糞土アーティストの「エモさ」とは

奥脇嵩大(青森県立美術館 学芸員)×伊沢正名(糞土師)

青森県立美術館(青森県美)で2021年から開催された「美術館堆肥化計画」の一環で、ウンコ掘り返し調査を題材に写真を展示した伊沢さん。念願のリアルウンコ写真展示の実現には、青森県美の学芸員である奥脇嵩大さんの存在が欠かせませんでした。そんな二人が、アーティストとしての糞土師の可能性や、これからの美術館のあり方について語りました。

糞土アーティストという新境地

伊沢 青森県美が取り組む「美術館堆肥化計画」の一環で、2024年の2月から開催していた事業成果展示「美術館堆肥化宣言」内にて、ウンコ掘り返し調査の記録として撮影した、100%ウンコ写真だけでの展示をしていただき、ありがとうございます。

野糞をして土に埋めたウンコが分解される過程で、そこに群がる多くの生き物を生かしている様子を追ったものですが、なんと出し立てのリアルウンコ写真の展示まで実現できたのは、本当に画期的です。

奥脇さんは、糞土師伊沢をアーティストとして認めてくれ、この企画の実現まで漕ぎ着けてくれた立役者です。まず奥脇さん自身は、糞土師のどこにアート性を見出してくれたのでしょうか。

奥脇 実は伊沢さんの作品を見た第一印象は、「エモい」だったんですよね。

伊沢 おお、「エモい」ですか! 具体的にその理由を聞かせてくれますか。

奥脇 伊沢さんはウンコの写真を撮るときに、上から撮らないですよね。自分もウンコと同じ目線に立って撮っているんです。

写真から伊沢さんのウンコとの向き合い方や、他の生き物と自分を対等に見る姿勢がビジュアル・イメージで伝わってくる。そういうところに「エモさ」を感じるのかもしれません。

まさにウンコが主役という構図でもあり、伊沢さんが撮影している時の興奮も伝わってくるような(笑)。

奥脇嵩大(おくわき・たかひろ):青森県立美術館学芸員。1986年埼玉県生まれ。京都芸術センターアートコーディネーター等を経て2014年より現職。主な展覧会企画に「ここから 何処かへ 國府理」(京都芸術センター、2012)、「青森EARTH2016:根と路」、「青森EARTH2019:いのち耕す場所」(共に青森県立美術館)など。美術館とその活動に生きることを再設計する場としての役割を実装することに関心をもつ。

伊沢 そういうことですか。じつはウンコだけでなくキノコなどの撮影でもそうだったんですが、私はそれらの被写体の凄さに魅了されて、言い換えれば尊敬の念を持って撮っているんです。だから決して上から目線にはならないし、気持ちの上でも見上げる視線で写しているんです。そういうものが写真に現れているとしたら嬉しいですね。

私がまだ写真家だったときはそんなこと考えもしなかったのに、糞土師になって初めてアーティストだと意識したのは、10年ほど前のことでした。川や海岸などに落ちているゴミを拾って、それで凄い作品を作ってしまう柴田英昭さんというアーティストが、私のキノコの写真を「ポップだ」と表現してくれたんです。キノコ図鑑の中の写真なんだけど、他の写真家の撮ったキノコ写真とは佇まいが違うと。

それが今度は奥脇さんが「エモい」と表現してくれるなんて、嬉しいですね。

奥脇 伊沢さんの作品のさらなる魅力は、被写体そのものを写しているだけではなく、そこに流れる時間や働きまでを表現している点だと思います。

特に今回の展示では、ウンコを出して、ウンコが分解されて、他の生き物のご馳走になって土に還るという一連の働きに流れる時間が現像されています。人間のウンコが自然に対してどう働きかけているのか、その作用までが見えるんですね。

伊沢 確かに今回の展示は、自然の中ではウンコはこんなにもすごい作用を及ぼす力を持っているんだぞ、というのを訴えるのがテーマでした。

リアルウンコの写真と分解過程の写真

奥脇 そうした「時間の経過」という観点は、実は美術館に足りないものでもあるんです。というのも美術館は、時間を恐れているんですよ。

伊沢 えっ、時間を恐れている? それは一体どういうことなんですか?

奥脇 多くの美術作品は、時間が経てば劣化します。価値が下がってしまうからこそ、作品をしまう立派な収蔵庫を造って完璧に温度管理をし、「変わらないこと」「時間の経過を感じさせないこと」を良しとしてきたのがこれまでの美術館です。

ですが、何事も変わることからは逃れられない。さらに、ウンコの分解過程のように、変わること自体に含まれる面白さや豊かさもあります。そうした時間や動的な作用までも表現しているのが、今回の展示内容だと考えています。

伊沢 そんなふうに捉えてもらっていたとは、光栄です。

じつは奥脇さんの紹介で出会い、高松での美術展に私も参加させてもらった鴻池朋子さんとも少し前に対談したんですよ。そのときに鴻池さんが言っていました。作品を長期間屋外で野晒し展示して、時間の経過による変化も作品の重要な要素だと。

そういう声が作家の側から出てくるのは分かります。しかし、美術館側からそれが出てくるというのは、これは画期的なことだと思います。というか、それこそが奥脇さんならではの面白い、今後の美術界に期待できるものですね。

鑑賞しながら野糞の練習?

伊沢 今回の展示を通して、「アートとは何か」「なぜ糞土師にアート性を見出せるのか」を改めて考えました。そこで「アートとは表現だ」というのを強く再確認したんです。

世の中に対して訴えたいことや問題提起があり、それを何らかの手法で表現していれば、全てアートなのではないかと。従来はその手法が絵や写真などに固定化されていましたが、私の場合はそれがウンコや野糞という行為そのものだったわけです。

そこに行き着いてからは、私もアーティストであると胸を張って言えるようになりました。ところで奥脇さん自身は、アートをどう定義しているんですか?

奥脇 私はアートとは、社会と個人の間をとりもち、それを受け取った人に次の動きを準備させる「働き」と捉えています。人と人、人とものの間に立って、相互作用を促進させる存在がアートなのではと。極論を言えば、「アート=コミュニケーション」と考えてもいいのかもしれません。

伊沢 アート作品を単体として見るのではなく、人や社会との関わりに注目するんですね。


奥脇 ええ。アートを作品単体で捉えることも大事ではありますが、どうしても価値を焦点化、固定化せざるを得ない。美学的な価値とか、経済をどれくらい回せるのか、とか。そういった観点とは別の次元で、アートが果たせる役割があると思うんです。

逆に、アートを働きでありコミュニケーションであると捉えれば、アートはより双方向なものにもなれると思うんです。この作品を通して、お互いの世界をどうより良くできるか、と問いかけ合うような。

奥脇さんが中心となって進める美術館堆肥化計画とその成果展示「美術館堆肥化宣言」。美術館の活動を、土壌を豊かにする“堆肥”になぞらえ、地域社会におけるアートと美術館活動の相互作用を促すプロジェクト。

だから伊沢さんの写真の展示構成を考える際も、「この作品で働きかけたいことはなんだろう」という根本を見すえ、それを鑑賞者に受け渡すにはどのような展示がいいだろうと、じっくり考えました。そこでウンコの働きという時間の流れを見せて、そこに鑑賞者の身体の運びや時間の流れを連ねたいと考えたんです。

伊沢 展示の仕方で言えば、奥脇さんのアイデアに本当に助けられました。私は出したてのリアルウンコの写真もどんどん見てほしいから、最初はもろに見られるように展示したいと思っていたんです。

ですが心の準備ができていない鑑賞者には、さすがにインパクトが大きくて逆効果になる懸念もある。そこで奥脇さんが、リアルウンコの写真は裏返して展示し、見たい人だけ自分でひっくり返すという展示方法を考案してくれたんですよね。

写真をひっくり返すとリアルウンコを見られる仕掛け。

奥脇 ええ。自分で意思決定をしてから能動的にひっくり返して見てもらえた方が、お互い気持ちいいのではないかと。しかも裏返して覗き見するという行為には、ちょっとしたドキドキ感がありますよね。

あとは、リアルウンコの写真はあえて下の方に置いたので、しゃがまないと見られない仕組みになっていました。つまりそれは、ウンコ座りをする野糞の姿勢です。展示を見ることが、実は野糞の練習にもなっている……といった構図になっても面白いなあと。

伊沢 なるほど! これまで美術館は特別なことをしなくても見られる展示がほとんどだったと思いますが、身体全体を使って鑑賞するというのは全く新しい展示方法だと思います。まさに奥脇さんならではの視点ですね。

写真をひっくり返す来場者たちの様子

私はストレートすぎる性格なので、しばしば自分の想いを押し出し過ぎて暴走しがちですが、奥脇さんのセンスでそこをうまく包み込んでもらい、多くの人に受け入れられる展示を実現できました。そして何よりも、「こんな汚い物を公共の場で見せるとはけしからん!」というような、困ったクソ真面目人間からのクレームも一切無かったそうですね。

別々の得意分野や感性を持つ二人が寄り添うからこそ実現できた、まさに共生の結果ですね。

私たちは大きな流れの中にいる

伊沢 今回の展示や対談を通して、奥脇さんは時代の最先端を行っている学芸員だと改めて感じました。これから奥脇さんは、美術館をどう変えていこうとしているんですか?

奥脇 先ほどお話したことと近いのですが、美術館には人と人、人ともの同士のコミュニケーションを仲立ちしながら、ものに出逢った人が自らの生きる、ということを拡充させることができるような場所であってほしいと感じているんです。

現在の美術館の多くは、一方的に長々と作品の解説文を書いたり、「こういう風に鑑賞してください」と指示を出したりしています。

ですがそういった一方的な姿勢では、鑑賞者はその作品と自由にコミュニケーションできないし、能動的に世界を捉え直すことができないかもしれません。とはいえ美術館の作品を何でもかんでも触ってもらうわけにもいかない。そもそも、言葉で伝えた時点で陳腐化してしまうものもたくさんある。

だからせめて、どうしたら美術館にコミュニケーションのための余白をもっと作れるか、というのは、私の大きなテーマですね。


伊沢 何か具体的なもくろみはあるんですか?

奥脇 正直、緻密な計画やロードマップがあるわけではないんです。こうした取り組みは、周りの人やものとの相互作用の中で起こっていくものだと考えています。

だから自分で強い意思を持って何かをコントロールすることに、あまり意味がないと思っています。仮に自分でコンセプトをガチガチに固めて、それに合いそうな作家をあてがって……という展覧会を作ったとしても、おそらく面白いものにはなりません。

それよりむしろ、いかに美術館の外部を巻き込んで、結果としてあらわれる世界をいかに見せるか。実際に最近では、自分の感覚を信じて世界に参加し直すことに、自覚的に取り組む人は増えていますよね。そういう人たちとやりとりをさせてもらうことから、次の美術館の姿は自ずとできてくるのではと考えています。

伊沢 ああ、その感覚は非常にわかります。綿密に計画してもうまくいかないのに、いきなりすごい出会いがあって物事が急激に進んだりする。ですがそれは偶然ではなくて、必然なんですよね。

先日ジャーナリストの高世仁さんと、人間はどう生きればいいのか、その大本にある「コスモロジー」について話しました。その中で、人間は自分の意思で何でも自由自在に出来ると思っているけれども、じつは宇宙には大きな流れがあって、人間はその流れの中に組み込まれていると。

こうして奥脇さんと出会えて、念願のリアルウンコ展示まで実現できたことも、偶然というよりは必然的なものだったんじゃないかと感じています。

奥脇 私も青森県美にやってきて、こうした美術館堆肥化計画のようなプロジェクトを進められているのは、何か大きな縁のおかげという気がしています。

伊沢さんの作品は、野糞という手段を使って、社会に参加し直そうとする試みそのものですよね。世界から自分を切り離して作品を作るのではなくて、世界との絡まり合いの中で、自分もそこに巻き込まれながら作品としての糞を作る、排泄する。

人間を含めた自然界の全ての他者とともにいる。そこで融和するわけではないけれど、お互いが存在することを喜び合っている。「大きな流れの中にある」という伊沢さんの感覚が、作品にも表れていると感じますね。

とはいえ、最初に出したてのウンコの写真を展示したいと言われた時は、正直「うーん、困ったな」と悩んでいたんですけどね。結果的に自分自身も良いウンコとしての展示を提案させてもらえて何よりです(笑)。

伊沢 やはり最初は困らせてしまっていたのですね(笑)。そんな中で絶妙なアイデアをひねり出し、素晴らしい展示に仕上げていただき本当に感謝しています。ぜひ、今後も奥脇さんとタッグを組んで共生していきたいですね。

〈了〉

執筆・撮影:金井明日香