘束されました。以前の農業中心の田舎では人手も多く、会社勤めのように時間に縛られなかったからこそ、それが出来たのです。
しかし今では急速に人口減少が進み、おまけに若者は町に出て老人中心になってしまった社会では、時間的にも労力的にも以前と同じようなかたちでの土葬は、はっきり言って不可能だと思います。
それに加えて、イスラム教徒の土葬墓地問題を巡って排外主義の人達によって、土葬を根拠なく不衛生だと決めつける反対運動も各地で起こっています。さらには土葬の実態を知らない多くの人達もそれに流されて、土葬はダメだという世論が広がってしまいました。
さらには環境問題や自然の摂理に理解のない法律や条例といった、制度の壁もあります。しかも行政はクレームにめっぽう弱いし、面倒な仕事を抱え込みたくないから、前例がないから、責任が取れないから、といったつまらない理由で土葬が阻まれてしまっているのです。
そこで今私が考えている土葬は、環境再生を第一の目的としたものです。つまり自然の摂理に沿った、きちんと分解して土に還り、新たな命に蘇って自然界を循環できるようにする土葬です。そのためには手間暇の掛かる宗教儀式を離れて、高田さんが昔の土葬墓の調査で得た土葬方法や、動物の埋葬で実践しているような方法を、積極的に取り入れることです。
ではどうすれば土葬を当たり前の選択肢として実現できるのか。そのために素晴らしい目標を持って行動しているのが、岡山県に住む蟻正敏雅さん。彼は土葬を実現するために、岡山県美作市の市長を本気で目指し、権限のある行政の側からそれを実施したいと言っているんですよ。
草の根的な活動も重要ですが、やはり力がないと現状は変えられません。だからこそ、土葬を推し進める意思を持った人が行政の中に入り、責任を引き受けながら変えていくことが必要なんです。その覚悟を示してくれた蟻正さんには大きな期待をしています。
ではここで、飛び入りで蟻正さんに入っていただき、その計画を話してもらいましょう。蟻正さん、よろしくお願いします。

プープランドの土葬予定地を訪れた、蟻正さん家族。
蟻正 伊沢さん、ご紹介ありがとうございます。私がなぜ土葬にこだわり、そして市長を目指すのか。その原点は、幼少期の「違和感」にありました。
まだ僕が幼い頃、実家の墓地の片隅には土葬のなごりがありました。飼っていた犬や猫が死ぬと、そのそばに埋葬しに行きます。そこで僕は、死骸が時間をかけて土に還っていくことを自然と知りました。
ある日、祖母の葬式で火葬場から骨壷を持ち帰った時、僕はてっきり墓石の下の土に埋めるのだと思っていました。しかし実際は、コンクリートの小さな小部屋に骨壷を並べるだけで「えっ、そうなの?」と子供心にも驚きました。なぜ人間だけは土に還らないようにしているのか。その疑問が、ずっと心の奥に刺さっていたのです。
大人になり、僕は20年ほどアパレル業界に身を置きました。そこは、店頭に並ぶ商品の多くが売れ残り、燃やされたり埋められたりする世界でした。そして決定打となったのが、2011年の震災です。津波ですべてが流される映像を見た時、物質的な豊かさの脆さを痛感しました。「生きること、死ぬこと、その過程にある幸せとは何か」。そう問い直した時、幼少期の感覚が蘇ったのです。「やっぱり、ちゃんと土に還りたい」と。
いま、世界の人口は増え続け、同時に土壌の砂漠化が進んでいます。これは現代人が土の養分を使い果たしているからです。 僕たちは3億年前のエネルギーである石油を掘り起こし、都市を作り、インフラを整え、その恩恵を享受してきました。人類がこの200年で体に溜め込んだエネルギーは膨大です。
そんな人間にしかできない重要な役割、それは「借りたエネルギーを土に還すこと」ではないでしょうか。つまり、人間自らが土壌にとって「最高のご馳走」になる必要があると思っています。
そのためには、自分自身が豊かな土壌の一部として還ることが、命の責任のようにも感じるのです。 それを実現するためには、安楽死の選択や、気兼ねなく土葬ができる選択肢が不可欠です。
しかし、そこにはどうしても法や条例が立ちはだかります。 国民ひとりひとりの意志があっても、それを受け入れる「器」がなければ行動には移せません。だからこそ、僕は行政の長、つまり市長を目指す決意をしました。個人の意志と、それを行動に移しやすい仕組みづくり。その両輪を回すために、僕は制度の内側から変えていきたいのです。
伊沢 非常に頼もしい。蟻正さんのこれからに、本当に期待したいですね。
そしてもう一つ差し迫った現実的な問題が、私自身の土葬をどう実現するか、という問題です。
高田 先ほどプープランドにある伊沢さんの土葬予定地も見せていただきましたが、風通しがよく、とても良い場所でした。あの環境であれば、横穴墓を掘り、麻で包んで土葬すれば、十分に理想的な土葬ができると思います。

プープランドでの土葬場所や方法を相談する伊沢さんと高田さん。
何より、伊沢さんが50年以上にわたって野糞を続けてきた土地ですから、土壌の微生物環境は抜群でしょう。分解もきっと早いはずです。微生物たちも『ウンコだけじゃなくて、やっと本人が来たぞ!』と喜んでいるかもしれませんね(笑)。
伊沢 本当ですね(笑)。実際、あの土地では分解が早いことも、これまでの調査からはっきりしています。だからこそ私は、やはりプープランドで土に還りたいと思っているんです。
私が50年以上野糞をし続けてきた場所でもあり、この林とは深い想いとつながりがあるんです。土葬であればどこでもいい、という話ではありません。
自分の命を還すなら、自分のウンコで育ててきた土に還りたい。その実現に向けて、現実的な方法を引き続き模索していきます。
今回の鼎談を通して、高田さんとの対話から、正しい土葬の方法を具体的に学ぶことができました。また善杜さんの存在によって、一般の人が僧侶となり、土葬墓地をつくるという現実的な道筋も見えてきました。
さらに長い時間軸で考えれば、蟻正さんのように行政の側から制度を動かしていくアプローチもある。土葬が少しずつ「実現可能な選択肢」になり始めてきたと、大きな進歩を感じています。
「死」の価値観をひっくり返し、土葬を当たり前に選べる社会にする。まだ入り口に立ったばかりですが、必ず実現させていきたいですね。みなさん、引き続き頑張っていきましょう。
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まとめ・土葬社会を実現するための手順
- 火葬のマイナスと土葬のプラスを知る
・現在の火葬では大量の化石燃料を燃やすことで二酸化炭素の発生が増大し、環境を悪化させる。
・土葬ではそのマイナスが皆無になるだけでなく、遺体は土に還って生き物社会を豊かにし、命の循環を実現する。
・人間以外のすべての動物は自然の中で野垂れ死に、他の生物に喰われ分解されて土に還っているが、その事で水の汚染などが起きた事実はあるのか?土葬反対派に尋ねたい。それとも、人間だけは他の動物とは比較にならないほど穢れているとでも言うのだろうか?
・土葬のマイナス面として指摘される問題について。①墓地が足りない問題は、現在放置されている多くの山林原野などに、新たな墓地を認定する。②衛生面に関しては、感染症で亡くなった人を除けば、「正しい土葬」を行うことで解決する。
- 法的な問題
・法律で禁じているのは、墓地以外での埋葬で、土葬自体は完全に合法。
・土葬できるか否かは各自治体の条例で定められ、東京23区や大阪市などの都市部では、衛生面や土地不足を理由に土葬を禁じている自治体はある。2025年の全国の自治体数は1718あり、具体的なデータは見当たらないが、土葬を禁じている自治体は全国的に見ればまだまだ少数派にすぎない。
- 土葬墓地の確保から土葬の実現へ
・一般市民が新たな墓地の認定を得るのは困難だが、お寺や宗教法人は認定を受けやすい。
・特に浄土真宗がお薦めだが、一般人でも短期間の講習を受けることで僧侶になれる。
・全国に二万もある廃寺を引き継ぎ、住職になる。
・または既存の宗教とは別に、環境再生のための土葬を目的とした新たな宗教法人を立ち上げる。
・土葬可能な林野を取得する。
・お寺として自治体から墓地の認定を受ける。
・土葬の出来る寺として土葬希望者を募り、檀家として迎え入れる。こうなれば本人や家族の土葬が可能になるだけでなく、檀家からの寄進で僧侶としての自身の生活も成り立つ。
- さらに
・土葬墓地の周囲の林をプープランドとして整備する。プープランドが各地にあれば、災害時のトイレ問題が解決するだけでなく、子どもたちが自然に触れてその摂理を学ぶことは、今後の人と自然の共生社会を創造する上で欠かせない。
〈了〉
(執筆・撮影:金井明日香)
