「生ききりたい」(後編)

他の生き物の犠牲の上で生きている

伊沢 これは糞土思想のほうに入るんだけど、人間1人が生きるためにどれだけの自然や生き物が犠牲になっているかを考えちゃうので、マイナスの人生じゃないかと思ってしまう。本人にとって何かあるならいいけれど、それがなくて単に命をつなぐだけになったら、すごい犠牲がそこにあるから。

当人だけではなく、医療に関わる人など、その人を助けるため色々な人が関わっている。そういう人たちも自然から奪いながら生きている。総合して考えたら、1人が生きるためにものすごい犠牲があることを良しとしていいのかっていう。だから倫理観にまで入っちゃうんです。

淳子 うーーーん……。

伊沢 これだけ地球上に人間が増えて高齢者も増えて、人間社会がものすごく大きくなった。人間ってやっぱり自然から奪って自然を犠牲にして生きているんだから、その分のプラスマイナスを考慮しないで、ただ生きてるっていうだけじゃ……。

昔は食料が足らなければ姥捨山をやっていましたよね。その諦めのようなものも、ある意味大切かなと思うんです。

淳子 でも、日本人にはそういう諦観ってあったはずだと思うんですよね。

伊沢 それが今はね。

淳子 そう。私自身は、どんどん変化していって必ず最後に死があるという、そういう意味では無常感のようなものは常に今までもずっと持っていた気がするし。ただ、80歳を過ぎて杖をついて病院に来ている患者さんを見て、なんでだろうと考えさせられたりはします。

延命は正しいことなのか?

伊沢 以前青森県へ講演会で行ったとき、参加者の1人からこんなことを聞きました。「本人も家族も延命治療はしたくなかったのに、親戚からどうして長生きさせないのだと非難されるのが怖くて胃ろうを受け入れた結果、母は何年も苦しんだ末に亡くなりました」と。そういう命に対する人権意識がすごく怖い。

淳子 逆に尊厳が損なわれるというか。ものを食べられなくなったら胃に穴をあけて突っ込むとか、それって医療なの?っていうか。

山仕事仲間の「五反舎」忘年会でコスプレ(写真提供/村松裕子)

伊沢 そこまでして生かすかというか、人によってはかえって苦しめられているよね。その方もガリガリに痩せて、ひどい状態になって亡くなっていったそうです。そして家族は高額な医療費に苦しんでいる。

それでも周りの人たちは無責任に「生きろ」と言う。それってすごく残酷だし、それが人権なのかと疑問になるんです。でもそれが一般的ですよね。

亮之介 生きていることだけに絶対的価値があって、とにかく生きていればいいと。

伊沢 そうそう。さっき言ったように、生きるために自然も犠牲にして、そこを抜きにして人間さえ生きていればいいんだという人権感覚をなんとかしないといけないなって考えているんです。

淳子 多くの人はピンピンコロリを望むけれど、夜寝たら朝目覚めなかったというのはなかなかないし。たぶん老いて病に苦しんで、というプロセスをたどる人のほうが多いですもんね。