講談師・田辺凌鶴×糞土師・伊沢正名
今回は、伊沢さんを題材にした新作講談をつくった、講談師の田辺凌鶴さんとの対談が実現。糞土師と講談師のコラボレーションの可能性が見えただけでなく、その新作講談をさらに磨き上げるための作戦会議の場にもなりました。
講談師はジャーナリスト?
伊沢 凌鶴さんとの出会いは、映画『うんこと死体の復権』の公開初日、監督の関野さんと私の舞台挨拶を凌鶴さんが聴きに来てくれたことでした。そこで糞土師を題材に講談をつくったと聞いて、本当にびっくりしました。
じつは小学生の時、分校でのお別れの謝恩会で、ということは4年生の時ですね、なんと当時大人気だった浪曲師:広沢虎造の「灰神楽の三太郎」を真似て、だみ声で唸ったことがあるんですよ。毎度皆様おな~じみのぉ、あの次郎長に……とね。
今では糞土師というとんでもないことしてますけど、子どもの頃から古典話芸が好きだなんて、だいぶ変な奴だったんですね、私は。
浪曲との縁はそれ以来皆無ですが、講談に関しては正直それほど興味もなかったし、もちろん演芸場へ行って聴いたことなど一度もありません。でも今回は凌鶴さんから、「糞土師 伊沢正名」を歌舞伎町で演じるからと招待されて、すぐに聴きに行きました。
出会ったのが少し前の8月3日で、講談を聴きに行ったのが8月18日、そして9月にはこの対談が実現しました。まさかこんなにとんとん拍子にことが運ぶとは思ってもいませんでした。
改めて、私を題材に講談をつくろうと思ったきっかけはなんだったんですか?
凌鶴 そもそも講談には、古典と新作の二種類があります。古典は、主に江戸時代から明治時代にかけて確立された、伝統的な演目を指します。
一方で新作は、現代の講談師によって創作された新しい演目のこと。私は新作をつくるとき、新聞やニュースから題材を探すことが多いのですが、それでwithnews「野糞を続けて43年 奥さんよりもウンコを選んだ伊沢正名の信念」という伊沢さんの記事に巡り会いました。
自分を自然の一部と捉え、野糞を半世紀近く続けている。「こんなすごい人がいたのか。本物だ」と感銘を受け、すぐに講談をつくろうと決めたんです。
伊沢 まさか講談の世界で取り上げられたとは、それは嬉しいです。実際に聴いてみると、糞土思想を講談に載せることで、言葉が非常に強力になるのを感じました。どのような観点で題材を選んでいるのですか?
凌鶴 まだ多くの人が知らない「本物」を伝えたいと思っています。
たとえば大谷翔平はもちろんすごい人ですが、知らない人はいないじゃないですか。そういう人を題材にしてもあまり意味がない。むしろ、みんながまだ気づいていないけれど、実はすごい、かっこいい人を紹介したいんです。
さらに、それを講談師の力で編集してストーリーにすることで、記憶に残るものにしたい。情報が溢れる今の時代、ネットニュースで読んでもすぐに忘れられてしまいますから。
実は講談師は江戸時代に遡れば、字の読み書きができない人に対して、情報を伝える役割を担っていたんです。まだ知られていないけれど大事な情報を探し当て、わかりやすく伝える。講談師はいわば、ジャーナリストのような役割と言えるかもしれませんね。
伊沢 講談がジャーナリズムだ、という考え方は初めて聞きましたが、確かに腑に落ちますね。そう考えれば、古典よりも新作こそが講談の本質、とも思えてきます。
凌鶴 ええ。お客さんもやはり、古典よりも新作の方が身を乗り出して聴いてくれますね。
講談の本質は「笑い」ではない
伊沢 一方で同じ講談師でも、表面的な面白さの方に偏ってしまっている人もいますね。凌鶴さんとは別の講談師が『うんこと死体の復権』を題材にラジオで話をしていましたが、全く本質は理解されておらず、単なる面白ネタとして消費されていました。
凌鶴 ええ。講談の本質は、笑いをとることではないんです。それはどちらかというと落語の考え方に近い。
むしろ講談に大事なのは、人の心の琴線に触れるような、心が動くような、そんな要素なんです。もちろんその中に笑いが含まれるのもいいですが、必ずしも中心ではありません。
物事の本質を見極め、一番伝わりやすい形で伝え、人の心を動かす。それが講談師の腕の見せ所だと思うのです。
伊沢 私も糞土師としてのエピソードでよく話すのが、「たった一回の野糞のために、マチュピチュとかみさんを棒に振った話」なんです。
どういうことかというと、二度目のかみさんと南米ペルーに、インカ文明の地をめぐる旅に行った時、マチュピチュなんて山の中の遺跡なんだから、ちょっと林に入ればどこでも野糞できるだろうと髙を括っていたんです。ですがいざクスコの町に着いて明日はいよいよマチュピチュという段になって、とんでもない情報が入ってきました。
マチュピチュでは観光客が帰るときに、山の斜面を駆け下りながらバイバイを繰り返すグッバイボーイというのがいたんです。もし野糞をしているときにグッバイボーイに見つかって、ニュースにでもなったらどうしよう。日本人観光客はこんなところで野糞をして、と私一人への批判ではなく、多くの日本人に迷惑をかけてしまう。
とにかく糞土思想の主旨は、「食べて命を奪った責任を果たすために、野糞で命を返そう」という生きるための責任を果たすことです。私はそれを最も大切にしていますが、かといって、それで誰かに迷惑をかけることはできません。
だから絶対に野糞を諦めたくなかったので、この旅のハイライトだったマチュピチュツアーを直前になってキャンセルしてしまったんです。今思えば、それも離婚の一因になっていたかもしれないですね。
というのは笑い話でもあるんですが、そのエピソードの裏には、マチュピチュに行きたいという欲望に流されずに、私がいかに糞土思想に真剣に取り組んでいるかという事実がある。そこまで見てほしいんですよね。
凌鶴 そうですよね。「面白いもの・人」の背景まで調べて、実はすごいポイントはここなんだ、という本質まで伝えることが大切だと思います。
私も伊沢さんの講談を書いたときは、東京のさまざまな図書館から本を取り寄せて、下調べをしてから書きました。そういった学びの姿勢は、大事にしたいですよね。
死をどう乗り越えられるか
伊沢 一方で凌鶴さんの講談を聴いて、もう少し進化させられるのではと感じた点もありました。というのも今回聴いた講談の内容は、野糞に関する話題に終始していると思います。ですが最新の糞土思想は、そこから大きく進歩しているんですよ。
その深化の最大のポイントは、「しあわせな死」についてです。多くの人が最も忌み嫌うものが、ウンコと死ですよね。これまで私は永年に亘ってウンコの方に向き合ってきた中で、自分自信のウンコは不要なカスであっても、自然界では他の生き物の食べ物になり、そのことで命が無限に循環することを知りました。それを「ウンコはごちそう」という言葉にすることで、ウンコ問題の解決策を見出しました。
だからこそ次は、終末や苦しみ悲しみといったマイナス面でしか捉えられなかった死を、どうしたら乗り越えられるか。つまり死を「有意義なしあわせなもの」として、どう捉え直せるかを考えているんです。
凌鶴 なるほど、そうだったんですね。しあわせな死に関しては、私も一つエピソードがあります。2006年に父が亡くなったのですが、親族の関係で父方のお墓に入れたくないということで。ではどうしようかと家族で相談して、東京の檜原村の山に散骨することに決めました。
そしていざ骨を撒いてみると、とてもしあわせな気持ちになったんです。骨が風に乗って飛んでいき、ちょうど光の加減なのか、虹のように美しく見えました。いまでも山を見ると「あの辺りで眠ってるのかなあ」なんて思えてきます。
わたしも正直この経験をする前は、「死んだらお墓に入るのが当たり前」と考えていました。ですがいまとなっては、自然に還せてよかったと満足しています。そういった経験があったからこそ、伊沢さんの「食べた後の残りカスのウンコは土に還す」という糞土思想が、すぐに腑に落ちたのかもしれませんね。
伊沢 それは素敵な話ですね。私が考えるしあわせな死とも深く関係したお話で、凌鶴さんとの共通点がどんどん見えてきて嬉しいです。
私としては、今の身体の状態も含めて、次に向き合うべきは死だと心を決めているんです。実はこの2~3年で歯がボロボロになり、上下の歯が噛み合っているのは、左側の小臼歯一カ所しかなくなってしまいました。噛み切るのも噛み潰すのも、とにかく大変なんです。
でも、治療は一切しないと腹をくくったんです。今は食べ物を食事用ハサミで細かく切ったり、すりおろしたりと工夫しながら、残った歯で食べられるものをなんとか食べています。そうして何も食べられなくなったら、野生動物と同じように自然のままに死に向かえばいい。私もお墓になんて入らないで、しっかりと自然に還りたいと考えています。その方法を今まさに模索中です。
つまり、自分の死骸もウンコと同じように、自然の中で他の生き物の栄養になり、新たな命となって自然の中で循環し続ける。そのように死もプラスの方向に考えられたら、怖いものなしだと思いませんか。そうした観点を、ぜひ講談の中にも盛り込んでほしいのです。
死ぬことで「しあわせな死」を実現する
凌鶴 伊沢さんの考えは、よく理解できました。ぜひ講談内容を深めていきましょう。ですが、あえての提案なのですが、歯はしっかり治して長生きして、伊沢さんの考えを広め続ける選択肢もあるのではないですか?
伊沢 ええ、みんなそう言ってくれるんですよ。ですが、それは私の真意を理解していないんです。もっと長生きしてこの思想を伝え広めるというのは、私を個体として捉えていますよね。私は自分自身を、自然全体の中の一部と考えているんです。そこが大きな違いです。
凌鶴 どういうことでしょう?
伊沢 一人ひとりを個人的に捕らえれば、死ねばその人の活動は終わります。だからずっと生き続けて、活動を継続して欲しいと考えるわけです。でも社会全体で考えたなら、何かしっかりしたものを社会に残せば、死んだ後でも多くの人の心に存在し続けます。たとえば小説でも絵画でも優れたものは、死後何十年、何百年経っても、様々な人の人生に大きな影響を与えています。宗教や哲学なんかだったら尚更ですよね。
そして糞土思想は、実践哲学なんです。ウンコについて答えを出せたのは、野糞を実践してきちんと自然の中で循環していることを実証したからです。机上の空論ではなく、実践とデータに裏付けされているからこそ、自信を持って野糞の素晴らしさを提案できるわけです。
同じように、本当にしあわせな死を解明したいのであれば、自分の死体を循環に乗せるという実践で証明する必要があります。
今ほとんどの人は、この世に生まれることや生きていることは素晴らしい、でも死んだら終わりだと考えています。ですが、自分も土に還って他の生き物に食べられれば、自分の命は新たな命となって続いていくんです。死んだって終わりじゃない。
それを証明するために、死体をどう循環させられるか、自分が死んで実践したいんです。ウンコに対して野糞の実践で答えを出したように、しあわせな死に対する答えは私が死ぬことで見えてくるんですよ。そこに行き着くまでを、今楽しみながら取り組んでいるんです。
凌鶴 そういうことなんですね。伊沢さんの気持ちがよくわかりました。日本でも土葬ができる地域もあると聞きますから、そういった場所で土葬される計画なんですか?
伊沢 いや、私としては半世紀に亘って野糞をして育ててきたプープランドに埋められて、プープランドの土になりたいと考えているんです。ですが、野垂れ死にして見つかったら不審死体として回収されてしまうし、誰かに手伝ってもらったらその人が死体遺棄や自殺ほう助の罪に問われてしまう可能性があります。だから今まさに、合法的にプープランドに土葬される方法を検討中なんです。
その最も有効な方法は、プープランドの一画に墓地を認定させることだと考えています。そうなれば、死んだら合法的にプープランドに土葬してもらえる。墓地の認定は自治体に権限があるので、今市役所に掛け合っているところです。これまでは、お寺とか宗教法人しか新たな墓地の認定は許可されなかったのですが、それを覆す闘いが始まったんです。
凌鶴 それは、すごい闘いですね。ぜひそうした要素も含めながら、講談をアップデートさせてください。
伊沢 ぜひともよろしくお願いします。凌鶴さんと思いのほか共通点が多く見つかり、とても期待が持てました。これはもう、何が何でも一緒に磨き上げていくしかないですね。
〈了〉
(執筆・撮影:金井明日香)