ウンコと食を繋ぐ救世主(前編)

伊沢正名(糞土師)×多多納直美(料理研究家)

命の循環を強く訴えながら、出すことばかりで食べることはまるでダメ。そんな糞土師の前に突然現れた多多納直美さんは、食の専門家でありながら出すことにも真摯に取り組む、食とウンコを繋ぐ救世主。糞土師のたっての願いで対談が実現しました。

「命と循環」というテーマから食を伝える

多多納 私はこれまで、調理を通して「食」に長く関わってきました。自然食、野菜食の実践とともに、「命と循環」というテーマから食を伝えることを意識してきました。

伊沢 料理というと、一般的には美味しさや健康のため、という観点が強いですよね。

多多納 そうなんです。食を突き詰めていけば、美味しくて健康に良い、美しくなる、というのは当たり前で、さらに「命」を繋げて考えていくのが私のスタンスです。

実は私の料理教室では、作ったり教える時間よりも、話しているほうが長いんです。私の料理の師匠である東條百合子先生がそうだったんです。料理教室に行くと、調理を始める前に、1時間半ほどの講義がありました。命とは何か、さらには人間の生き方についての話を聞く。それからいざ料理をする、となったら、「自分で考えなさい」と言われて終わりでした。答えを教えるのではなく、いかに自分で考えるかを大事にしていた師匠でした。

今は亡き師匠と伊沢さんが繋がったら、面白かったでしょうね。とにかく師匠は、真実をきちっと知りなさい、という人でした。食べ物も嘘偽りじゃなく、本物を食べなさい、と教えていただきました。本物を食べれば偽物がわかるでしょ、だから必ず偽物も、自分で体験しなさいと。

だから伊沢さんのウンコの話を聞いた時、ああ、これは本物だと思ったんです。排泄という行為について、本来はいかにあるべきかを考え、どう自分なりに試行錯誤できるのか。そしていかに真実の生き方ができるか、ということを考えるきっかけになりました。何かに出会ったら、工夫して自分なりにアレンジするというのは、本来は当たり前のことですよね。

伊沢 今の社会では、自分で探求する面白さを皆なくしちゃってますよね。人から聞いて簡単に学んじゃう。でも本来、自分で体験しながら確認していくところに、本物の楽しさがあるはずです。

多多納 料理についてもそういう風潮があります。本当はプロセスが楽しいはずなのに、面倒くさい、という人が多くなったので、食事も買ってきて電子レンジでチン。今では料理の専門家の方でも、普通にレンジを使う時代です。火を使わずに、レンチンご飯だなんて、私にとってはあり得ないことです。

伊沢 最近聞いた話ですが、お金に困っている人がカップ麺をいっぱい買い溜めして、それを我慢して食べ続けているというんです。つまり、こういう人はちゃんと料理する意識もなく、レストランで食べるのとカップ麺の値段の比較でこっちのほうが安いぞ、と思っているだけです。自炊したら、もっと安上がりでいいものが食べられるはずなのに。私なんてカップ麺の値段でさえ高いなと感じてますよ。

多多納 でも、そうさせる方向にみんな持っていってますよね。これに包んでお魚を焼けば、まるで焼いたみたいになりますよ、というアルミホイルのようなものがあるんですけど、そんなの、焼けばいいじゃないですか。「まるで焼いたみたい」って、それはつまりフェイクなんです。

伊沢 世の中が本当に変わりましたよね。時間的に言えば、この半世紀です。だから半世紀前の価値観を共有できたら、以前の価値観や暮らしに戻れるんじゃないかと思っています。

多多納 お金が無くても、豊かに楽しく生きられた時代でしたよね。

伊沢 私は戦後生まれで、貧しい時代に育ちました。ものがないから野山を駆け回って遊び、その自然の中での体験が今では生きる基本になっています。ものがなかったから自分で工夫したり、いろいろ見つけようとしたわけです。そんなあの頃のほうが、むしろ心は豊かだったと感じています。

発酵食品は、微生物のオナラやウンチ

多多納 今日はこれ!。柚子の酵素を作ってきました。お砂糖と合わせてからブクブクになるまで発酵させるんです。簡単に言えば、非加熱のジャムのようなものです。柚子についている元々の酵母菌を使って、酵素発酵させたものです。発酵させるための酵母は特に加えず、手についた常在菌を入れながら、発酵させていくんです。でも腐らない。腐らずに、バイ菌じゃないものだけがちゃんと発酵していきます。砂糖の濃度がある一定数を超えているからです。お味噌を作るときも、お塩を入れることでバイ菌が発生せず、お塩の中で生きる酵母菌が抽出されます。

発酵は全部そのあり方が違うんですけど、要は微生物が食べて残った残骸なんです。彼らから言えば残り物、吐き出したブクブクです。子供たちの前で、「このブクブクしているのは、微生物のオナラかな?ウンチかな?」と言ったら、すごく喜ぶんです。でも本当に微生物のオナラやウンチなんですね(笑)。そうして子供たちが、素手を入れて掻き回すと、これがまた、よく発酵します。

(対談の際、多多納さんが持ってきてくれた柚子の酵素(右側)。美味しかった!)

伊沢 葡萄からワインを作るときも、本来は人の素足で踏み潰して作りますよね。そのとき、若い女性がやるといいらしいんです。オヤジよりもね(笑)。

多多納 誰が作るかによって味が変わる、というのは本当なんです。例えば味噌を作るとき、大人だったら綺麗に手を洗って作るわけです。でも子供は、鼻をほじったり鼻水をすすったような手で作ったりします。でも、子供が作った味噌は全然カビないんです。強力な常在菌がついているからです。風邪にしても、子供の風邪を大人がもらうと、子供は鼻水が出るぐらいなのに、大人はひどい風邪をひくことがあります。子供は強い菌を日頃からいっぱい摂取しているので、実は、子供が素手で作った味噌のほうが、パワーが強くて甘くて美味しいんです。

伊沢 ええっ!そうなんですか。でも、今の衛生感覚で言ったら、それはとんでもないことにされてしまいますよね。

多多納 そうなんです。味噌を作る時もゴム手袋をするようにとよく言われますが、ゴム手袋をしていたら味噌は作れないですよ、という世界なんです。

手前味噌と言いますけど、自分で作った味噌は実際に美味しく感じます。同じ材料で作っても、一人一人の手の常在菌が違うことと、 各家庭の微生物も違いますので、微生物のバランスが違うことにより、同じ味の味噌ではなくなるのです。自分の健康に合った微生物の味噌になる事で、自分のための最高の微生物ブレンドの手前味噌になるから美味しい(体が必要)というわけです。だから微生物のウンコ、おしっこである発酵食品は素晴らしい。それなしに、私たちの健康は語れないくらいです。

伊沢 多多納さんに出会って一番感動したのはその観点です。普通、料理といったら、見た目の良さや豪華さが注目されます。でも多多納さんは、命の根源の部分を考えています。

多多納 料理は、とても不思議なんですが、実は塩だけのほうが美味しくなるんですよね。何もしていないほうが。もともと素材に力があるからです。

伊沢 10年以上前に北海道の北見市に近い小さい集落に行ったんですが、そこでは人糞肥料だけで野菜を作っていました。その野菜料理をご馳走になったのですが、煮たカボチャがものすごく甘かったんです。聞いたら、砂糖など一切使わず、ただ煮ただけだというんです。人糞肥料だけで、こんなに美味しいのができるのかと驚きました。

多多納 そうそう。素材が良ければ、あまり人間の手はいらないんですよね。実際今の料理は、枯れた土壌で作った美味しくないお野菜をいかに美味しくするか、そのためにいかに調味料を使うかになっちゃってますよね。

伊沢 半月ほど前に一緒に非電化工房の見学に行った帰りがけ、多多納さんがちょっと家に入ったと思ったら直ぐに、おにぎりを握って持ってきてくれましたよね。あのおにぎりの美味かったこと! おにぎりとして以上に、これまでに食べたどんなご馳走よりも美味しかったんです。非電化工房も素晴らしかったけど、あの日の断トツの感動は、おにぎりでした。

多多納 ありがとうございます(笑)。おにぎりって、美味しさがよく伝わるって言いますよね。

青森の佐藤初女さんはご存知ですか?もう亡くなられましたが、ガイアシンフォニーという映画に出演されていました。様々な苦しみや問題を抱えてそこを訪れた人が、その初音さんというおばあちゃんがぽんぽんと握ったおにぎりを食べて、涙が止まらなくなって、生きる力を取り戻した、というエピソードがありました。初音さんに特別な思いがあるというよりは、本当に当たり前の手順で作っただけのおにぎりだったと思いますが、でもやはり、違うんだなあと思いました。

画家の山下清が、お腹が空いたら、おにぎりをもらいなさいとお母さんから言われて、それを実践しながら旅を続けたというじゃないですか。「お腹が空いたから、僕におにぎりを食べさせてください」と言って、転々としながら。でも、わかる気がしますよね。

日本人って、おにぎりを「おむすび」とも呼びますよね。おむすびは、もともと神話に出てくる「ムスヒ」という言葉から来ていると思うんです。人の手で「結ぶもの」ということなんです。日本人はもともと、そういうパワーを理解していたと思います。人の右手と左手も、もともと陰と陽。ご飯と塩を合わせると、それも陰と陽になってくる。おにぎりは、「ムスヒ」のバランスが取れる食べ物なんです。だから、日本食って本当にすごいんですよね。

プープランドで感じた空気の違い

もともと伊沢さんとの出会いは、友人が転送してきた「街録チャンネル」(YouTube)が始まりなんです。そこに伊沢さんが出ていて、「100万回のご馳走さまより、たった一回の野糞で、いかに命が育まれるか」という話をしているのを見ました。衝撃を受けました。私は食べ物の専門家として、これまで食べることしか考えてこなかったので、自分はこれまで一体何をしてきたんだろうと、自分に足りなかったものを見つけた思いでした。それからはインターネットで伊沢さんの活動を検索し、記事もたくさん読みました。そのうち、糞土庵の場所が私の家ととても近かいことも知り、訪ねていったんです。それが伊沢さんとの出会いでした。

その後でプープランドにもご案内いただいたんですが、そこに一歩足を踏み入れた瞬間、全然空気が違うのに驚きました。えっ!何だろう!と思ったんです。

伊沢 プープランドで空気の違いまで感じる人は、実は男性より女性のほうが多いんです。女性は感覚が優れていて、敏感なんですよね。

多多納 プープランドでは、神社の鳥居をくぐったときに感じるような、清らかな空気を感じました。ここでは動植物全部のバランスがとても落ち着いているんだな、と。またあそこに入りたいという感覚ですよね。

伊沢 実際プープランドはすごいんです。じつはインドネシアや台湾など、世界の熱帯から亜熱帯域でまだ4回しか見つかっていない、「リンデリナ」という菌がいるんです。カマドウマなど土壌動物のウンコに生える菌なんですけどね。その菌をなんと、最近出川さんという菌学者がプープランドの土から見つけたんです。だからプープランドでの発見は世界で5番目です。こんな珍しい菌が、なんでこんなところにいるんだ!と、大発見でした。

多多納 プープランドには本当にいろんな菌がいるんだろうし、また、いろんな方が野糞して、それを分解するための菌もいるんでしょうね。

伊沢 グレートジャーニーの関野吉晴さんは今、「ウンコと死体の復権」という映画を作っていますが、そのウンコの撮影をプープランドでやっているんです。具体的には野糞跡掘り返し調査のドキュメンタリーですけど、そこで明らかになったのが、ここでのウンコ分解速度は普通の林に比べて2倍も速いんです。しかも添加物だらけの食品を食べたジャンクウンコでさえ、同じく2週間ですっかり分解していたんです。

プープランドには、私が野糞を始めた50年前からの歴史があるわけです。そして野糞で、あの林がこんなに元気になったんだ、というのが証明されたわけです(笑)。

多多納 プープランドに実際に行って、空気が本物だと実感した私は、伊沢さんの本を買って読みました。こんなに泣いたり笑ったりして読んだ本はこれまでなかったです。伊沢さんの生き方、一回の野糞にかける集中力と根性が、とにかくすごいんです。ここで野糞するのか!と思ったり、虫に刺されたり・・・。とにかくすごい野糞の回数とドラマチックなシーンに、泣いたり笑ったり。そしてそこまでとことん突き詰めながらメッセージを残そうとしている伊沢さんの活動に、鳥肌がたちました。

伊沢 嬉しいですね。糞土師活動が世間一般の常識から外れていることは、自分でもよく分かっています。ただ、これこそ人間にとって最も大切なことだと思っているんです。だから、これからの人間の生き方の方向性を考え直すきっかけとして、なんとか残したいんですよ。

食べることは、大地と密接に繋がっている

多多納 私もここまで伊沢さんの考えに共感するようになったのは、これが人間にとって外せないことだということが本当によく理解できたからなんです。食べることも外せないけれど、同じくらい、食べたものをどう出していくかも外せない。その行為や影響に目を背けていたら、循環が止まっちゃうんだよ、ということを学びました。それを現代の人が、うまく活用していけるような流れになっていったらいいな、と思います。

伊沢 私の活動は、みんなが嫌がるウンコと野糞で訴えようとしてきたから、なかなか受け入れてもらえないわけです。ところが料理は、誰にでもどんどん受け入れられます。ただ料理の分野は、見た目や食材、美味しさなどを追求するだけでしたが、そこに料理研究家の多多納さんが現れて、食とウンコを繋げてくれました。私にとって多多納さんは、救世主です。糞土思想はウンコだけではなかなか伝わらないし、食だけでもダメ。しかしそれを多多納さんが、命の循環というところで結び直してくれた。やっとここで、糞土思想が完成するぞ、と思ったんです 。

(時にはこんな奇想天外な姿も見せてくれるトグロウンコは、野糞の醍醐味だ!)

多多納 食べることは、大地と密接に繋がっています。美味しい食べ物を得るためには、植物を育てたり土を肥やしたり、微生物なしには語れないんです。完全なる循環をしていくために、人が出したもので大地が蘇って、そこでまた作物を作って、というのが、本来のあるべき姿だと思います。

伊沢 多多納さんは、本当に根源までよく理解してくれています。今の社会では、料理も調味料で味をごまかされている。資本主義の害ですよね。資本主義はいかに金になるかどうかですから。ところが野糞は、経済効果ゼロなんです。おまけに紙も使わない。紙さえも売れない。

多多納 そして野糞もまた、する人にとっては直接の利益がない行為ですよね。食べ物は、体にいいものを食べれば健康になるという自覚が誰にでもあるので、自分に対する欲がある人は、良いものを食べようと考えるわけです。しかし排泄については、直接の利がないんです。だから糞土思想に向き合える人は、自分の利害ではない部分で向き合える人だけ、という厳しさもありますよね。

伊沢 だから、糞土思想の一番大切なキーワードは「責任」なんです。自分の生きる責任を果たすこと。自分が生きるだけではなく、自分を生かしてくれる相手に、いかにお返しできるか、です。だから相手中心なんです。ところがみんな、自分さえ良ければと思って生きているから、どんどん環境が悪くなっていく。しかも野糞というのは、実際はとても気持ちのいいものなんです。義務と責任感だけではなくて、こんなに素晴らしい快楽の世界があるんだぞ、というのも伝えたいですね。

多多納 私はまだ、快楽の世界まではいっていないですね(笑)。ただ、野糞をすることで責任を果たすという喜びはあります。「事件の犯人は何度も現場に足を運ぶ」と言いますが、私も何度も、埋めた後の現場を見に行きたくなるんですよ。そこから蟻が出たり入ったりしている姿を見たり、雑草が生えてきたりなんかすると、なんとも言えない豊かな気持ちになってくるんです(笑)。ただ、出す瞬間の快楽を経験するためには、リアル野糞の体験回数かなと思いますね。

(プープランドの野糞跡の目印前で、さらなる野糞への思いを語る多多納さん)

伊沢 あとはお尻を拭く葉っぱですよね。いい葉っぱを使うとさらに気持ちいい。

多多納 そうですね。ただ、今はいかに素早く出そうかを考えてしまいますね。蚊が私のお尻を狙っているんじゃないかとか、気持ちが集中しきれなくて(笑)。

伊沢 まだ野糞を始めてから数ヶ月ですものね。

多多納 でもバケツを使用するのはだいぶ余裕が出てきました。この前伊沢さんからお聞きした、〝バケツ野糞は男には向かない〟という話は、皆にウケちゃったんですよ。女性がバケツをお尻に入れるのはいいんだけど、男性はアレを前に出したらいいのか、中に入れたらいいのか、置き場所に困る、という話です(笑)。

伊沢 バケツの縁にちょうどぶつかるんだよね(笑)。バケツ野糞は、私はたった1回やっただけで懲りました。だから男は、もっと浅い洗面器野糞がいいですね。

多多納 バケツをうまく使うことによって野糞ができるようになる女性は増えていくでしょうし、バケツだと、埋めるのも後でじっくりできるのがいいと思います。

伊沢さんが書いた『葉っぱのぐそをはじめよう』には、葉っぱで拭いた感触とか、全部載っていますよね。葉っぱをこんなふうに表現するなんて、面白いアイディアですよね。それこそ、植物学者の牧野富太郎先生が知ったら驚くでしょう。伊沢さんと現代対談をしていただきたいくらいです。

伊沢 それが出来たらすごいですね!

だから観点を変えれば、まるっきり違ったものが見えてくるんですよね。研究とはこういうものだとか、植物学には植物学の固定観念があります。でも、それが癌なんです。学問はこうあるべき、というものに縛られちゃっているから視野が狭くなります。だから知っているということで逆に、その範囲に閉じ込められちゃう。本来、知らないほうが自由で、素晴らしいんです。私が一番尊敬する芸術家は山下清ですが、彼は頭の中を完全に空っぽに出来る。とてもあの域には辿り着けません。仏教でも「空(くう)」、何もない空っぽが理想ですよね。しかしそれは、言葉としては理解できても、実感しにくいもので、普通は観念で終わってしまいます。それが問題なんです。だから糞土思想は、観念論ではなく、「野糞で命を返す」という実践を大切にしています。実践哲学であって理屈じゃないんだ、と。「100万回のご馳走さまより、たった一回の野糞」というのはそのことなんです。

多多納 いや〜、本当に返す言葉がありませんね。それを今まで見落としていた自分を省みて、これからこの部分をしっかり埋めていきたいなと思います。

(自然な身体感覚を取り戻そうと、靴下を履かずにいつも裸足の多多納さん)

伊沢 私は今73歳になって、これまで半世紀に亘って野糞を続けてきたからこそ、糞土師としてここまで来られたんだと思います。5年や10年では無理だったでしょうね。

多多納 半世紀も! 伊沢さんじゃなかったら、なし得なかったことですよね。

糞土思想や循環の考え方になかなか気がつきにくいのは、みんな生まれてからこの方、排泄はトイレでするのが当たり前、とされているからだと思います。私自身もそれが当然と信じ込んでいたんですよね。だから野糞は、緊急事態のあり得ないパターンだと思っていました。でも、実はこっちの方が自然だというのを知るようになって衝撃を受けました。

それにしても、この半世紀を挫けずに、糞土思想を実践して走り続けられて、それでまだまだと言っている伊沢さんの生き方が、本当に素晴らしいですよね。

伊沢 私は、人の真似をしていい思いをしても、魅力を感じないんです。新しいものを自分で見出して初めて、喜びを感じるんです。それが私の困ったところなんですよ。

目指しているのは心豊かな生き方

多多納 私は宇都宮にレストランを持っています。なかなか材料費を削ってできるお仕事ではないので、これまではあまり採算を考えずに料理を出してきました。

ものが買えて料理が出せて、自分が生きていればそれでいいかと考えていたんですけど、それをすると、寝る間を惜しんで準備しないといけないし、自分の趣味も全部つぎ込んでいかなきゃいけない。本当に今後もこのままでいいのか、と考えるようになりました。いつかこういう世界を作りたいし、こういうことをしたい。でもそれはいつ、いつなの?と自分に問いかけて、一旦しっかり休憩をして整理をするために、今は料理教室やお店も全て止めて、考える時間を過ごしています。

自分が納得していく生き方と経済の両立は本当に大変ですが、お金を優先すると、本末転倒になってしまうんですよね。

伊沢 私が写真家を辞めたのもそこなんです。もともと自然保護をやっていたので、写真を通して自然の素晴らしさを、特に菌類の分解の働きの素晴らしさについて伝えたいという思いがありました。でも出版社にはお金を儲けたいというのが先にあるし、読者もこのキノコを食えるのかどうなのか、というほうにばかり興味がいくんです。確かに本はどんどん売れて、経済的には潤いました。でも、本当に自分が伝えたい肝心なことが伝わらないんです。写真家としての限界が見えました。それで、お金にはならないけれど、ストレートにウンコで訴える糞土師になるため、写真家をやめたんです。やっぱり自分の思い通りに、伝えるべきことをきちんと発信して生きていきたいと思ったからでした。

多多納 社会をひっくり返すのは難しいですが、社会と一緒に歩まなくても、生きていける生き方、そうした人たちを増幅させていったらいいと思います。まずは、自分が巻きこまれる生活から外れていくということをしていきたいですね。

伊沢 そうですね。それから、糞土思想を広めるために、みんなが受け入れやすい軽いものにすると、意外と本質が薄まっちゃうんです。広め方は二つあって、広く大きく広めるのと、数は少なくてもいいから、本当に自分が訴えたいものをしっかり受け止められる人に伝えるというのがあります。私は後者を優先していて、本質が薄まったものを広く伝えても、そんなのはしょうがないと思っているんです。

多多納 私も同じです。大きく活動して広く伝えるというよりも、しっかりと根付いた人たちにだけ伝えたいです。目指しているのは心豊かな生き方、お金では買えない豊かさなので、それにはどうしたらいいのか、というところを、そうした仲間たちと一緒に考えていきたいですね。

           〜ウンコと食を繋ぐ救世主(後編)へ続く〜

                                                                (取材・執筆・撮影:小松由佳)